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☆三島由紀夫の主義・主張★

1 :ナナシズム:2009/11/17(火) 15:36:29 ID:???
文学者でありながら最後は憂国士として華々しく散った三島由紀夫の主義・主張。

http://www.geocities.jp/kyoketu/61052.html
檄文 三島由紀夫

http://www.geocities.jp/kyoketu/61051.html
演説文 三島由紀夫

2 :ナナシズム:2009/11/17(火) 15:44:10 ID:???
言ひ古されたことだが、一歩日本の外に出ると、多かれ少かれ、日本人は愛国者になる。
先ごろハンブルクの港見物をしてゐたら、灰色にかすむ港口から、巨大な黒い貨物船が、
船尾に日の丸の旗をひるがへして、威風堂々と入つて来るのを見た。
私は感激措くあたはず、夢中でハンカチをふりまはしたが、日本船からは別に応答もなく、
まはりのドイツ人からうろんな目でながめられるにとどまつた。
これは実に単純な感情で、とやかう分析できるものではない。
もちろん貨物船が巨大であつたことも大いに私を満足させたのであつて、それがちつぽけな
貧相な船であつたとしたら、私のハンカチのふり方も、多少内輪になつたことであらう。
また、北ヨーロッパの陰鬱な空の下では、日の丸の鮮かさは無類であつて、日本人の素朴な
明るい心情が、そこから光りを放つてゐるやうだつた。

三島由紀夫
「日本人の誇り」より

3 :ナナシズム:2009/11/17(火) 15:45:31 ID:???
それでは私もその「素朴な明るい」日本人の一人かといふと、はなはだ疑はしい。
私はひねくれ者のヘソ曲りであるし、私の心情は時折明るさから程遠い。
それは私が好んでひねくれてゐるのであり、好んで心情を暗くしてゐるのである。
これにもいろいろ複雑な事情があるが、小説家が外部世界の鏡にならうとすれば、そんなにいつも
「素朴で明るい」人間であるわけには行かない。しかし異国の港にひるがへる日の丸の旗を見ると、
「ああ、おれもいざとなればあそこへ帰れるのだな」といふ安心感を持つことができる。
いくらインテリぶつたつて、いくら芸術家ぶつたつて、いくら世界苦(ヴエルトシユメルツ)に
さいなまれてゐるふりをしたつて、結局、いつかは、あの明るさ、単純さ、素朴さと清明へ
帰ることができるんだな、と考へる。

三島由紀夫
「日本人の誇り」より

4 :ナナシズム:2009/11/17(火) 15:46:21 ID:???
いざとなればそこへ帰れるといふ安心感は、私の思想から徹底性を失はせてゐるかもしれない。
しかしそんなことはどうでもよいことだ。
私は巣を持たない鳥であるよりも、巣を持つた鳥であるはうがよい。第一、どうあがいたところで、
小説家として私の使つてゐる言葉は、日本語といふ歴然たる「巣鳥の言葉」である。
「いざとなればそこへ帰れる」といふことは、同時に、帰らない自由をも意味する。
ここが大切なところだ。帰る時期は各人の自由なのであつて、「いざとなれば帰れる」といふ
安心感があればこそ、一生帰らない日本人がゐるのもふしぎはない。
私はこの安心感を大切にするのと同じぐらゐに、帰る時期と、帰る意思の自由とを大切にする。
人に言はれて帰るのはイヤだし、まして人のマネをして帰つたり、人に気兼ねして帰るのもイヤだ。
すべての「日本へ帰れ」といふ叫びは、余計なお節介といふべきであり、私はあらゆる
文化政策的な見地を嫌悪する。日本人が「ドイツへ帰れ」と言はれたつて、はじめから無理なのであつて、
どうせ帰るところは日本しかないのである。

三島由紀夫
「日本人の誇り」より

5 :ナナシズム:2009/11/17(火) 15:47:12 ID:???
私は十一世紀に源氏物語のやうな小説が書かれたことを、日本人として誇りに思ふ。
中世の能楽を誇りに思ふ。それから武士道のもつとも純粋な部分を誇りに思ふ。
日露戦争当時の日本軍人の高潔な心情と、今次大戦の特攻隊を誇りに思ふ。
すべての日本人の繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐひ稀な結合を誇りに思ふ。
この相反する二つのものが、かくもみごとに一つの人格に統合された民族は稀である。……
しかし、右のやうな選択は、あくまで私個人の選択であつて、日本人の誇りの内容が命令され、
統一され、押しつけられることを私は好まない。実のところ、一国の文化の特質といふものは、
最善の部分にも最悪の部分にも、同じ割合であらはれるものであつて、犯罪その他の暗黒面においてすら、
この繊細な感受性と勇敢な気性との結合が、往々にして見られるのだ。

三島由紀夫
「日本人の誇り」より

6 :ナナシズム:2009/11/17(火) 15:47:59 ID:???
われわれの誇りとするところのものの構成要素は、しばしば、われわれの恥とするところのものの
構成要素と同じなのである。きはめて自意識の強い国民である日本人が、恥と誇りとの間を
ヒステリックに往復するのは、理由のないことではない。
だからまた、私は、日本人の感情に溺れやすい気質、熱狂的な気質を誇りに思ふ。
決して自己に満足しないたえざる焦燥と、その焦燥に負けない楽天性とを誇りに思ふ。
日本人がノイローゼにかかりにくいことを誇りに思ふ。
どこかになほ、ノーブル・サベッジ(高貴なる野蛮人)の面影を残してゐることを誇りに思ふ。
そして、たえず劣等感に責められるほどに鋭敏なその自意識を誇りに思ふ。
そしてこれらことごとくを日本人の恥と思ふ日本人がゐても、そんなことは一向に構はないのである。

三島由紀夫
「日本人の誇り」より

7 :ナナシズム:2009/11/18(水) 11:35:20 ID:afwZterC
このごろでは先生が鞭を鳴らしながら授業でもしたら、「サーカスぢやあるまいし」と、忽ちPTAに
いびり出される始末になるが、むかしは先生は、ちやんと「教鞭」を持つてゐたものであつた。
私自身の小学校時代をかへりみるに、賞罰は実にはつきりしてゐた。
しかし、そこには先生の人徳といふもので、同じひどい目に会はされても、カラッとした人柄の先生には
いつまでもなつかしさが残り、陰気な固物の先生にはやはり面白くない記憶が残る。
(中略)
そのうちに怖いのは先生よりも上級生といふ時代がはじまる。
そのころ鬼よりも怖かつたA先輩など、今会つても頭が上がらない。
私の母校は敬礼のやかましい学校で、一級上の上級生にでも挙手の礼を忘れたら、どやしつけられた。
…小説を書く奴なんか軟派だと言つて目をつけられてゐたから、運動部の猛者は殊に怖ろしかつた。
私は旧制高校の最上級生のとき、総務委員といふものになつて、運動部の予算をもすつかり握る権力を得てから、
はじめて彼らに復讐する快感を満喫したのである。

三島由紀夫
「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より

8 :ナナシズム:2009/11/18(水) 11:36:57 ID:afwZterC
…文学者としての自分を考へると、一般的に「文学を否定する」雰囲気があつたといふことは、自分の文学を
育てる上で、大へんなプラスになつたことはたしかである。
私は天才教育などといふアホなものを信じない。「何クソ」といふ気持を養はせるだけの力がなければ、
何事も育ちはしない。
現在の学校教育の実態にうとい私だが、ほぼ確実だと思はれることは、そこには軟派と硬派の区別もなくなり、
文学芸術を否定する空気もなければ、一方、スポーツ万能を否定する空気もないことだ。
むりやり右へ行けと言はれるから、あへて左へ行く勇気も生まれるので、西も東もわからぬ子どもに、
「どつちへ行つてもいいよ」と言へば、迷ひ児がふえるだけのことである。
その意味で、丹頂鶴の日教組の極端な左翼教育も、私には、失ふに惜しいもののやうな気がする。
この行き方をもつと徹底させれば、反骨ある愛国少年を、却つて沢山輩出させることになるのではないか。
もつとも、そのための極左教育は反抗期の中学生時代からやつてもらひたいが。

三島由紀夫
「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より

9 :ナナシズム:2009/11/18(水) 11:37:55 ID:afwZterC
…自分の我意に対して、それを否定する力のあることを実感するほど、自我形成に役立つものはない。
猿蟹合戦ぢやあるまいし、「伸びろよ、伸びろよ、柿の種」と言つてみたところで、柿は伸びないのである。
万人向きのバランスのとれた教育、四方八方へ円満に能力をのばしてゆく教育、などといふものは、単なる
抽象的な夢であつて、子どもはそれぞれ未完成で、偏頗(へんぱ)な存在である。
個性などといふものは、はじめは醜い、ぶざまな恰好をしてゐるものだ。
美しい個性を持つた子どもなどどこにも存在しないのである。
それが一度たわめられなければ真の個性にならないことも見易い道理で、そのためには、文学書ばかり
耽読してゐる子からはむりやりに本をとりあげて、尻を引つぱたいてスポーツをやらせ、スポーツにばかり
熱中してゐる子は、襟髪をつかんで図書館へぶち込み、強制的に本を読ませるやうにすべきである。

三島由紀夫
「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より

10 :ナナシズム:2009/11/18(水) 11:39:29 ID:afwZterC
かういふ強制力は、こまかい校則によつて規定することはもちろん、罰則のない法規もないのであるから、
妥当な罰則を設け、かつこの規則を実施する能力としては、先生にも、生徒を心服させるだけの腕力が要求される。
生徒の闇討ちをおそれて屈服するやうな先生には、先生の資格がないので、生徒はめつたに先生の知力なんかには
心服しないものである。さういふのは新制大学のころから、学生に知的虚栄心が目ざめて来てからの問題であつて、
大学教育といふものは、もつぱら知識の授受に尽き、もはや教育と呼ぶ必要はない。
ネリカン上がりが尊敬されるといふのも、少年の歪められた英雄主義であるが、ネリカンの生活が
苛酷だといふ伝説乃至事実が、どれだけこの英雄化を助けてゐるかわからない。
どこの学校もネリカン並みになれば、とりたててネリカン上がりが尊敬される理由もなくなるので、
少年不良化の防止になるにちがひない。

三島由紀夫
「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より

11 :ナナシズム:2009/11/18(水) 11:40:39 ID:afwZterC
暗い陰惨で辛い生活をとほりぬけて来たといふ自信と誇りを、今の子どもは与へられなさすぎる。
「学園」といふ花園みたいな名称も偽善的だが、学校といふところを明るく楽しく、痴呆の天国みたいな
イメージに作り変へたのは、大きな失敗であつた。学校といふものには暗いイメージが多少必要なのである。
学校の建物も質素で汚ならしいことが必要で、何だつてこのごろの学校は、高級アパートみたいな外見を
とりたがるのかわからない。
冷暖房装置などは以てのほかで、少なくとも中学校以上は、暖房装置も撤去すべきである。かじかんだ手で
ノートをとるといふあのストイックな向学心の思ひ出を、これからの子どもはもう持たなくなるのではないか。
…何事にも感覚的享受しかできない少年期には、「精神」に接するにも感覚的実感が要るのだ。
その「精神」の感覚的実感とは、要するに「非物質的感覚」であつて、寒さであり、オンボロ校舎であり、
風の音であり、たよるもののない感じであり、すべて眠たくなるやうな「生活の快適さ」と反対なものである。

三島由紀夫
「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より

12 :ナナシズム:2009/11/18(水) 11:42:57 ID:afwZterC
私は、一流商社のやうなツルツルした校舎へ毎朝吸込まれてゆく学生たちが、数年後サラリーマンとして又もや
ツルツルした大ビルディングへ毎朝吸込まれていくことを考へると、その一生が気の毒になる。
オンボロ校舎の精神的風格などを一生知らずに、ツルツルした表紙の週刊誌ばかり読み、団地生活をつづけてゆく
人間がかうして出来上がる。政府は政令を発して、学校建築に制約を加へるべきではないか。
(中略)
こんなことを言つてゐるうちに、すべてはノスタルジアに彩られ、日清戦争の思ひ出話みたいになつて来たから、
ここらで筆を擱くことにする。
最後に、まじめな私見を言ふと、硬教育の復活もさることながら、現代の教育で絶対にまちがつてゐることが
一つある。それは古典主義教育の完全放棄である。
古典の暗誦は、決して捨ててはならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた。
ヨーロッパでもアメリカでも、古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。
これだけは、どうでもかうでも、即刻復活すべし。

三島由紀夫
「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より

13 :ナナシズム:2009/11/20(金) 12:15:42 ID:D8VsY8H5
最近東京空港で、米国務長官を襲つて未遂に終つた一青年のことが報道された。
日本のあらゆる新聞がこの青年について罵詈ざんばうを浴せ、袋叩きにし、足蹴にせんばかりの勢ひであつた。
(中略)
私はテロリズムやこの青年の表白に無条件に賛成するのではない。ただあらゆる新聞が無名の一青年をこれほど
口をそろへて罵倒し、判で捺したやうな全く同じヒステリカルな反応を示したといふことに興味を持つたのである。
左派系の新聞も中立系の新聞も右派系の新聞も同時に全く同じヒステリー症状を呈した。
かういふヒステリー症状は、ふつう何かを大いそぎで隠すときの症候行為である。この怒り、この罵倒の下に、
かれらは何を隠さうとしたのであらうか。
日本は西欧的文明国と西欧から思はれたい一心でこの百年をすごしてきたが、この無理なポーズからは何度も
ボロが出た。最大のボロは第二次世界対戦で出し切つたと考へられたが、戦後の日本は工業的先進国の列に入つて、
もうボロを出す心配はなく、外国人には外務官僚を通じて茶道や華道の平和愛好文化こそ日本文化であると
宣伝してゐればよかつた。

三島由紀夫
「日本文化の深淵について」より

14 :ナナシズム:2009/11/20(金) 12:17:39 ID:D8VsY8H5
昭和三十六年、私がパリにゐたとき、たまたま日本で浅沼稲次郎の暗殺事件が起つた。
浅沼氏は右翼の十七歳の少年山口二矢によつて短剣で刺殺され、少年は直後獄中で自殺した。
このとき丁度パリのムーラン・ルージュではRevue Japonais といふ日本人のレビューが上演されてをり、
その一景に、日本の短剣の乱闘場面があつた。
在仏日本大使館は誤解をおそれて、大あわてで、その景のカットをレビュー団に勧告したのである。
誤解をおそれる、とは、ある場合は、正解をおそれるといふことの隠蔽である。
私がいつも思ひ出すのは、今から九十年前、明治九年に起つた神風連の事件で、これは今にいたるもファナティックな
非合理な事件としてインテリの間に評判がわるく、外国人に知られなくない一種の恥と考へられてゐる。

三島由紀夫
「日本文化の深淵について」より

15 :ナナシズム:2009/11/20(金) 12:20:21 ID:D8VsY8H5
約百名の元サムラヒの頑固な保守派のショービニストが起した叛乱であるが、彼らはあらゆる西洋的なものを憎み、
明治の新政府を西欧化の見本として敵視した。
…あらゆる西欧化に反抗した末、新政府が廃刀令を施行して、武士の魂である刀をとりあげるに及び、すでに
その地方に配置された西欧化された近代的日本軍隊の兵営を、百名が日本刀と槍のみで襲ひ、結果は西洋製の
小銃で撃ち倒され、敗残の同志は悉く切腹して果てたのである。
トインビーの「西欧とアジア」に、十九世紀のアジアにとつては、西欧化に屈服してこれを受け入れることによつて
西欧に対抗するか、これに反抗して亡びるか、二つの道しかなかつたと記されてゐる。
正にその通りで、一つの例外もない。日本は西欧化近代化を自ら受け入れることによつて、近代的統一国家を
作つたが、その際起つたもつとも目ざましい純粋な反抗はこの神風連の乱のみであつた。
他の叛乱は、もつと政治的色彩が濃厚であり、このやうに純思想的文化的叛乱ではない。

三島由紀夫
「日本文化の深淵について」より

16 :ナナシズム:2009/11/20(金) 12:22:19 ID:D8VsY8H5
日本の近代化が大いに讃えられ、狡猾なほどに日本の自己革新の能力が、他の怠惰なアジア民族に比して
賞讃されるかげに、いかなる犠牲が払はれたかについて、西欧人はおそらく知ることが少ない。
それについて探究することよりも、西欧人はアジア人の魂の奥底に、何か暗い不吉なものを直感して、黄禍論を
固執するはうを選ぶだらう。
しかし一民族の文化のもつとも精妙なものは、おそらくもつともおぞましいものと固く結びついてゐるのである。
エリザベス朝時代の幾多の悲劇がさうであるやうに。……日本はその足早な、無理な近代化の歩みと共に、
いつも月のやうに、その片面だけを西欧に対して示さうと努力して来たのであつた。
そして日本の近代ほど、光りと影を等分に包含した文化の全体性をいつも犠牲に供してきた時代はなかつた。

三島由紀夫
「日本文化の深淵について」より

17 :ナナシズム:2009/11/20(金) 12:26:19 ID:D8VsY8H5
私の四十年の歴史の中でも、前半の二十年は、軍国主義の下で、不自然なピューリタニズムが文化を統制し、
戦後の二十年は、平和主義の下で、あらゆる武士的なもの、激し易い日本のスペイン風な魂が抑圧されて来たのである。
そこではいつも支配者側の偽善が大衆一般にしみ込み、抑圧されたものは何ら突破口を見出さなかつた。そして、
失はれた文化の全体性が、均衛をとりもどさうとするときには、必ず非合理な、ほとんど狂的な事件が起るのであつた。
これを人々は、火山のマグマが、割れ目から噴火するやうに、日本のナショナリズムの底流が、関歇的に
奔出するのだと見てゐる。ところが、東京空港の一青年のやうに見易い過激行動は、この言葉で片附けられるとしても、
あらゆる国際主義的仮面の下に、ナショナリズムが左右両翼から利用され、引張り凧になつてゐることは、気づかれない。
反ヴィエトナム戦争の運動は、左翼側がこのナショナリズムに最大限に訴へ、そして成功した事例であつた。

三島由紀夫
「日本文化の深淵について」より

18 :ナナシズム:2009/11/20(金) 12:34:04 ID:D8VsY8H5
それはアナロジーとしてのナショナリズムだが、戦争がはじまるまで、日本国民のほとんどは、ヴィエトナムが
どこにあるかさへ知らなかつたのである。
ナショナリズムがかくも盛大に政治的に利用されてゐる結果、人々は、それが根本的には文化の問題であることに
気づかない。
九十年前、近代的武器を装備した近代的兵営へ、日本刀だけで斬り込んだ百人のサムラヒたちは、そのやうな
無謀な行動と、当然の敗北とが、或る固有の精神の存在証明として必要だ、といふことを知つてゐたのである。
これはきはめて難解な思想であるが、文化の全体性が犯されるといふ日本の近代化の中にひそむ危険の、最初の
過激な予言になつた。われわれが現在感じてゐる日本文化の危機的状況は、当時の日本人の漠とした予感の中に
あつたものの、みごとな開花であり結実なのであつた。

三島由紀夫
「日本文化の深淵について」より

19 :ナナシズム:2009/11/21(土) 11:14:33 ID:BII35feu
剣道は柔道とともに、体力が必要であることはむろんであるが、柔道は一見強さうな人は実際に強いけれど、
剣道は見ただけでは分らず、合せてみてはじめて非常に強かつたりする“技のおもしろさ”がある。
それにスピードと鋭さがあるので僕の性にあつてゐる。また剣道は、男性的なスポーツで、そのなかには
日本人の闘争本能をうまく洗練させた一見美的なかたちがある。
西洋にもフェンシングといふ闘争本能を美化した格技があるが、本来、人間はこの闘争本能を抑圧したりすると
ねちつこくいぢわるになるが、闘争本能は闘争本能、美的なものに対する感受性はさういふものと、それぞれ
二つながら自己のなかで伸したいといふ気持があるものです。

三島由紀夫
「文武両道」より

20 :ナナシズム:2009/11/21(土) 11:16:11 ID:BII35feu
さらに剣道には伝統といふものがある。稽古着にしたつて、いまわれわれが着てるものは、幕末の頃から
すこしも変つてゐない。また独特の礼儀作法があつて、スポーツといふよりか、何か祖先の記憶につながる――
たとへば相手の面をポーンと打つとき、その瞬間にさういふ記憶がよみがへるやうな感じがする。
これがテニスなんかだと、自分の祖先のスポーツといふ気はしない。
だから剣道ほど精神的に外来思想とうまく合はない格技はないでせう。
たとへば、共産主義とか、あるひはほかの思想でもいいが、西洋思想と剣道をうまくくつつけようとしても
うまくくつつかない。共産党員で剣道をやつてゐる者があるかも知れないが、その人は自分の中ですごい
“ギャップ”を感じることでせう。
僕は自分なりに小さい頃から日本の古典文学が非常に好きでしたし、さういふ意味で、剣道をやつてゐても
自分の思想との矛盾は感じない。

三島由紀夫
「文武両道」より

21 :ナナシズム:2009/11/21(土) 11:20:18 ID:BII35feu
戦後、インテリ層の中で、「これで新らしい時代がきたんだ、これからはなんでも頭の勝負でやるんだ……」
といふ時代があつた。その頃僕は、僕を可愛がつてくれた故岸田国士先生に「これから文武両道の時代だ……」
といつてまはりの人に笑はれたことがある。当時、先生のまはりにゐた人達にしてみれば、新らしい時代が
きたといふのに、なんで古めかしいことをいふと思つたのでせう。
元来、男は女よりバランスのくづれやすいものだと僕は思つてゐる。女は身体の真中に子宮があつて、
そのまはりにいろんな内蔵が安定してゐて、そのバランスは大地にしつかりと結びついてゐる。
男は、いつもバランスをとつてゐないと壊れやすく極めて危険な動物です。したがつてバランスをとるといふ
考へからいけば、いつも自分と反対のものを自分の中にとり入れなければいけない。(私はさういふ意味で
文武両道といふ言葉をもち出した)。
さうすると、軍人は文学を知らなければならないし、文士は武道も、といふやうになる。
実はそれが全人間的といふ姿の一つの理想である。

三島由紀夫
「文武両道」より

22 :ナナシズム:2009/11/21(土) 11:21:56 ID:BII35feu
その点、むかしの軍人は漢学の教養もあり、語学などのレベルも高かつた。私はいま二・二六事件の将校のことを
研究してゐますが、当時の将校は実に高い教養の持主が多かつたと思ふ。
末松太平といふ方の「私の昭和史」(みすず書房刊)なんかみると、実にすばらしい文章で、いまどきの
かけ出しの作家などはちよつと足元にも及ばない。
ああいふ立派な文章を書くには、よほどの教養が身につかなければ書けないものです。
また、文士も、漢学を学び武道に励むといつた工合で、全人間的ないろいろな教養を身につけてゐた。
ところが大正に入り昭和になつてくると、この傾向はだんだんやせ細つてきてバランスが崩れ片輪になつてきた。
そして大東亜戦争の頃の日本人の人間像といふものは、一見非常に立派なやうですが、実際はバラバラであつた。
近代社会の毒を受けたかたちの人間が多かつた時代です。
つまり先にいつた文武両道的な――自分に欠けたものをいつも補ひたい気持、さういふ気持がなくなつてゐたのです。
最近はさらにかういふ考へ方がなくなつてゐる。また余裕もないだらう。

三島由紀夫
「文武両道」より

23 :ナナシズム:2009/11/21(土) 11:24:42 ID:BII35feu
…しかし、僕は思ふのだが本を読むにしても本当に読む気があれば必ず読めるものだ。
とかくいまは無理をするといふことを一般に避けるやうになつてきてゐる。
そこで、またバランスのことにもどるが、一般に美といふ観点からも“バランス”は大事である。
古いギリシャ人の考へは、人間といふものは、神様がその言動や価値といふものをハカリでちやんと計つてゐて、
一人一人の人間の中の特性が、あまりきはだちすぎてゐると、神の領域にせまつてくる、として神様はピシャつと
押へる。すべての面で、このやうに一人一人の人間を神様はじつとみてゐるといふのですね。
…このやうな考へ方は、当時ポリス(都市国家)といふ小さな社会で均衡を保つた政治生活をおくる必要から
生れたものと思ふが、なかなかおもしろい考へ方です。
人間が知育偏重になれば知識だけが上がり、体育偏重になれば体力だけがぐつと上がる。――これはバランスが
くづれるもとで、神様はこのことを、蔭でみてゐて罰する。だから理想的に美しい人間像といふのは、あくまで
精神と肉体のバランスのとれた、文武両道にひいでたものでなければないといふわけです。

三島由紀夫
「文武両道」より

24 :ナナシズム:2009/11/23(月) 12:15:42 ID:Z9vSKx8S
戦後日本の歴史が一つとぎれてしまつた。そのとぎれたところに自衛隊の問題があり、警察の問題があり、
またいろいろ複雑な言ふにいはれない、日本人として誠に情けない状態があらゆる面に発生してきました。
(中略)
大体戦後の民主主義といふものは、アメリカといふ成金の新しい国から来たものでありますから、アメリカは
アメリカとしての歴史はもちろん持つてはをりますが、彼らが大切にしてゐる古い歴史といふのはせいぜい
十八世紀です。アメリカに行くと、これは非常に古い家である、十八世紀だなどとよくいはれる。
彼らはどんなにさぐつて見ても十八世紀以前に遡つてアメリカの歴史を語ることができない。
それより古い頃にはインディアンがゐたんで、インディアンの方がよつぽど歴史上における誇りもあるし、
自信もあるはずです。これが白人に駆逐されてしまつた。
白人であるアメリカ人といふものは、人の家にどかどか入つて来て、平和に暮らしてゐた人間を追ひ散らして、
新しい国を建てた。それが移民の国アメリカです。

三島由紀夫
「私の聞いて欲しいこと」より

25 :ナナシズム:2009/11/23(月) 12:16:25 ID:Z9vSKx8S
さういふ国の人に、日本のやうな古い歴史、文化を持つた国の伝統と連続性の力といふものは判らない。
彼らにどう説明して聞かしても判らない。それは無理はないです。何となれば彼らの感覚にはそんな古い
歴史といふものがないのですから……古いといふと十八世紀を思つてゐる人間にいくらいつても判らない。
判つて貰はうとすることが所詮無理なんでせう。
まあ、日本がアメリカに占領されたといふことは国の運命で仕方がないかも知れませんけれども、一番
根本なところが彼らに判らなかつたことは日本にとつても不幸だつたのでせう。それはわれわれだけが
判つてゐるのであつて、国といふものは、永遠に連続性がなければ本当の国ではないと思ひます。
そしてとに角今は空間といふものがここに広がつてゐる。この空間に対して時間があるわけです。

三島由紀夫
「私の聞いて欲しいこと」より

26 :ナナシズム:2009/11/23(月) 12:17:19 ID:Z9vSKx8S
今のこの世界の情勢といふものはハッキリいひますと「空間と時間」との戦ひだと思ひます。
(中略)
しかしながらその国際的な争ひは、あくまで空間をとり合つてゐるわけです。
ところがこの地球上の空間を占めてゐる国の中にも一方では反戦、自由、平和といつてゐる人達がをります。
この人達は歴史や伝統などといふものはいらんのだ。歴史や伝統があるから、この空間の方々に国といふものが
出来て、その国同士が喧嘩をしなければならんのだ。われわれは世界中一つの人類としての一員ではないか。
われわれは国などといふものは全部やめて、「自由とフリーセックスと、そして楽しい平和の時代を造るんだ」
と叫んでゐる。彼らには時間といふ観念がない。
空間でもつて完全に空間をとらうといふ考へ方においては、彼らもまた彼らの敵と同じなのです。
それでは、今日の人類を一体何が繋いできたのかといふことを論議し、つきつめてゆくと、結局最後には
「時間」の問題に突き当たらざるを得ない。

三島由紀夫
「私の聞いて欲しいこと」より

27 :ナナシズム:2009/11/23(月) 12:17:59 ID:Z9vSKx8S
(中略)
今ソビエトで一番の悪口は何だと思ひますか。ソビエトで人を罵倒する一番きたない言葉、それをいはれただけで
人が怒り心頭に発する言葉は何だと思ひますか……私はロシア語を知りませんから、ロシア語ではいへませんが、
「非愛国者だ」といふことださうです。さうすると一体これはどういふことなのかと不思議になります。
その伝統を破壊し、連続性を破壊してゐる共産圏においてすら、現在は歴史の連続性といふものを信じなければ
「愛国」といふ観念は出て来てないことに気付き、その観念のないところには共産国家といへどもその存立は
危ぶまれるといふことを気付いたに違ひない。
ですからこの「縦の軸」すなはち「時間」はその中にかくされてゐるんで、如何に人類が現在の平和を
かち得たとしても、このかくされてゐる「縦の軸」がなければ平和は維持できない。
それが現在の国家像であると考へられていいんです。

三島由紀夫
「私の聞いて欲しいこと」より

28 :ナナシズム:2009/11/23(月) 12:18:42 ID:Z9vSKx8S
ことに日本では敗戦の結果、この「縦の軸」といふのが非常に軽んじられてきてしまつた。
日本は、この縦の軸などはどうでもいいんだが、経済が繁栄すればよろしい、そして未来社会に向つて、
日本といふ国なんか無くなつても良い。みんな楽しくのんびり暮して戦争もやらず、外国が入つて来たら、
手を挙げて降参すればいいんだ。日本の連続なんかどうなつてもいいんではないか、歴史や文化などは
いらんではないか、滅びるものは全部滅びても良いではないか、と考へる向きが非常に強い。
さういふ考へでは将来日本人の幸せといふものは、全く考へられないといふことを、この一事をもつてしても、
共産国家が既に明白に証明してゐると私は思ひます。
(中略)
共産主義国家が、国家意思を持つてゐて、日本のやうな、佐藤首相が自らの手で国家を守るといつてゐるこの国に、
国家意思がないとは一体どういふことだらうか。
さういふことになるのは今の日本の根本が危ふくなつてゐるからです。根本はここにあるのです。

三島由紀夫
「私の聞いて欲しいこと」より

29 :ナナシズム:2009/11/23(月) 13:14:10 ID:???
右翼

30 :ナナシズム:2009/11/23(月) 23:59:33 ID:???
左翼

31 :ナナシズム:2009/11/24(火) 12:14:31 ID:PLtLa+uV
左翼はいつも、より良き未来世界といふものを模索してゐる。いつもより良き未来社会へ向かつて我々は
進歩してゆくと考へてゐるのです。(中略)
ところがソビエトはご承知のやうな状態になつた。これは完全な官僚社会のみならず、その常套語を使へば、
帝国主義なのです。そして、かつて日本人が未来社会と思つたのが帝国主義になつてしまつた。もう
スターリン批判以来、日本人のソビエトに対する夢も崩れた。では、中共はどうか。中共はどうも日本人の
西洋崇拝から言ふと少し外れる処があつたんだけど、文化大革命といふことがあつたので、ますます日本人の
理想から遠くなつてしまつた。近頃は経済的には先進国になつてゐますので、その点でも、あらゆる後進国的な
ラディカルな革命のやり方でやれるものかどうかといふ疑問は幼稚園ぐらゐ出てゐれば大体分るわけです。
そこで未来社会の展望を失つたところに彼らの焦燥と彼らの一種の絶望感があることは確かなのです。

三島由紀夫
「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より

32 :ナナシズム:2009/11/24(火) 12:20:07 ID:PLtLa+uV
それで、より良き彼らの本当の未来社会とは何であるか。皆さんは、「自由からの逃走」といふエーリッヒ・フロムの
本などをお読みになつたことがあるだらうと思ひますが、“われわれの窮屈に閉込められたこの自由といふ名の
下に於いて、人間が一種のフィクションに堕してしまつた社会”から何とか抜け出して、“自由な人間主義の
本当に実現される世界、しかもそこでは社会主義がその最も良いところを実現してゐるやうな社会”であります。
いはゆる、ヒューマニテリアン・ソシャリズムですが、完全な言論自由化の社会主義といふやうな、誰が考へても
実現不可能のやうな、より良き未来に向かつて進んで行かうと、それがまあ大体の左翼型のラディカルな革命の
行動の先にある未来国であると考へて良いと思ひます。(中略)
何も私は共産主義に対抗して生きてゐるわけではありません。別にそれを職業にしてゐる人間でもありません。
ですけれども彼らの考へにうつかり動かされ、蝕まれていつたならば、どういふ結果になるか目に見えてゐる。

三島由紀夫
「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より

33 :ナナシズム:2009/11/24(火) 12:32:37 ID:PLtLa+uV
(中略)
私は未来といふものはないといふ考へなのです。未来などといふことを考へるからいけない。
(中略)我々はアメーバが触手を伸ばすやうに、闇の中を手探りで少し先の未来までは予測ができる。或ひは
来年くらゐまでは予測できるかもしれない。しかし、人間が予測されない闇の中を進んでゆくためには、
その闇の彼方にあるものを信ずるか、或ひはその闇といふものに対決して本当に自分の現在に生きるか
といふことの二つの選択を迫られてゐるといふのが私の考へ方の基本であります。
“未来に夢を賭ける”といふことは弱者のすることである。そして、自分をプロセスとしか感じられない人間の
することであります。(中略)
このやうな思考の中からは人間の円熟といふことも出て来なければ、人間の成熟といふ思考も絶対に出て来ない。

三島由紀夫
「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より

34 :ナナシズム:2009/11/24(火) 12:47:17 ID:PLtLa+uV
実は、人間は未来に向かつて成熟してゆくものではないんです。それが人間といふ生き物の矛盾に充ちた
不思議なところです。人間といふものは“日々に生き、日々に死ぬ”以外に成熟の方法を知らないんです。
「葉隠」といふ本を御覧になつた方があるとみえて、笑つてゐる方がそこに居りますが、やはり死といふ事を
毎日毎日起り得る状況として捉へるところから人間の行動の根拠を発見して、そこにモラルを提示してゆく。
非常に極端な考へ方なのですが、あれ程生きる力を与へられた本を私は知りません。
あの思考には、未来が無いのです。我々は常識で考へて「未来がない」と言ふと、まるで破産宣告を受けた人間とか、
ガンの宣告を受けた人間のやうに考へますが、さうではなくて、私は、「青年にこそ未来がない」と、
私自身の考へから、経験から言へるのです。

三島由紀夫
「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より

35 :ナナシズム:2009/11/24(火) 12:50:22 ID:PLtLa+uV
(中略)
そこで、何も未来を信じない時、人間の根拠は何かといふことを考へますと、次のやうになります。
未来を信じないといふことは今日に生きることですが、刹那主義の今日に生きるのではないのであつて、
今日の私、現在の私、今日の貴方、現在の貴方といふものには、背後に過去の無限の蓄積がある。
そして、長い文化と歴史と伝統が自分のところで止まつてゐるのであるから、自分が滅びる時は全て滅びる。
つまり、自分が支へてきた文化も伝統も歴史もみんな滅びるけれども、しかし老いてゆくのではないのです。
今、私が四十歳であつても、二十歳の人間も同じ様に考へてくれば、その人間が生きてゐる限り、その人間の
ところで文化は完結してゐる。その様にして終りと終りを繋げれば、そこに初めて未来が始まるのであります。

三島由紀夫
「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より

36 :ナナシズム:2009/11/24(火) 12:56:23 ID:PLtLa+uV
われわれは自分が遠い遠い祖先から受け継いできた文化の集積の最後の成果であり、これこそ自分であるといふ
気持で以つて、全身に自分の歴史と伝統が籠つてゐるといふ気持を持たなければ、今日の仕事に完全な
成熟といふものを信じられないのではなからうか。或ひは、自分一個の現実性も信じられないのではなからうか。
自分は過程ではないのだ。道具ではないのだ。自分の背中に日本を背負ひ、日本の歴史と伝統と文化の全てを
背負つてゐるのだといふ気持に一人一人がなることが、それが即ち今日の行動の本になる。
(中略)「俺一人を見ろ!」とこれがニーチェの「この人を見よ」といふ思想の一つの核心でもありませう。
けれども、私は中学時代に「この人を見よ」といふのは「誰を見よ」といふのかと思つて先輩に聞きましたところ、
「ニーチェを見よ」といふことだと教へて貰ひ、私は世の中にこんなに自惚れの強い人間がゐるのかと
驚いたことがあるのです。しかし、今になつて考へてみると、それは自惚れではないのであります。

三島由紀夫
「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より

37 :ナナシズム:2009/11/24(火) 13:03:30 ID:PLtLa+uV
自分の中にすべての集積があり、それを大切にし、その魂の成熟を自分の大事な仕事にしてゆく。
しかし、そのかはり何時でも身を投げ出す覚悟で、それを毀さうとするものに対して戦ふ。(中略)
ここにこそ現在があり、歴史があり、伝統がある。彼らの貧相な、観念的な、非現実的な未来ではないものがある。
そこに自分の行動と日々のクリエーションの根拠を持つといふことが必要です。これは又、人間の行動の強さの
源泉にもなると思ふ。といふのは人間といふものは、それは果無い生命であります。
しかし、明日死ぬと思へば今日何かできる。そして、明日がないのだと思ふからこそ、今日何かができる
といふのは、人間の全力的表現であり、さうしなければ、私は人間として生きる価値がないのだと思ひます。

三島由紀夫
「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より

38 :ナナシズム:2009/11/24(火) 13:06:30 ID:PLtLa+uV
本日ただ今の、これは禅にも通じますが、現在の一瞬間に全力表現を尽すことのできる民族が、その国民精神が
結果的には、本当に立派な未来を築いてゆくのだと思ひます。
しかし、その未来は何も自分の一瞬には関係ないのである。これは、日本国民全体がそれぞれの自分の文化と
伝統と歴史の自信を持つて今日を築きゆくところに、生命を賭けてゆくところにあるのです。
特攻隊の遺書にありますやうに、私が“後世を信ずる”といふのは“未来を信ずる”といふことではないと思ふのです。
ですから、“未来を信じない”といふことは、“後世を信じない”といふこととは違ふのであります。
私は未来は信じないけれども後世は信ずる。
特攻隊の立派な気持には万分の一にも及びませんが、私ばかりでなく、若い皆さんの一人一人がさういふ気持で後輩を、
又、自分の仕事ないし日々の行動の本を律してゆかれたならば、その力たるや恐るべきものがあると思ひます。

三島由紀夫
「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より

39 :ナナシズム:2009/11/26(木) 11:52:56 ID:ZjVI06VR
自然な日本人になることだけが、今の日本人にとつて唯一の途であり、その自然な日本人が、多少野蛮で
あつても少しも構はない。これだけ精妙繊細な文化的伝統を確立した民族なら、多少
野蛮なところがなければ、衰亡してしまう。子供にはどんどんチャンバラをやらせるべきだし、おちよぼ口の
PTA精神や、青少年保護を名目にした家畜道徳に乗ぜられてはならない。
ところで、私はこの元旦、わが家の一等高いところから、家々を眺めて、日の丸を掲げる家が少ないことに
一驚を喫した。こんな美しい国旗はめづらしいと思ふが、グッド・デザインばやりの現在、むづかしいことは
言はずに、せめてグッド・デザインなるが故に、門毎に国旗をかかげることがどうしてできないのか?

三島由紀夫
「お茶漬ナショナリズム」より

40 :ナナシズム:2009/11/26(木) 11:58:25 ID:ZjVI06VR
去秋の旅で、私は二度鮮明な日の丸の思ひ出を持つた。(中略)
もう一つは、他にも書いたが、ハムブルグの港見物をしてゐたとき、入港してきた巨大な貨物船の船尾に、
へんぽんとひるがへつてゐた日の丸である。私は感激おくあたはず、その場にゐたただ一人の日本人として、
胸のハンカチをひろげて、ふりまはした。
かういふことを、私は別に自慢たらしく言ふのではない。私にとつては、ごく自然な、理屈の要らない、日本人の
感情として、外地にひるがへる日の丸に感激したわけだが、旗なんてものは、もともとロマンティックな心情を
鼓吹するやうにできてゐて、あれが一枚板なら風情がないが、ちぎれんばかりに風にはためくから、胸を搏つのである。
ところが、こんな話をすると、みんなニヤリとして、なかには私をあはれむやうな目付をする奴がゐる。
厄介なことに日本のインテリは、一切単純な心情を人に見せてはならぬことになつてゐる。しかし…(中略)
自分の国の国旗に感動する性質は、どこの国の人間だつてもつてゐる筈の心情である…

三島由紀夫
「お茶漬ナショナリズム」より

41 :ナナシズム:2009/11/26(木) 14:53:22 ID:ZjVI06VR
実は私は「愛国心」といふ言葉があまり好きではない。
何となく「愛妻家」といふ言葉に似た、背中のゾッとするやうな感じをおぼえる。この、好かない、といふ意味は、
一部の神経質な人たちが愛国心といふ言葉から感じる政治的アレルギーの症状とは、また少しちがつてゐる。
ただ何となく虫が好かず、さういふ言葉には、できることならソッポを向いてゐたいのである。
この言葉には官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。どことなく押しつけがましい。
反感を買ふのももつともだと思はれるものが、その底に揺曳してゐる。
では、どういふ言葉が好きなのかときかれると、去就に迷ふのである。愛国心の「愛」の字が私はきらひである。
自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向う側に
対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである。

三島由紀夫
「愛国心」より

42 :ナナシズム:2009/11/26(木) 14:56:40 ID:ZjVI06VR
もしわれわれが国家を超越してゐて、国といふものをあたかも愛玩物のやうに、狆か、それともセーブル焼の
花瓶のやうに、愛するといふのなら、筋が通る。それなら本筋の「愛国心」といふものである。
また、愛といふ言葉は、日本語ではなくて、多分キリスト教から来たものであらう。
日本語としては「恋」で十分であり、日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であつて、「愛」ではない。
もしキリスト教的な愛であるなら、その愛は無限低無条件でなければならない。従つて、「人類愛」といふのなら
多少筋が通るが、「愛国心」といふのは筋が通らない。なぜなら愛国心とは、国境を以て閉ざされた愛だからである。
だから恋のはうが愛よりせまい、といふのはキリスト教徒の言ひ草で、恋のはうは限定性個別性具体性の
裡にしか、理想と普遍を発見しない特殊な感情であるが、「愛」とはそれが逆様になつた形をしてゐるだけである。

三島由紀夫
「愛国心」より

43 :ナナシズム:2009/11/26(木) 15:02:00 ID:ZjVI06VR
ふたたび愛国心の問題にかへると、愛国心は国境を以て閉ざされた愛が、「愛」といふ言葉で普遍的な擬装を
してゐて、それがただちに人類愛につながつたり、アメリカ人もフランス人も日本人も愛国心においては
変りがない、といふ風に大ざつぱに普遍化されたりする。
これはどうもをかしい。もし愛国心が国境のところで終るものならば、それぞれの国の愛国心は、人類普遍の
感情に基づくものではなくて、辛うじて類推で結びつくものだと言はなくてはならぬ。アメリカ人の愛国心と
日本人の愛国心が全く同種のものならば、何だつて日米戦争が起つたのであらう。「愛国心」といふ言葉は、
この種の陥穽を含んでゐる。(中略)
日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。すつかり藤猛にお株をとられてしまつたが、
「大和魂」で十分ではないか。

三島由紀夫
「愛国心」より

44 :ナナシズム:2009/11/26(木) 15:06:28 ID:ZjVI06VR
アメリカの愛国心といふのなら多少想像がつく。ユナイテッド・ステーツといふのは、巨大な観念体系であり、
移民の寄せ集めの国民は、開拓の冒険、獲得した土地への愛着から生じた風土愛、かういふものを基礎にして、
合衆国といふ観念体系をワシントンにあづけて、それを愛し、それに忠誠を誓ふことができるのであらう。
国はまづ心の外側にあり、それから教育によつて内側へはひつてくるのであらう。
アメリカと日本では、国の観念が、かういふ風にまるでちがふ。日本は日本人にとつてはじめから内在的即自的であり、
かつ限定的個別的具体的である。観念の上ではいくらでもそれを否定できるが、最終的に心情が容認しない。
そこで日本人にとつての日本とは、恋の対象にはなりえても、愛の対象にはなりえない。われわれはとにかく
日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である。(本当は「対する」といふ言葉さへ、
使はないはうがより正確なのだが)しかし恋は全く情緒と心情の領域であつて、観念性を含まない。

三島由紀夫
「愛国心」より

45 :ナナシズム:2009/11/26(木) 15:13:53 ID:ZjVI06VR
われわれが日本を、国家として、観念的にプロブレマティッシュ(問題的)に扱はうとすると、しらぬ間に
この心情の助けを借りて、あるひは恋心をあるひは憎悪愛(ハースリーベ)を足がかりにして物を言ふ結果になる。
かくて世上の愛国心談義は、必ず感情的な議論に終つてしまふのである。
恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な目のはうが日本を
より的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。さめた目が逸したところのものを、
恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。
一つだけたしかなことは、今の日本では、冷静に日本を見つめてゐるつもりで日本の本質を逸した考へ方が、
あまりにも支配的なことである。さういふ人たちも日本人である以上、日本を内在的即自的に持つてゐるのであれば、
彼らの考へは、いくらか自分をいつはつた考へだと言へるであらう。

三島由紀夫
「愛国心」より

46 :ナナシズム:2009/11/27(金) 11:55:19 ID:PyiSZzmI
何を守るかといふことを突き詰めると、どうしても文化論にふれなければならなくなるのだが、ただ文化を
守れといふことでは非常にわかりにくい。文化云々といふと、おまへは文化に携つてゐるから文化文化といふ、
それがおまへ自身の金儲けにつながつてゐるからだらう――といはれるかもしれない。あるひは文化なんか
守る必要はない、パチンコやつて女を抱いてゐればいいんだといふ考へ方の人もゐるだらう。文化といつても、
特殊な才能をもつた人間が特殊な文化を作り出してゐるんだから、われわれには関係がない。必要があれば
金で買へばいい、守る必要なんかない――と考へる者もゐるだらう。しかし文化とはさういふものではない。
昔流に表現すれば、一人一人の心の中にある日本精神を守るといふことだ。太古以来純粋を保つてきた一つの
文化伝統、一言語伝統を守つてきた精神を守るといふことだ。しかし、その純粋な日本精神は、目には見えない
ものであり、形として示すことができないので、これを守れといつても非常に難しい。またいはゆる日本精神といふ
ものを日本主義と解釈して危険視する者が多いが、それはあまりにも純粋化して考へ、精神化し過ぎてゐる。

三島由紀夫
「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より

47 :ナナシズム:2009/11/27(金) 11:57:58 ID:PyiSZzmI
…だから私は、文化といふものを、そのやうには考へない。文化といふものは、目に見える、形になつた結果から
判断していいのではないかと思ふ。従つて日本精神といふものを知るためには目に見えない、形のない古くさいものと
考へずに、形あるもの、目にふれるもので、日本の精神の現れであると思へるものを並べてみろ、そしてそれを
端から端まで目を通してみろ、さうすれば自ら明らかとなる。そしてそれをどうしたら守れるか、どうやつて
守ればいいかを考へろ、といふのである。
歌舞伎、文楽なら守つてもいいが、サイケデリックや「おれは死んぢまつただ」などといふ退廃的な文化は
弾圧しなければならない――といふのは政治家の考へることだ。
私はさうは考へない。古いもの必ずしも良いものではなく、新しいもの必ずしも悪いものではない。
江戸末期の歌舞伎狂言などには、現代よりももつと退廃的なものがたくさんある。それらを引つくるめたものが
日本の文化であり、日本人の特性がよく表はれてゐるのである。
日本精神といふものの基準はここにある。しかしこれからはづれたものは違ふんだといふ基準はない。

三島由紀夫
「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より

48 :ナナシズム:2009/11/27(金) 11:59:16 ID:PyiSZzmI
良いも悪いも、あるひは古からうが新しからうが、そこに現はれてゐるものが日本精神なのである。
従つてどんなに文化と関係ないと思つてゐる人でも、文化と関係ない人間はゐない。
歌謡曲であれ浪花節であれ、それらが退廃的であつても、そこには日本人の魂が入つてゐるのである。
私は文化といふものをそのやうに考へるので、文化は形をとればいいと思ふ。形といふことは行動であることもある。
特攻隊の行動をみてわれわれは立派だなと思ふ。現代青年は「カッコいい」と表現するが、アメリカ人には
「バカ・ボム」といはれるだらう。
日本人のいろいろな行動を、日本人が考へることと、西洋人の評価とはかなり違つてゐる。
彼らからみればいかにばか気たことであらうとも、日本人が立派だと思ひ、美しいと思ふことがたくさんある。

三島由紀夫
「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より

49 :ナナシズム:2009/11/27(金) 12:00:14 ID:PyiSZzmI
西洋人からみてばからしいものは一切やめよう、西洋人からみて蒙昧なもの、グロテスクなもの、美しくないもの、
不道徳なものは全部やめようぢやないか――といふのが文明開化主義である。
西洋人からみて浪花節は下品であり、特攻隊はばからしいもの、切腹は野蛮である、神道は無知単純だ、と、
さういふものを全部否定していつたら、日本には何が残るか――何も残るものはない。
日本文化といふものは西洋人の目からみて進んでゐるとかおくれてゐるとか判断できるものではないのである。
従つてわれわれは明治維新以来、日本文化に進歩も何もなかつたことを知らなければならない。
西洋の後に追ひつくことが文化だと思つてきた誤りが、もうわかつてもいい頃だと思ふ。

三島由紀夫
「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より

50 :ナナシズム:2009/11/27(金) 12:05:41 ID:PyiSZzmI
再び防衛問題に戻るが、この文化論から出発して“何を守るか”といふことを考へなければならない。
私はどうしても第一に、天皇陛下のことを考へる。天皇陛下のことをいふとすぐ右翼だとか何だとかいふ人が
多いが、憲法第一条に揚げてありながら、なぜ天皇陛下のことを云々してはいけないのかと反論したい。
天皇陛下を政治権力とくつ付けたところに弊害があつたのであるが、それも形として政治権力として
くつ付けたことは過去の歴史の中で何度かあつた。
しかし、天皇陛下が独裁者であつたことは一度もないのである。
それをどうして、われわれは陛下を守つてはいけないのか、陛下に忠誠を誓つてはいけないのか、私には
その点がどうしても理解できない。

三島由紀夫
「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より

51 :ナナシズム:2009/11/27(金) 12:07:19 ID:PyiSZzmI
ところが陛下に忠誠を尽くすことが、民主主義を裏切り、われわれ国民が主権をもつてゐる国家を裏切るのだといふ
左翼的な考への人が多い。
しかし天皇は日本の象徴であり、われわれ日本人の歴史、太古から連続してきてゐる文化の象徴である。
さういふものに忠誠を尽くすことと同意のものであると私は考へてゐる。
なぜなら、日本文化の歴史性、統一性、全体性の象徴であり、体現者であられるのが天皇なのである。
日本文化を守ることは、天皇を守ることに帰着するのであるが、この文化の全体性をのこりなく救出し、
政治的偏見にまどはされずに、「菊と刀」の文化をすべて統一体として守るには、言論の自由を保障する政体が
必要で、共産主義政体が言論の自由を最終的に保障しないのは自明のことである。

三島由紀夫
「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より

52 :ナナシズム:2009/11/27(金) 12:09:31 ID:PyiSZzmI
(中略)
間接侵略においては日本人一人一人の魂がしつかりしてゐたら、日本刀で立ち向つても負けることはないと思ふ。
もちろん小銃、機関銃、無反動砲など、普通科の近代兵器は自衛隊に整備させてゐても、私はやはり
市民武装といふ形で日本人が日本刀を一本づつ持つことが必要だと思ふ。
勿論、ほんたうに日本を守らうと思つてゐない者には持たせられないことはいふまでもないが……。
私は現在日本刀が美術品として、趣味的に扱はれてゐることに対して、甚だ残念に思つてゐる。
日本刀を美術品とか文化財として珍重するのはをかしなことで、これは人斬り包丁だ――と私は刀屋に
冗談話をするのだが、日本刀のやうに魂であると同時に殺人道具であるといふのは、世界でも稀れなものであらう。
日本刀を持ち出したのは一種の比喩であるが、私は自衛隊の武器は通常兵器でいいが、その筒先をどこに
向けるべきか、といふことこそ問題だと思ふ。

三島由紀夫
「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より

53 :ナナシズム:2009/11/27(金) 12:10:56 ID:PyiSZzmI
…これに関して、一説によるとある創価学会の自衛隊員は、「私はいざといふときには上官の命令で弾は撃たない、
池田さんのおつしやつた方に向けて撃つ」といつたといふ。こんな軍隊は珍らしい軍隊で、このやうに、
いざといふときにどつちへ弾が行くのかわからないといふのでは全く困る。
再び魂の問題に戻るが、自衛隊に対しては決して偽善やきれい事であつてはならない。
自衛隊は、平和主義の軍隊であり、平和を守るための軍隊であることに違ひはないが、もつと現実に目覚めて、
一人一人高度の思想教育を行なはなければならない。
さうでなければ毛沢東の行なつてゐるあの思想教育に勝てないと思ふ。さうでなければ、日本の隣にある、
このぎりぎりの思想教育を受けた軍隊に勝つことの不可能なことを、私は痛感するのである。

三島由紀夫
「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より

54 :ナナシズム:2009/11/28(土) 10:19:31 ID:I4c6AKiG
ドナルド・キーンといふアメリカ人がおもしろいことをいつてゐる。幕末に来日した外国人旅行記を読むと
「維新前の日本人はアジアでは珍しく正直で勤勉で、清潔好きで非常にいい国民である。ただ一つだけ欠点がある。
それは臆病だ」と書いてゐる。ところがそれから五、六千年後は、臆病な国民どころか大変な国民であることを
世界中に知られたわけだが、それがまたいまでは、再び臆病な日本人に完全に戻つてしまつてゐる――といふのである。
しかし鯖田豊之氏にいはせると、日本人は死を恐れる国民だといつてゐる。これはおもしろい考へ方だと思ふ。
確かにアメリカはベトナム戦争であれだけの死者を出してゐる。日本人だつたら大変な騒ぎだと思ふが、
羽田空港などで戦地に赴くアメリカ兵士の別れの場面を見てゐても、けろりとしてゐるが、日本人だつたら
とてもそんな具合に淡々として戦場に行けるものではない。まづ千人針がつくられる。日の丸のたすきを掛け、
涙と歌がついて、悲壮感に溢れてくる。そのほかいろいろなものが入つてくる。それらが死のジャンプ台に
ならなければ、どうにも死ねない国民なのだ。

三島由紀夫
「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より

55 :ナナシズム:2009/11/28(土) 10:20:13 ID:I4c6AKiG
私はインドへ行つて死の問題を考へさせられたのだが、ベナレスといふ所はヒンズー教の聖地だが、そこでは
人間が植物のやうに死んでいく。死骸がそこらにごろごろあつて、そばでそれを焼いてゐるのに平気でゐる。
これは死ねば生まれ変ると信じてゐるためで、未亡人など、自分も死んだら死んだ亭主に会へるといつて、
病気になるとお経を読んで死を待つてゐる。
このインド人のやうな植物的な死に方は、日本人にはとても真似できないだらう。
日本においては死は穢れだとされてゐることもあるが、日本人といふものは非常に死の価値を高く評価してゐる。
だから、たやすく死んでたまるかといふことで、従つて切腹で責任を果たすといふことにもなるわけだ。
私たちは、さういふ死生観にもとづいて、文化概念としての栄誉大権的な天皇の復活をはからなければ
ならないと思ふ。繰返へすやうだが、それが日本人の守るべき絶対的主体であるからだ。

三島由紀夫
「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より

56 :ナナシズム:2009/11/30(月) 17:03:08 ID:IbnhoX/j
近代日本が西洋文明をとりいれた以上、アリの穴から堤防はくづれたのである。しかも、文明の継ぎ木が
奇妙な醜悪な和洋折衷をはやらせ、一例が応接間といふものを作り、西洋では引つ越しや旅行の留守にしか
使はない白麻のカバーをソファーにかける。私はさういふことがきらひだから、いすが西洋伝来のものである以上、
西洋の様式どほり、高価な西洋こつとうのいすにも、家ではカバーをかけない。
昔の日本には様式といふものがあり、西洋にも様式といふものがあつた。それは一つの文化が全生活を、
すみずみまでおほひつくす態様であり、そこでは、窓の形、食器の形、生活のどんな細かいものにも名前がついてゐた。
日本でも西洋でも窓の名称一つ一つが、その時代の文化の様式の色に染まつてゐた。さういふぐあひになつて、
はじめて文化の名に値するのであり、文化とは生活のすみずみまで潔癖に様式でおほひつくす力であるから、
すきや造りの一間にテレビがあつたりすることは許されないのである。

三島由紀夫
「日本への信条」より

57 :ナナシズム:2009/11/30(月) 17:06:25 ID:IbnhoX/j
私はただ、畳にすわるよりいすにかけるはうが足が楽だからいすにかけ、さうすれば、テーブルも、じゆうたんも、
窓も、天井も、何から何まで西洋式でなければ、様式の統一感に欠けるから、今のやうな生活様式を選んだのである。
それといふのも、もし、私が純日本式生活様式を選ばうとしても、十八世紀に生きてゐれば楽にできたであらうが、
二十世紀の今では、様式の不統一のぶざまさに結局は悩まされることになるからである。
私にとつては、そのやうな、折衷主義の様式的混乱をつづける日本が日本だとはどうしても思へない。
また、一例が、能やカブキのやうなあれほどみごとな様式的美学を完成した日本人が、たんぜんでいすにかけて
テレビを見て平気でゐる日本人と、同じ人種だとはどうしても思へない。
こんなことをいふと、永井荷風流の現実逃避だと思はれようが、私の心の中では、過去のみならず、未来においても、
敏感で、潔癖で、生活の細目にいたるまで様式的統一を重んじ、ことばを精錬し、しかも新しさをしりぞけない
日本および日本人のイメージがあるのである。

三島由紀夫
「日本への信条」より

58 :ナナシズム:2009/11/30(月) 17:09:51 ID:IbnhoX/j
そのためには、中途はんぱな、折衷的日本主義なんかは真つ平で、生つ粋の西洋か、生つ粋の日本を選ぶほかはないが、
生活上において、いくら生つ粋の西洋を選んでも安心な点は、肉体までは裏切れず、私はまぎれもない
日本人の顔をしてをり、まぎれもない日本語を使つてゐるのだ。つまり、私の西洋式生活は見かけであつて、
文士としての私の本質的な生活は、書斎で毎夜扱つてゐる「日本語」といふこの「生つ粋の日本」にあり、
これに比べたら、あとはみんな屁のやうなものなのである。
今さら、日本を愛するの、日本人を愛するの、といふのはキザにきこえ、愛するまでもなくことばを通じて、
われわれは日本につかまれてゐる。だから私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことに
なるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである。

三島由紀夫
「日本への信条」より

59 :ナナシズム:2009/11/30(月) 17:11:29 ID:IbnhoX/j
低開発国の貧しい国の愛国心は、自国をむりやり世界の大国と信じ込みたがるところに生れるが、かういふ
劣等感から生れた不自然な自己過信は、個人でもよく見られる例だ。私は日本および日本人は、すでにそれを
卒業してゐると考へてゐる。ただ無言の自信をもつて、偉ぶりもしないで、ドスンと構へてゐればいいのである。
さうすれば、向うからあいさつにやつてくる。貫禄といふものは、からゐばりでつくるものではない。
そして、この文化的混乱の果てに、いつか日本は、独特の繊細鋭敏な美的感覚を働かせて、様式的統一ある文化を
造り出し、すべて美の視点から、道徳、教育、芸術、武技、競技、作法、その他をみがき上げるにちがひない。
できぬことはない。かつて日本人は一度さういふものを持つてゐたのである。

三島由紀夫
「日本への信条」より

60 :ナナシズム:2009/12/01(火) 14:07:32 ID:3zPl+Q2k
このごろ世間でよく言はれることは、「あれほど苦しんだことを忘れて、軍国主義の過去を美化する風潮が
危険である」といふ、判コで捺したやうな、したりげな非難である。
しかし人間性に、忘却と、それに伴ふ過去の美化がなかつたとしたら、人間はどうして生に耐へることができるであらう。
忘却と美化とは、いはば、相矛盾する関係にある。
完全に忘却したら、過去そのものがなくなり、記憶喪失症にかかることになるのだから、従つて過去の美化も
ないわけであり、過去の美化がありうることは、忘却が完全でないことにもなる。
人間は大体、辛いことは忘れ、楽しいことは思ひ出すやうにできてゐる。この点からは、忘却と美化は
相互補償関係にある。美化できるやうな要素だけをおぼえてゐるわけで、美化できない部分だけをしつかり
おぼえてゐることは反生理的である。人の耐へうるところではない。

三島由紀夫
「忘却と美化」より

61 :ナナシズム:2009/12/01(火) 14:08:51 ID:3zPl+Q2k
私は、この非難に答へるのに、二つの答を用意してゐる。
一つは、忘れるどころか、「忘れねばこそ思ひ出さず候」で、人は二十年間、自分なりの戦争体験の中にある
栄光と美の要素を、人に言はずに守りつづけてきたのが、今やつと発言の機会を得たのに、邪魔をするな、
といふ答である。
この答の裏には、いひしれぬ永い悲しみが秘し隠されてゐるが、この答の表は、むやみとラディカルである。
従つて、この答を敢てせぬ人のためには、第二の答がある。
すなはち、現代の世相のすべての欠陥が、いやでも応でも、過去の諸価値の再認識を要求してゐるのであつて、
その欠陥が今や大きく露出してきたからこそ、過去の諸価値の再認識の必要も増大してきたのであつて、
それこそ未来への批評的建設なのである、と。

三島由紀夫
「忘却と美化」より

62 :ナナシズム:2009/12/03(木) 12:14:04 ID:z7JlA63m
桜田門外の変は、徳川幕府の権威失墜の一大転機であつた。十八列士のうち、ただ一人の薩摩藩士として
これに加はり、自ら井伊大老の首級をあげ、重傷を負うて自刃した有村次左衛門は、そのとき二十三歳だつた。
(中略)
維新の若者といへば、もちろん中にはクヅもゐたらうが、純潔無比、おのれの信ずる行動には命を賭け、
国家変革の情熱に燃えた日本人らしい日本人といふイメージがうかぶ。かれらはまづ日本人であつた。
そこへ行くと、国家変革の情熱には燃えてゐるかもしれないが、全学連の諸君は、まつたく日本人らしく思はれない。
かれらの言葉づかひは、全然大和言葉ではない。又、あのタオルの覆面姿には、青年のいさぎよさは何も感じられず、
コソ泥か、よく言つても、大掃除の手つだひにゆくやうである。あんなものをカッコイイと思つてゐる青年は、
すでに日本人らしい美意識を失つてゐる。いはゆる「解放区」の中は、紙屑だらけで、不潔をきはめ、神州清潔の民は
とてもあんな解放区に住めたものではないから、きつと外国人を住まはせるための地域を解放区といふのであらう。

三島由紀夫
「維新の若者」より

63 :ナナシズム:2009/12/03(木) 12:27:01 ID:z7JlA63m
私は、ごく簡単に言つて、青年に求められるものは「高い道義性」の一語に尽きると思ふ。
さう言ふと、バカに古めかしいやうだが、道義といふのは、青年の愚直な盲目的な純粋性なしにば、この世に
姿を現はすことはないのである。老人の道義性などといふのは大抵真っ赤なニセモノである。
私がいつも思ひ出すのは、二・二六事件で処刑された青年将校の一人、栗原中尉のことである。(中略)
中尉の部下だつた人から直接きいた話であるが、あるとき演習があつて、小休止の際、中尉の部下の一上等兵が、
一種のアルコール中毒で、耐へられずに酒屋へとび込んでコップ酒をあふつてゐた。そこへ通りかかつた大隊長に
詰問され、所属と姓名を名乗らされたが、その晩帰営すると、大隊長は一言も講評を言はず、全員の前で、
その兵の名をあげて、いきなり重営倉三日を宣告した。
中尉は部下に、その兵の演習の汗に濡れたシャツを取り換へさせるやう、営倉は寒いから暖かい衣類を持つて
行かせるやうに命じた。それからなほ三日つづいた演習のあひだ、部下たちは中尉の顔色の悪いのを気づかつた。
存分の働きはしてゐたが、いかにも顔色がすぐれなかつた。

三島由紀夫
「現代青年論」より

64 :ナナシズム:2009/12/03(木) 12:27:46 ID:z7JlA63m
あとで従兵の口から真相がわかつたが、上等兵の重営倉の三晩のあひだ、中尉は一睡もせず、軍服のまま、
香を焚いて、板の間に端座して、夜を徹してゐたのださうである。
釈放後この話をきいた兵は、涙を流して、栗原中尉のためなら命をささげようと誓ひ、事実、この兵は
二・二六事件に欣然と参加したさうだ。
青年のみが実現できる高い道義性とは、かういふことを言ふのである。第一、老人では、いくらその気があつても、
三日も完全徹夜をした上で走り回つてゐたら、引つくりかへつてしまふであらう。
二・二六事件が右寄りの話で面白くないといふのなら、左翼の革命運動も、青年がこれに携はる以上、高い
道義性の実現なしには、本当に人心を把握できないと私は信ずる。
チェ・ゲバラは革命家の禁欲主義を唱へ、強姦の罪を犯した愛する部下を涙をのんで射殺したが、これはゲバラが
革命の道義性をいかに重んじたかの証左であつて、毛沢東の「軍事六篇」もこの点をやかましく言つてゐる。

三島由紀夫
「現代青年論」より

65 :ナナシズム:2009/12/03(木) 12:28:40 ID:z7JlA63m
…一学生の万引き事件、日大紛争における暴力団はだしの残虐なリンチ事件、……これらは学生による政治活動から、
道義性が崩壊してゆくいちじるしい事例である。あとには目的のためには手段をえらばない革命戦術が
残つてゐるだけである。一見、平和戦術をとつてゐる一派も、それ自体が戦術であることが見えすいてゐて、
何ら高い道義性を感じさせることはない。
ここまで青年を荒廃させたのは、大人の罪、大人の責任だ、といふのが、今通りのいい議論だが、私はさう考へない。
青年の荒廃は青年自身の責任であつて、それを自らの責任として引き受ける青年の態度だけが、道義性の
源泉になるのである。

三島由紀夫
「現代青年論」より

66 :ナナシズム:2009/12/04(金) 17:30:08 ID:vgffRiBu
松陰はやはり、日本の根本的な問題、そして忙しい人たちが気がつかない問題、しかし、これをはづれたら
日本が日本でなくなるやうな問題、それだけを考へつめてゐたんだと思ふんです。
わたくしは、精神といふものは、いますぐ役に立たんもんだといふことを申し上げました。
わたくしは、自分の書いたものや、いつたものが、いますぐ役に立つたら、かへつてはづかしいといふふうに
考へてをります。ですから、たとへばけふ申し上げたことが、あるひはみなさんのお心のどつかにとまつて、
それが十年後、二十年後に役に立つていただければ、それはありがたいけれども、あつ、三島のいつたことは
おもしろい、ぢや、けふ会社で利用して、つかつてみようかといふやうなことは、わたくしは申し上げたくもないし、
申し上げる立場にもゐないと思ふんです。わたくしは、その、ぢや日本の精神ていふのはなんだ。日本が日本である
ものはなんだ。これをはづれたら、もう日本でなくなつちやふもんはなんだと。それだけを考へていきたいです。

三島由紀夫
「現代日本の思想と行動」より

67 :ナナシズム:2009/12/04(金) 17:34:06 ID:vgffRiBu
(中略)
そして、いま非常な情報化社会がありますから、精神といふものはテレビに写らない。そしてテレビに写るのは
ノボリや、プラカードや、人の顔です。それからステートメントです。そして人間はみんなステートメント
やることによつて、なにかしたやうな気持になつてゐるんです。わたくしは、そこまでいけば、どんなことを
やつたところで、目に見えない精神にかなはないんぢやないかといふふうに思つてゐるんです。
昔のやうに爆弾三勇士、あるひは特攻隊、ああいふやうなものがあつたときに、はじめてこれはすごい、
これはテレビにも写らなかつた、なにも出なかつたが、これはすごいといふ一点があると思ふんですが、
いまテレビに写つてるものは、どんなものが出てこようが、結局、情報化社会のなかでとかし込まれて、また
忘れられ、笑はれ、そして人間の精神体系になにものも加へないままで消えていくんぢやないか。

三島由紀夫
「現代日本の思想と行動」より

68 :ナナシズム:2009/12/04(金) 17:35:15 ID:vgffRiBu
わたくしは、政治自体も非常にさういふ点で危険な場所にゐると思ひますのは、政治もあらゆる場合に
ステートメントだけになつていく。そのステートメントが情報化社会のなかで、非常なスピードで溶解されて、
ちやうどあたかも塵埃処理のやうに、早くこれをすべて始末しなければ東京中が塵埃でうづまつてしまふ。
紙くずでうづまつてしまふ。それで情報化社会といふものは過剰な情報をどんどん処理してゐるんです。
この東京といふもの、日本といふものは、近代化すればするほど巨大な塵埃焼却炉みたいになつてくる。
そのなかで人間はなにをすべきかといふことについて、わたくしはなんとか考へていきたいと思ふんです…

三島由紀夫
「現代日本の思想と行動」より

69 :ナナシズム:2009/12/07(月) 14:09:51 ID:Q6ACch4H
タクシーに乗っていたとき、ラジオで無着成恭が子供の質問に答えていたんです。
子供が「先生、スサノオノミコトとか、アマテラスオオミカミの話は本当にあったんですか」ときくと、
その無着が「チミ、それね、ぼくこれからハナスしるけどね。あのスンワ(神話)というのは、ほんとうの
ハナスと違うの。…アマテラスオオミカミ(天照大神)ツウ人がいだの。それがらスサノオノミコト、ツウ人が
いだの。これが悪い人でね、何したがどいうど、まんず、田んぼ荒らして米とれなぐしたの。…それがら
機織りをこわして……(中略)」(笑)
これじゃ、ぼくは子供が可哀想になっちゃった。(笑)唯物史観の、つまり、やり方を教えて、まず基本的な
生産関係の生産手段の破壊とか、そういうところから教えていって、それがいかにいけないことかと。
そして神話的なことを全部リアリスティックに教えている。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

70 :ナナシズム:2009/12/07(月) 14:12:05 ID:Q6ACch4H
子供の雑誌なんかをみていますと、手塚治虫などがやはり神話を書いている。たとえば神武天皇など他民族を
侵略した蛮族の酋長にしている。日本に古代奴隷制なんてないんですが、奴隷たちが苦しめられて鞭で打たれて、
そこで金の鳥が弓の上にとまったりして、それで人民を威嚇して……と、全部そういう話です。
ぼくは大学生が白土三平のマンガを読むのはまだいいと思う。それは唯物論をかじってからマンガを読むんだから
まだいい。あるいはマンガで唯物論をかじるにしてもです。だけど小学生や子供が読むのは、大学生が読むのとは
違うでしょう。これがなんでもないような女の子向きのマンガの中に、支配階級を倒せとか、資本主義はいかんとか、
それがたくみにしみ込むように織りこんである。大人が神経をつかっても、いつのまにか侵入してきているんですよ。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

71 :ナナシズム:2009/12/09(水) 11:26:48 ID:h7w4/wCq
(中略)核兵器というのは男で、世論というのは女という考えを非常に強くもっているんですよ。
…それをさらに敷衍しますと、こういう世の中にしたのは、どうも核が原因じゃないかと思えるんです。
というのは国家権力でも何でも、権力というのは力ですから、「“力”イコール兵器」で、兵隊の数と強い
兵器をもっている方が強い。当然でしょう。それが世界歴史を支配してきた。
いままでは兵器は使えるからこそ強かったんです。ところが使えない兵器をついつくっちゃったんですね。
広島で使ってあんな惨禍を起こして使えなくしてしまった。使えない兵器というのは、あるいは力というのは
恫喝にしか用をなさない。恫喝ないしは心理的恐怖、ひとつのシンボリックな意味だけが強まってきた。
そうなると、片一方の方は使えぬ兵器に対するものとして人民戦争理論みたいに、ずっと下の方から
しみこんでくるやつが出てくるのは当然ですね。それをみて被害者意識というのがだんだん勝つ力になってくる。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

72 :ナナシズム:2009/12/09(水) 11:33:26 ID:h7w4/wCq
広島市民には非常に気の毒だけれども、つまり「やられた」ということが、何より強い立場とする人間ができてくる。
そうすると、やられないやつまでも、やられたような顔をする方がトクだというようになるわけです。
つまり女が男にだまされたといって訴えるようなものです。とにかくトクなのは、なぐることじゃなくて、
なぐられることだと。そして痛くなくとも、「あっ、イタタタ!」というほうがいつも強い立場をつくれる。
それで全学連がヘルメットの下に赤チンを綿にしみこませていて、なぐられると赤チンがダラダラと
垂れるようになっているという話もききますが、それも被害者ぶる者の強さの一例ですね。
被害者という立場に立てば、強いということがわかっちゃっている。なぜなら向こうは力が使えないに決まって
いるんだから。それが世論であり、女の勝利だと思うんですね。女はあくまで「弱い女をどうしてこんなに
いじめるんだ」と、断然反対してくる。すると男はそれ以上、腕力をふるえないから負けちまうわけですね。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

73 :ナナシズム:2009/12/09(水) 11:42:23 ID:h7w4/wCq
…力対力という関係が、戦後の世界ではだんだん薄れてきつつあると思うんですよ。(中略)
われわれの主張は正しいのに、こんなに弱い、武器をもたない学生がやられているじゃないかと、頭から血が
流れているじゃないかと。全学連を非難する人たちも、やっぱりおしゃもじをもって、主婦連じゃないけれども、
弱いわれわれの生活を守るのにはどうすればいいのか、すべて「弱いわれわれ」が前提になっている。
これは世論のいちばん大きな要素で、われわれが世論に迎合するためには、自分が強者、あるいは加害者であったら
たいへんなことになっちゃう。
自衛隊があんなに悪口をいわれるのはもう、自衛隊が力だということがはっきりしているからですね。そして
警察の悪口がいわれるのは、警察が力だということがはっきりしているからですね。力をもっているやつは
かなわない世の中になっちゃっている。これは戦略をよほど考えないと、いまわれわれは左翼の言論を力だと
思って評価したらまちがいで、あれは弱さの力なんですね。
それをいちばん象徴しているのは、ぼくは核と世論というものの関係だと思います。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

74 :ナナシズム:2009/12/09(水) 11:45:36 ID:h7w4/wCq
…「ウエストサイド・ストーリィ」というミュージカルがありますが、実に皮肉な歌が出てきます。
暴力団の不良少年どもが、お巡りがやってくると、みんなで被害者意識を訴える歌を歌うんです。
…われわれに罪もなければ責任もない、教師が悪い、社会が悪い、政治が悪い、経済が悪いというんです。
お巡りは閉口してしっぽを巻いて逃げ出すんです。
ああいう逆手のとり方というのは、日本では一般的になっちゃった。いつも個人が責任をとらないからです。
それは現体制にも責任があるんで、誰も個人が責任をとらなければ、罪を人になすりつけるほかない。
そうすると金嬉老のような殺人犯の罪さえ、誰かに、あいまいモコたるものになすりつけることはできるんですね。
これは人間が、本当に自分個人の責任をとらなくなった時代のあらわれですね。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

75 :ナナシズム:2009/12/09(水) 11:58:11 ID:h7w4/wCq
(中略)たとえばわれわれの中に、自立感情というのがあり、…何とか一人立ちしたい、人に頼らずに生きたいという
気持ちがあることは右も左も問わないと思うんです。その気持ちを左に利用されるというのは非常につらいですね。
たとえば米軍基地反対とか、沖縄を返せとか、どこかに訴える力がありますよね。それは右にも共通するからですね。
ぼくはこのあいだアメリカ人にいったんです。ここらが君たちの性根のきめどころだと。安保条約をやめて
双務協定にするとか、そのためには憲法をかえなければならない、そのときには君らの国に基地をくれと
いったんです。(笑)ロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントンの四ヶ所でいいから、
基地をほしいと……。一坪でもいいんです。そのまわりに基地反対デモが押し寄せても、その一坪の中に
はいってきたら、撃っちまえばいいんですからね。
…向こうで基地反対闘争でも起これば大成功です。(笑)

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

76 :ナナシズム:2009/12/09(水) 11:58:50 ID:h7w4/wCq
…もうひとつは自立という問題に関係するんですが、自衛隊がどうもいざというときには、アメリカの指揮で
動くんじゃないかという心配をみんなもっているわけですよ。
これは自衛隊によく聞いてみても、最終的な指揮権がどこにあるかということになると、実にむずかしいですね。
…最終指揮権については、いろんなカバーがあるわけですね。
…私はどうしても日本人の軍隊をもたなければいかん、どんなに外国から要請があっても、条約がない限り動かんと、
あるいはこっちはこっちの判断でやっていく軍隊がなければならん、そうすると、どうすればいいんだということを
いろいろ考えた。どうしても二つに自衛隊を分けて、全くの国土防衛軍と、それから国連協力軍の二つに分ければいい。
…ぼくは陸上自衛隊の九割までは国土防衛軍でいいと思う。そうすれば、その軍隊はどんなことがあっても
日本をまもるため以外は動かないんだから、国民の信頼を得ますよね。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

77 :ナナシズム:2009/12/09(水) 12:03:11 ID:h7w4/wCq
(中略)
防衛大学の学生なんかに聞きますと、われわれの軍隊はシビリアン・コントロールの軍隊であると。
だから政権がかわれば、それに従うのは当然だと。日本に共産政権ができれば、われわれは共産軍になるのは
当然だという考え方をするのが、かなり多いらしいですね。
そういう考え方は間違いだということを世間はこわいから教える自信がないんです。これは軍隊の重大な問題で、
自衛隊というのは、もともとイデオロギッシュな軍隊であるということを、もっと周知徹底させないと……。
それを世間でたたき、国会でたたき、ぼくにいわせると、イデオロギー的な軍隊であるけれども、名誉の中心は
やはり天皇であるというところで、すこし極端ですが、そこまでいかなければだめだと思うんです。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

78 :ナナシズム:2009/12/11(金) 08:49:05 ID:nGmxOjIP
3

79 :ナナシズム:2009/12/11(金) 14:37:47 ID:GzPGQ6A7
もちろんわれわれは、いたづらに自己を拡張し、いたづらに古い軍国主義や、軍国主義の幻に惑はされて、
日本をそのうぬぼれの成し進めるままに、昔の誤りを繰り返へさせようとするものではありません。しかし、
私が言ひたいのは、元と末といふことであります。何よりも大事なのは、何を元と考へ、何を末と考へるかであり、
まづ元を固めてから末に及ぼすのが、政治のみならず人間精神の常道であります。元とは何か。
元とは、日本が自主自尊の念を持つて国防に邁進し、日本文化と伝統を守るのに人の力を借りず、その力を
侵さうとするものに対しては、一人一人、断固としてこれを排除する決意を持ち、少なくとも国民の一人一人に、
このやうな背すぢが一本通つたところで、はじめて堂々と面を上げて諸外国と交際し、産業・文化の交流はもちろん、
国益のために必要があれば軍事同盟もいとはず、あるひは国際連合への義務をも回避しないといふところに
あるのでなければなりません。

三島由紀夫
「70年代新春の呼びかけ」より

80 :ナナシズム:2009/12/11(金) 14:41:27 ID:GzPGQ6A7
(中略)私は、十月二十一日の新宿における反戦デモの見物に行きましたが、あのデモを見物したあとの私の感想は、
ただ一言「これで日本の憲法は変はらない」といふことでありました。(中略)
もし政府当局者が、この現場を見れば、もはや憲法を変へなくても、あらゆることが可能であるといふ判断を
持つたに違ひなく、しかも憲法を変へないといふことは、国際的、国内的に二つの極端なメリットを持つ
といふことを認識したに違ひありません。
(中略)また憲法自らは、相変はらず偽善的なただ乗り主義と、肩身の狭いやうにみえる防衛義務と相携へて
いかねばならんといふ跛行的状況の永続を意味し、われわれが矛盾に耐へるのをおそれれば、みすみす外国の
術中に陥り、われわれが矛盾を甘受すれば、知らない間に精神の弛緩状態に陥つて、ますます現状維持の泥沼に
沈むかもしれないからです。
われわれは狼にならうとすれば熊に食はれ、豚にならうとすれば人間に食はれるのかもしれないのです。

三島由紀夫
「70年代新春の呼びかけ」より

81 :ナナシズム:2009/12/11(金) 14:43:20 ID:GzPGQ6A7
国際関係はいつも微妙な力のバランスの上に立ち、一国民のナショナリズムをもつてしても、なんともなる
ものではありません。しかし一九七〇年を境に、われわれは個々に目をらんらんと光らせてわが身を振り返へり、
世道人心の奥に目を開いて、そこに底流するものを認識し、日本とは何か、真のナショナリズムなるものとは何か、
それを守るにはどうすればよいかを考へなくてはなりません。いまやナショナリズムは、新聞紙上や街頭で
絶叫される演説の叫びではなくて、われわれの一人一人に対する鋭い問ひかけになつたのであります。
ナショナリズムとは何か。ナショナリズムとは、軽々しく心に訴へるやうなものではなく、われわれの心の
奥底にあるものに対して、鋭い深いふれ方をし、われわれの最も美しい記憶とまた最もおそろしい記憶とも
結びついてゐるやうなものであります。

三島由紀夫
「70年代新春の呼びかけ」より

82 :ナナシズム:2009/12/11(金) 14:45:03 ID:GzPGQ6A7
それは、ヘルデルリンのハイムクンフト(帰郷)といふ詩にもあるやうに、ふるさとといふものは、われわれの
いちばん奥にあつて最もなつかしいものであると同時に、最もおそろしいものなのであります。
日本でいま、このやうなナショナリズムなものはあるでせうか。この民主主義の、言論自由の世の中で、
米軍基地撤廃も、沖縄の即時奪還も、いかやうな政治的な主張も、あるひは北方領土返還にしろ、言論として
声高に叫ばれ、また整然たるデモ行動にあらはされれば、自由にあらはされることができるものであります。
そのかはりそれは大衆社会の中で、不可能を、難業を、道理立てはするが、また再び忘れられるおそれのある、
いくつかの政治的主張の一つなのであります。
もはやわれわれのいちばん心の奥底で鋭い問ひを問ひかけ、外国のあらゆる力の干渉に対して、何千年の歴史・
伝統をもつて堂々と応へ得るものはただ一つ、天皇しかないといふのが、私の長年の主張であります。

三島由紀夫
「70年代新春の呼びかけ」より

83 :ナナシズム:2009/12/11(金) 14:58:15 ID:GzPGQ6A7
人は、天皇と言ふと、たちまち戦前、明治憲法下における天皇制の弊害を思ひ出し、戦争からにがい経験を得た人ほど、
天皇制に対する疑惑を表明してきたのが常ですが、私は、天皇制とは、その歴史は、あくまでもその時代時代の国民が、
日本人の総力をあげて創造し復活させてきたものだと思ふのです。いつも新しい天皇制があり、いつも現在の天皇制が
あり、その現在の天皇制の連続の上に永遠の天皇制があるといふところに、天皇の本質がひそむのです。これは
一つの例をとつても、天皇ご自身にわれわれのやうな姓名ファミリーネームがなく、一つの非人称的な方として
伝承されてきたことをみてもわかります。新しい天皇制は、われわれがつくつていくものであり、そしてこれを
抜きにしては日本の今後の自立の精神の中心は見あたらず、また天皇をいたづらに政治権力に接着おさせすることなく、
あくまで無限受容の無我の本主体として、その日本独自の歴史・文化・伝統のみにかかはる君主制を確立
しなければなりません。
…左翼の民族主義が、その欺瞞を露呈するのは、彼らから天皇に対する態度徹底を、はつきりと再び引き出す
ことにしかないでせう。

三島由紀夫
「70年代新春の呼びかけ」より

84 :ナナシズム:2009/12/13(日) 15:36:01 ID:TT7WYBqS
よく明治時代の小説にありますが、胸の悪い女の人は美人に見えて、白い頬つぺたにポッと赤みがさしてて
きれいである。堀(辰雄)さんの小説を見ると、いかにも胸の悪い美人といふ感じがするんです。
私は小説と肉体との関係といふものを、これもずいぶん考へました。私も実は昔胃弱で、大蔵省にゐた頃は
非常な胃弱でした。当時から、小説の締め切りが近づくと胃が痛んでしやうがないんで、壁に足をのせて
逆立ちして、しばらく我慢したりしてた。こんなことを続けてゐたら今に肉体的破産である、さう思ひまして
私は、自分の身体を鍛へ直さうと思つたわけです。
(中略)
私は、文士といふものは肉体のもうひとつ奥底にあるもので書くんだが、肉体といふものはそれを媒体にして
出てくる大事な媒体だといふふうに考へるんです。

三島由紀夫
「日本とは何か」より

85 :ナナシズム:2009/12/13(日) 15:39:34 ID:TT7WYBqS
小説を書くときには、自分の幼時記憶やら、あるひはもつと生まれる前の記憶もあるかもしれません、人類の
いろんな記憶がわれわれの精神のなかに堆積されてゐる。自分の無意識のなかへ手を突つ込めば、どこまで
ズルズル入りこむか分からない。しかしその奥そこに何かがあつて、それが自分に芸術作品を書くやうに
そそのかしてゐる。多少神秘的な考へですけれども、ユンクの言ふやうな集合的無意識、その集合的無意識が
ある人間に技術を与へて小説を書くやうに促してゐるんだといふふうに私は考へるわけです。
(中略)書くといふ行為にも肉体が媒体になつてゐるのがはつきりしてゐるんですから、したがつてその媒体に
何かの故障があれば、もつと基にあるものが出てくるときにどこかでひつかかるに違ひない。これは、フィルターで
濾されるやうなものであります。私は、小説家としてなるたけ濾されないで、途中で何かにひつかからないで
出てくるやうに自分の身体をこしらへようと思つたのが、私が体育に精を出した端緒でありました。

三島由紀夫
「日本とは何か」より

86 :ナナシズム:2009/12/13(日) 15:41:53 ID:TT7WYBqS
と申しますのは、前にお話ししたやうに、堀辰雄さんの小説といふものは非常にいいけれども、堀辰雄はどうしても
旋盤工の話は書けない。どんなに頑張つても新宿デモの話を書けない。堀さんの小説の世界といふものは、完全に
限られてゐる。それからまた川端康成さんは、これは非常な胃弱といひますか不眠症の方でありまして、やはり
この方の小説は非常に優雅な美しい小説でありますけれども、川端さんがストライキの小説を書いたといふものは
ひとつもない。さういふ具合に、作家といふものはかなり肉体によつて掣肘されてゐるやうな感じがする。
人間の問題全部に興味を持つのが作家であるとすれば、その媒体でもつてひつかかるものをとらなきやならない。
媒体をなるたけ自由に、透明に自在にしておいて、さうすることによつて媒体の力をフルに使つて媒体以前のもの、
自分のもつとも源泉的なものを表に出さなきやいかんといふふうに考へてきたわけです。

三島由紀夫
「日本とは何か」より

87 :ナナシズム:2009/12/14(月) 12:03:22 ID:zv+ocBkZ
(中略)日本といふ国が非常に特徴的だと思ふのは、私が日本のことを考へると日本も日本のことを考へて
ゐるんだといふ神秘的な共感を感じるんです。
(中略)私はやはり、安保反対か賛成かで分けられないものが日本人のなかにある。
(中略)来年の六月の安保は自動延長になるでせうが、さういふ時期を経過して日本が揺れ動いていくときには、
表面上のかたちは安保賛成か反対かといふことで非常な衝突が起こるでありませう。しかし私は、安保賛成か
反対かといふことは、本質的に私は日本の問題ではないやうな気がするんです。
…私に言はせれば安保賛成といふのはアメリカ賛成といふことで、安保反対といふのはソヴィエトか中共賛成と
いふことだと、簡単に言つちまへばさうなるんで、どつちの外国に頼るかといふ問題にすぎないやうな感じがする。
そこには「日本とは何か」といふ問ひかけが徹底してないんぢやないか。

三島由紀夫
「日本とは何か」より

88 :ナナシズム:2009/12/14(月) 12:07:45 ID:zv+ocBkZ
私はこの安保問題が一応方がついたあとに初めて、日本とは何だ、君は日本を選ぶのか、選ばないのかといふ
鋭い問ひかけが出てくると思ふんです。そのときには、いはゆる国家超克といふ思想も出てくるでありませうし、
アナーキストも出てくるでありませうし、われわれは日本人ぢやないんだといふ人も出てくるでありませう。
しかし、われわれは最終的にその問ひかけに直面するんぢやないかと思ふんです。
(中略)
「戸籍はあるけど無国籍だ。俺は日本人なんてもんぢやない。人間だ」
…かういふ人たちがこれから増えてくる、「あくまで私は日本人だ」「オレは日本人ぢやない」――さういふ
二種類の人種がこれから日本に出てくる。そのときに向かつて私は自分の文学を用意し、思想を用意し、あるひは
行動を用意する。さういふことしか自分には出来ないんだ。これを覚悟にしたい、さう思つてゐるわけであります。

三島由紀夫
「日本とは何か」より

89 :ナナシズム:2009/12/15(火) 16:09:21 ID:dT+ZY/xO
劇画や漫画の作者がどんな思想を持たうと自由であるが、啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点で
もうおしまひである。かつて颯爽たる「鉄腕アトム」を想像した手塚治虫も、「火の鳥」では日教組の御用漫画家に
なり果て、「宇宙虫」ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも「ガロ」の「こどもの国」や「武蔵」連作では
見るもむざんな政治主義に堕してゐる。
一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。「もーれつア太郎」の
スラップスティックスを喜ぶ精神と、それは相反するではないか。ヤングベ平連の高校生と話したとき、
「もーれつア太郎」の話になつて、その少年が、
「あれは本当に心から笑へますね」
と大人びた口調で言つた言葉が、いつまでも耳を離れない。大人はたとへ「ア太郎」を愛読してゐてもかうまで
含羞のない素直な賛辞を呈することはできぬだらう。赤塚不二夫は世にも幸福な作者である。

三島由紀夫
「劇画における若者論」より

90 :ナナシズム:2009/12/15(火) 16:11:46 ID:dT+ZY/xO
(中略)世の中といふのは困つたもので、劇画に飽きた若者が、そろそろいはゆる「教養」がほしくなつてきたとき、
与へられる教養といふものが、又しても古ぼけた大正教養主義のヒューマニズムやコスモポリタニズムであつては
たまらないのに、さうなりがちなことである。それはすでに漫画の作家の一部の教養主義になつて現はれてをり、
折角「お化け漫画」にみごとな才能を揮(ふる)ふ水木しげるが、偶像破壊の「新講談 宮本武蔵」(一九六五年)を
描くときは、芥川龍之介と同時代に逆行してしまふからである。若者は、突拍子もない劇画や漫画に飽きたのちも、
これらの与へたものを忘れず、自ら突拍子もない教養を開拓してほしいものである。すなはち決して大衆社会へ
巻き込まれることのない、貸本屋的な少数疎外者の鋭い荒々しい教養を。

三島由紀夫
「劇画における若者論」より

91 :ナナシズム:2009/12/17(木) 14:33:46 ID:lAWJf6nT
或る有名な左派の政治学者は、戦後二十年、ファシズムと軍国主義以上に悪いものはないと主張する政治学で
人気を得てゐたが、新左翼の学生に研究室を荒らされ、頭をポカリとなぐられたとき、「ファシストもこれほど
暴虐でなかつた。軍閥でさへ研究室まで荒らさなかつた」と叫んだ。二十年間彼が描きつづけた悪魔以上の悪魔が、
他ならぬ彼の学説上の弟子の間から現はれたといふわけだ。
日本民族の独立を主張し、アメリカ軍基地に反対し、安保条約に反対し、沖縄を即時返還せよ、と叫ぶ者は、
外国の常識では、ナショナリストで右翼であらう。ところが日本では、彼は左翼で共産主義者なのである。
十八番のナショナリズムをすつかり左翼に奪はれてしまつた伝統的右翼の或る一派は、アメリカの原子力空母
エンタープライズ号の寄港反対の左翼デモに対抗するため、左手にアメリカの国旗を、右手に日本の国旗を持つて
勇んで出かけた。これではまるでオペラの舞台のマダム・バタフライの子供である。

三島由紀夫
「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より

92 :ナナシズム:2009/12/18(金) 10:49:53 ID:3HWNplT4
…戦後の変節の早さ、かりにも「一国一城の主」が、女みたいに「私はだまされてゐた」と言ひ出すのを見ては、
私はいはゆる文化人知識人の性根を見たやうな気がしたのである。
大体、文化人や知識人と名乗るだけの人間が「だまされてゐた」では通るまい。この種の人たちは、十中八九、
口ほどにもないお人よしで、実際にだまされてゐたのかもしれないが、それを言はないで、だまされてゐたままの
自分の形を押し通すだけの自負がなかつたのか。思想的弾圧のはげしさは言語を絶してゐたかもしれないが、
いくら割り引いてみても、知識人文化人のたよりなさの印象はのこるのである。
変節防止のために相互監視をやつたらどうか。言論の自由を守るとは、結局自分を守ることだといふのでは情けない。

三島由紀夫
「フィルターのすす払ひ」より

93 :ナナシズム:2009/12/18(金) 10:51:37 ID:3HWNplT4
「われわれの考へる言論の自由」といふものを本当に信じ、それを守り抜くためには、一人一人ばらばらでは、
はなはだたよりなかつた前歴があるから、今度は二度と引き返せぬやうに、相互監視でもやつて変節を
防止しなければ、第一、われわれの言論を信じてくれる読者各位に対して申し訳ないではないか。
十年もつといふ宣伝で買つた洗濯機が、三日でこはれてしまつては、商業道徳に反するではないか。
大体、文化人知識人などといふものは、弱い立場なのである。社会的地位もあいまいで、非常の場合に力で
押して来られたら一トたまりもない。
幸ひ今は平和な時代で、大きな顔をしてゐられるが、われわれが大きい顔をしてゐられるから、平和がありがたい、
といふのでは、材木が売れるから地震がありがたい、といふ材木屋の考へと同じである。

三島由紀夫
「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より

94 :ナナシズム:2009/12/18(金) 10:56:33 ID:3HWNplT4
(中略)
世論なるものの作られ方自体にも、相当怪しいところがあるのである。子供にだつて、シュークリームと
あんころもちの二つを選ばせれば、どちらがうまいか、自分の意見を決めることができるが、シュークリームだけを
与へつづければ、世界中でシュークリームほどうまいものはないと思ふやうになる。
今、日教組がとなへてゐる「教育の自由」とは、シュークリームだけを与へる教育の自由なのである。
ジャーナリズムの有力な傾向も、公正に見せかけた「選択の自由の排除」であつて、われわれは言論を通じて、
公正な選択の場を何とか確保しようと努めてゐるにすぎない。

三島由紀夫
「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より

95 :ナナシズム:2009/12/18(金) 10:58:16 ID:3HWNplT4
現代政治の特徴は何事も世論のフィルターを濾過されねばならぬことであらうが、そのフィルターにくつついた
煤の煤払ひをしなければ世論自体が意味をなさぬ。
かくも強力なフィルターが、煤のおかげで、ひたすら被害者、被圧迫者を装つて、フィルターの濾過を拒んで
ゐるやうな状況は、不健全であるのみならず、フィルターの権威を落すものであると考へる。
かくてわれわれは、手に手に帚を持つて、煤払ひの戦ひに乗り出したといふわけなのである。

三島由紀夫
「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より

96 :ナナシズム:2009/12/18(金) 16:50:49 ID:3HWNplT4
テレビをみんなで眺めながら黙つて食事をするこのごろの悪習慣は、私のもつとも嫌悪するところであるので、
どんな面白い番組があつても、食事中はテレビを消させる。
私は一週一回は必ず子供たちと夕食をとるが、多忙な生活で、それ以上食事を共にすることができない。
子供たちの就寝時間は厳格に言ひ、大人の都合で遅寝をさせるやうなことも決してせず、まして子供のわがままで
時間をおくらせることもしない。休日といへども、同様である。
子供を連れて出れば、必ず、就寝時間三十分前には帰宅する。
子供のつくウソは、卑劣な、人を陥れるやうなウソを除いては、大目に見る。
子供のウソは、子供の夢と結びついてゐるからである。

三島由紀夫
「わが育児論」より

97 :あへあへ:2009/12/18(金) 21:12:38 ID:v0z1NMRN
っておいおい、
三島の作品はホモの世界だろ。
とんだ悪影響だぜっ!

98 :ナナシズム:2009/12/25(金) 14:24:34 ID:hEt2P+Qg
明治維新のときは、次々に志士たちが死にましたよね。あのころの人間は単細胞だから、あるいは貧乏だから、
あるいは武士だから、それで死んだんだという考えは、ぼくは嫌いなんです。
どんな時代だって、どんな階級に属していたって、人間は命が惜しいですよ。それが人間の本来の姿でしょう。
命の惜しくない人間がこの世にいるとは、ぼくは思いませんね。だけど、男にはそこをふりきって、あえて
命を捨てる覚悟も必要なんです。維新にしろ、革命にしろ、その覚悟の見せどころだとぼくは思うんだが、
全共闘には、やっぱり生命尊重主義というか、人命の価値が至上のものだという戦後教育がしみついていますね。

三島由紀夫
古林尚との対談「最後の言葉」より

99 :ナナシズム:2009/12/25(金) 14:26:14 ID:hEt2P+Qg
(中略)
ぼくがウソだと思ったのは「きけわだつみのこえ」でした。あの遺稿集(きけわだつみのこえ)は、もちろん
ほんとに書かれた手記を編集したものでしょう。だが、あの時代の青年がいちばん苦しんだのは、あの手記の
内容が示しているようなものじゃなくて、ドイツ教養主義と日本との融合だったんですよね。
戦争末期の青年は、東洋と西洋といいますか、日本と西洋の両者の思想的なギャップに身もだえして悩んだものですよ。
そこを突っきって行ったやつは、単細胞だから突っきったわけじゃない。やっぱり人間の決断だと思います。
それを、あの手記を読むと、決断したやつがバカで、迷っていたやつだけが立派だと書いてある。
そういう考えは、ぼくは許せない。

三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より

100 :ナナシズム:2009/12/28(月) 12:53:43 ID:74sHEoGL
二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。
生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義と
そこから生ずる偽善といふおそるべきバチルスである。
こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へてゐた私はずいぶん甘かつた。
おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。
政治も、経済も、社会も、文化ですら。
私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思はれてゐた。私はただ冷笑してゐたのだ。
或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑・自分の
シニシズムに対してこそ戦はなければならない、と感じるやうになつた。

三島由紀夫
「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より

101 :ナナシズム:2009/12/28(月) 12:55:37 ID:74sHEoGL
(中略)
この二十五年間、思想的節操を保つたといふ自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。
(中略)
それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、といふことである。否定により、批判により、
私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与へて約束を果たすわけではないが、政治家の
与へうるよりも、もつともつと大きな、もつともつと重要な約束を、私はまだ果たしてゐないといふ思ひに日夜
責められるのである。これも「男の意地」であらうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間を、
否定しながらそこから利得を得、のうのうと暮らして来たといふことは、私の久しい心の傷になつてゐる。

三島由紀夫
「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より

102 :ナナシズム:2009/12/28(月) 13:00:08 ID:74sHEoGL
>>101訂正
(中略)この二十五年間、思想的節操を保つたといふ自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。
(中略)
それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、といふことである。否定により、批判により、
私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与へて約束を果たすわけではないが、政治家の
与へうるよりも、もつともつと大きな、もつともつと重要な約束を、私はまだ果たしてゐないといふ思ひに日夜
責められるのである。その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、といふ考へが時折頭をかすめる。
これも「男の意地」であらうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間を、否定しながら
そこから利得を得、のうのうと暮らして来たといふことは、私の久しい心の傷になつてゐる。

三島由紀夫
「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より

103 :ナナシズム:2009/12/28(月) 13:01:53 ID:74sHEoGL
個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやつてきたことは、ずいぶん奇矯な企てであつた。まだそれは
ほとんど十分に理解されてゐない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、
私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによつて、その実践によつて、文学に対する近代主義的
盲信を根底から破壊してやらうと思つて来たのである。(中略)
二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望が
いかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。
これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。

三島由紀夫
「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より

104 :ナナシズム:2009/12/28(月) 13:03:47 ID:74sHEoGL
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。
このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。
日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、
或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。
それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。

三島由紀夫
「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より

105 :ナナシズム:2009/12/29(火) 10:51:58 ID:???
>>100-104
同じく日本に対して異議を唱えた福田恆存は天寿を全う出来たのですが。

106 :ナナシズム:2009/12/29(火) 14:51:14 ID:???
>>105
三島には、批判している戦後社会に身を置きそこで生活を営んで利得を得ながら、それを真から糾弾することはできない、
糾弾者自身の死とひきかえにしかその真の糾弾はなされない、という思想があったからでしょうね。

107 :ナナシズム:2009/12/30(水) 21:13:30 ID:???
>>106
ただ1970年以降の社会を見ると、彼は死に急くべきでは無ったんじゃ? とも思うんですよ。

「西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行って神風連を調べて感動したことは、
一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋霽堅が、
私と同年で死んだといふ発見であつた。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ」
「年をとることは滑稽だね、自分が年をとることを、絶対に許せない」

そんな事言わないでまだまだ日本へですね…貴方なら出来たと想うんですよ。


108 :ナナシズム:2010/01/05(火) 12:07:56 ID:???
>>107
彼は死に急いだのではなくて、三島の場合、「自身が死ぬこと」それ自体が戦後社会への痛烈な批判行動そのものだったのでしょう。
自身の天才の自負もあったでしょうし、自身の才能と引き替えに戦後批判を体当たりでしたんだと思います。

それと同時に、三島の中では常に、戦火に散っていった同世代の仲間と共に死ねなかった贖罪、負い目、
生き残ってしまった贖罪の気持ちがずっとどこかにあったんだと、私は彼の様々な著書を読んで感じます。

彼の中では「死に急いだ」のではなくて、常に「死に遅れている」感覚があったように、感じられます。

ただこういうある意味、日本人独特の道義の感覚の人でありながら日本人を超えた幅広い天才の人だったからこそ、
私も三島のような人に是非長生きして日本の言論界で長く活躍してほしかったと思います。
彼も本当の本心ではきっと生きていたかったんじゃないでしょうか。
「私は一度だって死にたいなんて思ったことなんかなかった」という告白もありますが、これが人間としての(作家ではなく)正直な本音だったと思います。

109 :ナナシズム:2010/01/11(月) 16:11:59 ID:+WOC5CmM
ところで私はあらゆる楽観主義、楽天主義がきらひである。
ファクトといふものは、悲観をも楽観をも蹂躙してゆく戦車だといふのが私の考へで、ファクトに携はらぬ人は
往々歴史を見誤まるのである。

三島由紀夫
「三島由紀夫のファクト・メガロポリス」より

110 :ナナシズム:2010/01/15(金) 11:26:01 ID:???
どうもこの日本人といふのは、防衛といふ問題について、まだ戦争のアレルギーが残つてゐる。すぐ、徴兵制度の
恐怖といふのを考へる。私はこの機会にもはつきり申し上げておきますが、徴兵制度は反対であります。少なくとも
自分の意志に反して兵隊にするといふことは、これからの時代には、私は原理的に不可能なんぢやないかと思ふんです。
そんな兵隊が軍隊にゐたら反戦運動やるに決まつてるし、パンフレットを配るに決まつてるんです。そんな人間で
軍隊が内部崩壊することを恐れるのに比べれば、人数は少なくつてもいいから、やりたいつて奴だけ集めればいい。
それ以外の人間は、もし戦争でも起きたらどういふふうに国に協力できるか。それは各々の軍を持つてやればいい。
…普段の平時からそれぞれの能力に応じて、一旦緩急ある時に協力できる体制を作ればいいぢやないか。

三島由紀夫
「我が国の自主防衛について」より

111 :ナナシズム:2010/01/19(火) 17:23:39 ID:GGS3MQCY
【本文】↓
国民精神といふものは、歴史と伝統と文化との誇りから自然に生まれてくるものである。外国から押しつけられた教育で、
国民の誇りをなくすやうな方向へ日本を持つて行きながら、さうして国民精神を自ら崩壊させる方向へ持つて
行きながら、何をもつてさういふものを基盤にした防衛といふものが成り立ちうるか。
それで、私はまたしても憲法の問題に戻つてくるんです。私共のやうな人間が絶えず憲法を改正しろと言つて
ゐなければ、もう憲法改正の気運は永久にどつかへ消えてしまふでありませう。私はあの敗戦憲法を敗戦の日本に残した、
この傷跡をですね、なんとかして改善しなけりやならんといふことを永年考へてきたんです。しかし、我々が
いくら言つてもダメだといふやうな悲しい事態になつたのに、国民はそれについて憲法改正できないといふことは、
何を意味するんだといふことを考へないできたんです。

三島由紀夫
「我が国の自主防衛について」より

112 :ナナシズム:2010/01/20(水) 16:41:32 ID:zxMmHKZs
それでは憲法改正すりや、ファッショになるだらうか。これが非常に問題なんですね。
ナチスはワイマール憲法を改正してないのは、皆さんご存知と思ふんです。
ナチスはたうとう憲法改正事業つていふことを、やつてないんです。そして、全権授権法つていふのを成立させたのは、
ワイマール憲法下で成立させたんです。あくまで平和憲法下でナチズムといふものは出てきたんです。
この事実、歴史的な事実をよく知らない人間は、憲法改正すればファシズムになる、ナチズムになると言ふんです。

三島由紀夫
「我が国の自主防衛について」より

113 :ナナシズム:2010/01/22(金) 12:24:58 ID:3P8c5LQb
三島:日本人はアジアでも特殊な民族で、外来文明に対する抵抗力はいちばん強いと思う。肺結核の黴菌に
対しても、清浄な空気の田舎から出てきた人は非常にかかりやすく、都会でもまれて免疫になっている人は
かかりにくいのと同じで、日本は外来文化の吹きだまりと言われているぐらいなので、抵抗力はアジアでいちばん強い。
インド人は依然としてサリーを着ている。インド人は外来文化に対して立派に抵抗している。日本人の男は
似合いもしないセビロを着、女はドレスを着ている。
皮相な観測をする外国人は、日本人は無節操で外来文化に対する抵抗力がないというが、そんなことはない。
似合わないセビロを着ていられるから抵抗力があるのだ。そういう恰好ができないということは、逆にいえば
抵抗力がないということだ。ガンジーが糸車で抵抗したのはそれを知っていたからだ。

三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より

114 :ナナシズム:2010/01/22(金) 12:28:55 ID:3P8c5LQb
三島:トインビーが言っているように、東南アジアから近東地方にかけての西洋文明の侵略に抵抗しえたのは
ガンジーの糸車である。もし、たとえ小さな機械でも、あれを機械に変えていれば、堤に穴があいたように、
そこからどっと西洋文明が入って来る。そして社会が改革され、経済が改革され、西洋人が教えたとおりにやっていく。
現に東南アジア諸国は西洋をまねて革命を起こそうとしているが、日本はその点、いつもぐずらぐずらしている。
明治維新だってしようがないからやったんだ。のらりくらりで、相手を受け入れても抵抗力を失わない。
これは自信を持っていいと思う。冷蔵庫やテレビをおいても、もう一つの世界を持っていける力がある。
人生をフィクションにする力は、日本人の大きな力だ。

三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より

115 :ナナシズム:2010/01/22(金) 12:32:07 ID:3P8c5LQb
三島:アメリカ人をご覧なさい。アメリカ人は六つの頃からセビロを着て、死ぬまでセビロを着なければならない。
ほかに着るものがない。人生をフィクションにする部分は一つもない。教会に行ってもプロテスタントの教会だから、
カソリックと違って飾り物やお祭があるわけでもない。
その一生は、人生のフィクションを味わうものがなにもないから、じつにさびしいものだろう。そうだから、
日本の文化に見られる人間精神の、純粋な結晶に、憧れを感じる。日本人はそれをケロっとして持っている。
自信を持っていい。
千:私もそれを考えて、ある席で言ったことがある。日本人は模倣性が強いというが、そんなことは考えなくともよい。
無意識のうちに外にいるときは洋服、畳の上にいるときは着物を着る。衣食住に関しては、外国人ができないことを
平然としてやれる。ですから、こういう機械文明の時代になっても、茶室で静かに自分の境地をさがし出すこともできる。

三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より

116 :ナナシズム:2010/01/22(金) 12:35:44 ID:3P8c5LQb
編集者:(中略)お茶事は演出するもの、フィクションである。しかも、それは歌舞伎の「先代萩」とか
「菅原伝授」とか、たとえ俳優がかわっても繰り返してなんべんでもやれるというものではない。
だから一期一会……。
千:一期一会はお茶から出ているんだが、べつにお茶だけに限らなくともいいでしょう。人間はおたがいに
生活に追われているから、一日の一瞬間でも、ほんとうに心からとけあってお茶事を構成していこう、そういう
解釈でいいんじゃないですか。今日会えば二度と会えなくても満足だという真剣勝負のような気持、そういう
気魄は当然あるべきだと思う。ただ、それを押しつけては、おたがいに窮屈になってしまうけれど。
三島:最高の快楽というのはそういうもんじゃないか。
現在の一瞬間を最高に楽しむ。非常にストイックな快楽ということになりますね。

三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より

117 :ナナシズム:2010/01/22(金) 12:39:48 ID:3P8c5LQb
千:瞬間瞬間をいかに満足するか。お茶を出す亭主はどういうようにすればお客さんに喜んでもらえるか、また
客のほうは、どうすれば雰囲気のなかに溶け込んで、自分というものが亭主に快く受け入れられるかという
瞬間的なふれあい、それは今言われたように、最高の快楽、和・敬・清・寂というものだろうと思う。
三島:たいへん教養のあるアメリカの婦人が、日本にきて、北鎌倉のあるお寺に行ってそこの高僧に会った。
春で庭に梅の花が咲いていた。その人は日本語ができないので、おそるおそる座敷に入って、端近に座った。
やがて和尚さんが現われてニッコリした。彼女もなにもわからないがニッコリした。その瞬間、彼女はここで
死んでもいいと思ったそうです。これまで五十何年間生きてきたけれども、自分が死んでもいいと思った瞬間は
あのときがはじめてだといっていたが、ここに道を求むる人ありという感じでした。(笑)

三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より

118 :ナナシズム:2010/01/22(金) 12:46:13 ID:3P8c5LQb
三島:(中略)これは古い言葉ですが、伝統芸術というのはおしなべて「捨身飼虎」の精神がほしいと思う。
身を捨てるということは、現代ではセビロを着ること、テレビを見ること、洗濯機を使うこと、地下鉄を乗ること、
これが現代の捨身。お茶はほんとうにおそろしいものですよという位置まで高めるのが飼虎。そうしなければ
いけないと思う。いま歌舞伎や能の人のやっていることは、虎が檻から勝手に出てしまって、自分では虎を
飼っていない人が多い。そこで身を捨てないで、着物、羽織、袴をはいても、虎がいないのでは人の心をつかめない。
お客さんは檻のなかに虎がいないことを知っている。(中略)
編集者:…お茶は虎だというのは非常に大切だと思います。盲蛇におじずで、虎を猫だと思っている人が多いから、
猫じゃなくて虎だということを知らせるのは伝統を守るために必要なことでしょう。外人を茶室に入れたら、
キチッと坐らせて、猫じゃなく虎だと思わせることは非常に必要なことですね。
三島:ますますこれから必要でしょう。総理大臣までチョロチョロしている世の中で、日本の凜然たるものを
持っているのは伝統芸術だけだということになるかもしれないね。

三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より

119 :ナナシズム:2010/01/24(日) 11:10:14 ID:NY8cjvyZ
三島:…GHQと戦争裁判という問題はね、単なる思想問題として考えますと(いまや僕は、政治問題としての
意味よりも思想問題として影を落としていると思うのですが)GHQの理念、あるいは戦争裁判の理念というのは、
近代的普遍的諸価値のヒューマニズムがおもてだっているわけです。そうすると、戦後にそういう諸観念がもう一度
復活して、天下をまかり通って、同時にその欺瞞をあらわしたということで、僕はアメリカの影響というのは、
日本の戦後思想史には非常に強いというふうに考える。みんなが思っているよりも。というのは、アメリカという国は、
十八世紀の古典的な理念が、おもて向きいちばんのうのうと生きている国なんですね。アメリカはああいう
人種の雑種の国ですし、歴史は浅いし、インターナショナリズム的な観念でも、国内でじゅうぶん充足するわけです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

120 :ナナシズム:2010/01/24(日) 11:15:17 ID:NY8cjvyZ
たとえばここにフランス系アメリカ人と、ドイツ系アメリカ人と、オランダ系アメリカ人の三人の話を通じさせるのに、
結局先祖のもとまでもどって、十八世紀的な理念で伝達するほかない。だから彼らは、自由といい、平和といい、
人類というときに、それは信じていると思う。それは彼らの生活の根本にあって、そういうものでもって国家を
運用し、戦争を運用し、経済を運用してやっている。それが日本にきてみた場合に、日本人がそういうような、
ある意味で粗雑な、大ざっぱな観念で生きられるかどうかという、いい実験になったと思う。(中略)
たとえば川島武宣の民法学を僕は習いましたが、民法学のなかにおいて、彼のギリギリの近代主義民法学ですがね、
そんなものは絶対日本の社会構造には妥当しなかった。戦後になってやってみた結果、アメリカが与えたと同時に、
アメリカ人の考えている自由、アメリカ人の考えている人類、アメリカ人の考えている平和というものは、
ベトナム戦争もやれるものであるということがわかってきたということだ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

121 :ナナシズム:2010/01/24(日) 11:25:58 ID:NY8cjvyZ
これは大きな問題だと思う。そうすると、アメリカ人はベトナム戦争をやっても、やはり自由を信じ、平和を
信じていると思う。これは嘘ではないと思う。彼らはけっしてそんな欺瞞的国民ではありませんし、彼らは
戦争をやって自由のために戦っているというのは、嘘ではないですよ。彼らは心からそう信じている。
ただ日本人は、そんな粗雑な観念を信じられないだけなんです。というのは、日本で自由だの平和だのといっても、
そんな粗雑な観念でわれわれ生きているわけではありませんからね。そこに非常に微妙な文化的なニュアンスがあって、
そこのうえで近代的な観念が生きている。それが徐々にわかってきたというのが、いまの思想家全体の破綻の原因で、
それは結局アメリカのおかげだと思うのです。それを与えたのもアメリカなら、反省を促したのもアメリカですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

122 :ナナシズム:2010/01/24(日) 11:34:32 ID:NY8cjvyZ
林:アメリカニゼーションは、日本の戦後のはっきりした現象ですが、その初期にはアメリカ出先機関の
アメリカニゼーションだったな。日本弱化と精神的武装解除の軍人政治にすぎないものを、アメリカニゼーションと
思いこんだのが三等学者です。新憲法とともに登場して来た三等学者がたくさんいる。
彼らが新憲法を守れというのは当然です。…
三島:…しかも、丸山(真男)さんなどでも、ファシズムという概念規定を疑わないのは不思議ですね。
ファシズムというのは、ぜんぜん日本にありませんよ。
林:絶対ありません。どう考えてもね。
三島:そういう概念規定を日本にそのまま当てはめて、恬然と恥じない。
今度彼らを分析していくと、別なものにぶつかるのですよ。丸山学派の日本ファシズムの三規定というのがありますね。
一つが天皇崇拝、一つが農本主義、もう一つは反資本主義か、たしかこの三つだったと思う。そうすると、
それはファシズムというヨーロッパ概念から、どれ一つ妥当しはしませんよ。
林:一つも妥当しない。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

123 :ナナシズム:2010/01/24(日) 11:47:47 ID:NY8cjvyZ
三島:はじめナチスは資本家と結んだのですからね。
日本の愛国運動というのは、もちろん資本家といろいろ関係も生じたけれども、二・二六事件の根本は反資本主義で、
当時二・二六事件もそうだが、二・二六事件のあとで陸軍の統制派が、二・二六事件があまり評判が悪かったので、
今度、やはり反資本主義的なポーズにおける声明書を発表したら、麻生久がとても感激したのですね。
やはりわれわれの徒だということになって、それで賛成演説などをやったりしたことがあるけれども、
そういうファシズム一つとってもそうだし……。
林:(中略)「ファシズム打倒」は連合国側の戦争スローガンで、日本もドイツ、イタリアなみのファシズム国家に
されてしまったのだが、最近ではご本家のアメリカ・ハーバード大学の教授グループが、日本にはファシズムは
なかったことを論証し始めている。丸山君とそのご学友諸君は何と申しますかね。…

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

124 :ナナシズム:2010/01/24(日) 11:50:19 ID:NY8cjvyZ
三島:はじめナチスは資本家と結んだのですからね。
日本の愛国運動というのは、もちろん資本家といろいろ関係も生じたけれども、二・二六事件の根本は反資本主義で、
当時二・二六事件もそうだが、二・二六事件のあとで陸軍の統制派が、二・二六事件があまり評判が悪かったので、
今度、やはり反資本主義的なポーズにおける声明書を発表したら、麻生久がとても感激したのですね。
やはりわれわれの徒だということになって、それで賛成演説などをやったりしたことがあるけれども、
そういうファシズム一つとってもそうだし……。
林:(中略)「ファシズム打倒」は連合国側の戦争スローガンで、日本もドイツ、イタリアなみのファシズム国家に
されてしまったのだが、最近ではご本家のアメリカ・ハーバード大学の教授グループが、日本にはファシズムは
なかったことを論証し始めている。丸山君とそのご学友諸君は何と申しますかね。…それから二・二六事件にしても、
進歩学派諸君は支配階級内部の対立だというふうにかたづけているが……。
三島:事実はぜんぜん違っている。
林:これは一つの革命勢力と支配勢力との闘いだということを認めないわけですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

125 :ナナシズム:2010/01/25(月) 11:02:22 ID:BKrS6P9Q
三島:僕は、ああいうものは、ある意味で林さんのおっしゃる、文明開化というものからくる一つの事象であって、
日本の近代化の激しい運動の、ラジカルな運動がああいう形をとったと考えてもいいと思いますね。いつも日本では、
アイロニカルな形で社会現象が起こっている。いちばん先鋭な近代をめざすものが、いちばん保守的な、
反動的な形態をとったり、一見進歩的形態をとっているものが、いちばん反動的なものである場合もある。
政治学者などが日本の現象を見る場合には、ぜんぜん分析が皮相で浅薄だという感じがいつもするのだけれども。
林:(中略)丸山君にこだわるわけではないが、あの人をピークとする敗戦学者の学問はいかにも学問らしい顔を
していますけれども、読めば少しも学問ではないのです。学問というのは、読んでみて、「ああ、そうだったか」と
目からウロコの落ちるような気になるのが学問です。敗戦大学教授の仕事は読者の目にウロコをかぶせるようなものですよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

126 :ナナシズム:2010/01/25(月) 11:06:36 ID:BKrS6P9Q
三島:ほんとうにそうですね。でも、近代主義者はとにかくだめだということは、二十年でよくわかった。
そうして日本の近代主義者の言うとおりにならなかったのは、インダストリアリゼーションをやっちゃった
ということで、これが歴史の非常なアイロニーですね。普通ならば、近代主義者の言うとおりに、思想精神が
完全に近代化することによって近代社会が成立し、そしてインダストリアリゼーションの結果、そういうものが
社会に実現されるという、じつは必ずしもコミュニズムであってもなくても、彼らの考えていることはそうですよ。
ところがなに一つわれわれのメンタリティーのなかには、近代主義が妥当しないにもかかわらず、工業化が進行し、
工業化の結果の精神的退廃、空白といってもいいが、そういうものが完全に成立した。
それと、日本人のなかにある古いメンタリティーとの衝突が、各個人のなかにずいぶん無秩序なかたちで
起こっているわけですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

127 :ナナシズム:2010/01/25(月) 11:13:25 ID:BKrS6P9Q
三島:…僕が思想家がぜんぜん無力だというのは、経済現象その他に対してすらなんらの予見もしなければ、
その結果に対して責任ももってないというふうに感ずるからです。
第一、戦後の物質的繁栄というのは、経済学者は一人も寄与してないと思いますよ。僕が大蔵省にいたとき
大内兵衛が、インフレ必至説を唱えて、いまにも破局的インフレがくるとおどかした。ドッジ声明でなんとか
救われたでしょう。政治的予見もなければなんにもない。経済法則というものは、実にあいまいなもので、
こんなに学問のなかでもあいまいな法則はありませんよ。
それで戦後の経済復興は、結局戦争から帰ってきた奴が一生懸命やったようなもので、なんら法則性とか
経済学者の指導とか、ドイツのシャハトのような指導的な理論的な経済学者がいたわけではないし、まったく
めくらめっぽうでここまできた。これは経済学者の功績でも、思想家の功績でもない。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

128 :ナナシズム:2010/01/25(月) 11:28:10 ID:BKrS6P9Q
三島:(中略)僕はたとえばね、どんな思想が起ころうが、彼ら(日本の近代主義者、知識人)はもう
弁ばくできないと思うのです。だって自分たちがやるべきときやらなかったのだから、あとに何が出ても
もうしょうがないですよ。
林:まず、現われたのがアメリカン・デモクラシー、おつぎはソ連礼賛論ですな。それを圧倒したのが中共絶対論。
……だが、それもどうやらしぼみ始めたようだ。
三島:とにかく僕が「喜びの琴」という芝居を書いたとき、共産主義は暴力革命は絶対やらないのだと、もう
そんなのは昔の古いテーゼで、いま絶対にそういうことはやらないのだと……あんな芝居を書く男は、頭が
三十年古いとみんな笑ったものです。そうしたらね、インドネシアの武力革命が起こりかけた。まあ、失敗しましたが。
ちょっと、五、六年さきのこともわからないのですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

129 :ナナシズム:2010/01/29(金) 17:08:31 ID:HWXHgN6S
三島:やはり林さんの明治維新の根本テーマでも、開国論者がどうしてもやりたくてやれなかったことを、
攘夷論者がやった。あの歴史の皮肉ですね。
林:攘夷論者のみが真の開国論者だった。これが歴史のアイロニイだが、敗戦史家たちには、このアイロニイが
わからないのだな。いまにわかります。
三島:そういう大きな歴史の皮肉ですね、そういうあれがあったでしょうか、戦前、戦後を通じて、文学で……。
林:アイロニイだらけだ。内村鑑三も新渡戸稲造も日本精神について英語で書いた。ドイツ文学の鴎外と
英文学の漱石が乃木大将の殉死を最も正確に理解した。現在、日本回帰の論文を発表しはじめた若い学者たちは、
ほとんど西洋史家だ。東西文明の接点に立つ日本文化のアイロニイではないでしょうか。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

130 :ナナシズム:2010/01/29(金) 17:10:44 ID:HWXHgN6S
林:…若い高村光太郎は文明開化派で西洋派だったが、晩年はたいへんな日本主義者になる。
与謝野鉄幹、北原白秋をはじめ詩人たちの大部分は同じ道を歩いている。すべて内的な自己展開であって、
時流におし流されてものを言ったのではない。
三島:伊東静雄なんかも、戦争中のものは非常にいいですよ。ほんとうにいい詩ですね。
林:だから人間は戦争を避けて通ろうとしてはいけないのですよ。平和は結構だが、戦争は必ず起こると覚悟して
いなければ、一歩も進めない。平和が永久につづくなどと思っていたら、とんだ観測ちがいをおかすことになる。
地球国家ができましたら、こんどは宇宙船を飛ばして……。
三島:ほかの遊星を攻撃する……。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

131 :ナナシズム:2010/02/01(月) 13:08:48 ID:xbUf3AoA
三島:文壇というものがあるかないか、そんなことはわからないけれども、やはり時代のどこかで風船の空気が
漏れているところというのは敏感ですよね。いまたしかに風船の空気が漏れている。風船が小さくなりつつあるのです。
それで、その風船の空気を、また充填するか、その穴をどうするかということは、それは左翼も右翼もありはしない。
(中略)一方では空白状態をそのまま出せば正直だと思う。僕はそんなものは正直だとは思わない。つまり現在の空白、
現在の堕落――堕落と言ったらちょっと政治的な面がこもりすぎるが――文学というのは、そういうものを
映す鏡ではない。文学というのは、いつも医者と薬とを兼ねたものです。あるいは医者と患者を兼ねたものだと
言ってもいい。われわれは最先端の患者なんです。同時に最先端の医者なんです。それが文学の使命でね。
そうして医者だって、使命だけにとらわれたものは社会改良家になっちゃう。それは文学者の逸脱で、患者だってカルテにとらわれたら
空白状態を模写するだけにすぎない。そうするとサナトリウムに入っちゃう。そうなると文学者じゃないのです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

132 :ナナシズム:2010/02/01(月) 13:11:10 ID:xbUf3AoA
三島:文学者というのはいつでも、最先端の患者であり、最先端の医者である。おのずからそこに、医者と患者の間には、
いつも争いがあって、患者は癒りたくないと言うかもしれない。医者はおまえに効く薬はないと言うかもしれない。
それが文学状況の、いつも先鋭なところで、それをつかまえてないやつは、文学のほんとうの危機というものは
わかってないのではないかと考える。それが現在のナショナリズムの問題とかなんとかいう問題と、おのずから
照応してくるので……。
林:君のいう型の文学者――医者兼患者の文学者は、文学者の永遠のタイプだろうが、生きにくいね。
ローマ帝国でも、ヒトラー帝国でも、中共帝国でもソ連帝国でも、詩人や作家は追放されなければ自殺してしまう。
だが、敗戦二十年間の日本は国家でも帝国でもない。大平社会は文学の味方顔しているが、最悪の敵かもしれぬ。
野放しにされた物書きが文学者顔して、ひどい文章を書いている。
三島:いま文壇にいるのは、患者と医者だけですよ。患者兼医者というのはいない。それで医者が患者をほめていますね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

133 :ナナシズム:2010/02/05(金) 14:47:09 ID:F8tXoC0v
神風連のことを研究していて、おもしろく思ったのは、かれらは孝明天皇の攘夷の御志を、明治政府が完全に転倒させ、
廃刀令を出したことに対して怒り、「非先王之法服不敢服、非先王之法言不敢道、非先王之徳行不敢行」という
思想を抱いていた。万世一系ということと、「先帝への忠義」ということが、一つの矛盾のない精神的な中核として
総合されていた天皇観が、僕には興味が深いのです。
歴史学者の通説では、大体憲法発布の明治二十二年前後に、いわゆる天皇制国家機構が成立したと見られているが、それは
伊藤博文が、「昔の勤皇は宗教的の観念を以てしたが、今日の勤皇は政治的でなければならぬ」と考えた思想の実現です。
僕は、伊藤博文が、ヨーロッパのキリスト教の神の観念を欽定憲法の天皇の神聖不可侵のもとにしたという考えはむしろ
逆で、それ以前の宗教的精神的中心としての天皇を、近代政治理念へ導入して政治化したという考えが正しいと思います。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

134 :ナナシズム:2010/02/05(金) 14:48:15 ID:F8tXoC0v
(中略)明治憲法の発布によって、近代国家としての天皇制国家機構が発足したわけですが、「天皇神聖不可侵」は、
天皇の無謬性の宣言でもあり、国学的な信仰的天皇の温存でもあって、僕はここに、九十九パーセントの西欧化に対する、
一パーセントの非西欧化のトリデが、「神聖」の名において宣言されていた、と見るわけです。神風連が電線に対して
かざした白扇が、この「天皇不可侵」の裏には生きていると思う。殊に、統師大権的天皇のイメージのうちに、
攘夷の志が、国務大権的天皇のイメージのうちに開国の志が、それぞれ活かされたと見るのです。これがさっきの
神風連の話ともつながるわけですが、天皇は一方で、西欧化を代表し、一方で純粋な日本の最後の拠点となられる
むずかしい使命を帯びられた。天皇は二つの相反する形の誠忠を、受け入れられることを使命とされた。
二・二六事件において、まことに残念なのは、あの事件が、西欧派の政治理念によって裁かれて、神風連の
二の舞になったということです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

135 :ナナシズム:2010/02/05(金) 14:50:22 ID:F8tXoC0v
ところで僕は、日本の改革の原動力は、必ず、極端な保守の形でしか現われず、時にはそれによってしか、
西欧文明摂取の結果現われた積弊を除去できず、それによってしか、いわゆる「近代化」も可能ではない、という
アイロニカルな歴史意志を考えるのです。
福沢諭吉と神風連が実に対蹠的なのは、明治政府の新政策によって、前者は欣喜し、後者は幻滅した。僕は
幻滅によって生ずるパトスにしか興味がない。幻滅と敗北は、攘夷の志と、国粋主義の永遠の宿命なのであって、
西欧の歴史法則によって、その幻滅と敗北はいつも予定されている。日本の革新は、いつでもそういう道を辿ってきた。
唯一の成功した革新は、外国占領軍による戦後の革新です。
僕の天皇に対するイメージは、西欧化への最後のトリデとしての悲劇意志であり、純粋日本の敗北の宿命への
洞察力と、そこから何ものかを汲みとろうとする意志の象徴です。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

136 :ナナシズム:2010/02/05(金) 14:53:25 ID:F8tXoC0v
しかるに昭和の天皇制は、内面的にもどんどん西欧化に蝕まれて、ついに二・二六事件をさえ理解しなかったではないか。
そのもっとも醇乎たる悲劇意志への共感に達しなかったではないか。「何ものかを汲みとろう」なんて言うと
アイマイに思われるでしょうが、僕は維新ということを言っているのです。天皇が最終的に、維新を「承引き」
給うということを言っているのです。そのためには、天皇のもっとも重大なお仕事は祭祀であり、非西欧化の
最後のトリデとなりつづけることによって、西欧化の腐敗と堕落に対する最大の批評的拠点になり、革新の
原理になり給うことです。イギリスのまねなんかなさっては困るのです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

137 :ナナシズム:2010/02/05(金) 15:13:01 ID:F8tXoC0v
僕は天皇無謬説なんです。
僕はどうしても天皇というのを、現状肯定のシンボルにするのはいやなんですよ。
革命家がある場合には旧支配の頂点によって肯定されるという妙なことが起こり得るのが、日本ではないのですか
というのです。
つまり天皇というのは、僕の観念のなかでは世界に比類のないもので、現状肯定のシンボルでもあり得るが、
いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性をもっておられる。いまあまりにも現状肯定的ホームドラマ的
皇室のイメージが強すぎるから、先鋭な革新の象徴としての天皇制というものを僕は言いたいというだけのことですよ。
天皇制のもう一つの側面というものが忘れられている、それがいかんということを僕は言いたい。
それだけのことです。天皇は実に不思議で、世界無比だというのは、その点ですよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

138 :ナナシズム:2010/02/05(金) 15:33:04 ID:F8tXoC0v
(中略)僕は大嘗祭というお祭りが、いちばん大事だと思うのですがね。あれはやはり、農本主義文化の一つの
精華ですね。あそこでもって、つまり昔の穀物神と同じことで、天皇が生まれ変わられるのですね。そうして
天皇というのは、いま見る天皇が、また大嘗祭のときに生まれ変わられて、そうして永久に、最初の天照大神に
かえられるのですね。そこからまた再生する。
…僕は、経済の発展的な段階というものを、ぜんぜん信じてないのですね。農耕文化なり、なに文化なり、
資本主義から社会主義になるというのは、まったく信じてない。だけれどもインダストリアゼーションは、土から、
みんな全部人間を引き離すでしょう。そしてわれわれのもっているものは、すべて土とか、植物とか、木の葉とか、
そういうものとはどんどん離れていく。それで土を代表するものはなにかとか、稲の葉っぱを代表するものは
なにかとか、自然というものと、われわれの生活とを最後に結ぶものはなにか。それは、たまたま、ことばは
農本主義と言っても、経済学上の用語としての農本主義とちょっと違いますが……。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

139 :ナナシズム:2010/02/05(金) 15:41:44 ID:F8tXoC0v
(中略)天皇制というのは、少しバタ臭い解釈になるが、あらゆる人間の愛を引き受け、あらゆる人間の愛による
不可知論を一身に引き受けるものが天皇だと考えます。普通の人間のあいだの恋でしょう……。
恋(れん)ですね。それは普通の人間とのあいだの愛情は、みなそれで足りるのですよ、全部。それがぼくは
日本の風土だというふうに思うのです。
(中略)
僕にとっては、芸術作品と、あるいは天皇と言ってもいい、神風連と言ってもいいが、いろいろなもののね、
その純粋性の象徴は、宿命離脱の自由の象徴なんですよ。つまりね、一つ自分が作品をつくると、その作品は
独得の秩序をもっていて、この宿命の輪やね、それから人間の歴史の必然性の輪からポンとはみ出す、ポンと。
これはだれがなんと言おうと、それ自体の秩序をもって、それ自体において自由なんですね。
その自由を生産するのが芸術家であって、芸術家というものは、一つの自由を生産する人間だけれども、自分が
自由である必要はない、ぜんぜん。そしてその芸術作品というのはある意味では、完全に輪から外れたものです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

140 :ナナシズム:2010/02/08(月) 11:28:37 ID:LBkTA5MC
一度、僕は新聞に原爆のことを書いたことがある。
そして、ナセルが「落とすなら原爆を落としてもいいよ」とか、中共が「水爆を落としてもいいよ、われわれは
人口七億だから、半分なくなってもあと戦える」と言った、ああいうのはもっとも危険な思想だろうと、
そういうことを書いたら、没になったことがあるのです、だいぶ前に。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

141 :ナナシズム:2010/02/08(月) 11:43:30 ID:LBkTA5MC
――それはそうと、この間江田島の参考館へ行って、特攻隊の遺書をたくさん見ました。遺書というのではないが、
ザラ紙に鉛筆の走り書きで、「俺は今とても元気だ。三時間後に確実に死ぬとは思えない……」などというのがあり、
この生々しさには実に心を打たれた。
九割九分までは類型的な天皇陛下万歳的な遺書で、活字にしたらその感動は薄まってしまう。もし出版するなら、
写真版で肉筆をそのまま写し、遺影や遺品の写真といっしょに出すように忠告しました。
それにしても、その、類型的な遺書は、みんな実に立派で、彼らが自分たちの人生を立派に完結させるという
叡智をもっていたとしか思えない。もちろん未練もあったろう。言いたいことの千万言もあったろう。
しかしそれを「言わなかった」ということが、遺書としての最高の文学表現のように思われる。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

142 :ナナシズム:2010/02/08(月) 11:49:32 ID:LBkTA5MC
僕が「きけわだつみのこえ」の編集に疑問を呈してきたのはそのためです。
そして人間の本心などというものに、重きを置かないのはそのためです。もし人間が決定的行動を迫られるときは、
本心などは、まして本心の分析などは物の数ではない。それは泡沫のようなただの「心理」にすぎない。
そんな「心理」を一つも出していない遺書が結局一番立派なのです。
それにしても、「天皇陛下万歳」と遺書に書いておかしくない時代が、またくるでしょうかね。もう二度と
来るにしろ、来ないにしろ、僕はそう書いておかしくない時代に、一度は生きていたのだ、ということを、
何だか、おそろしい幸福感で思い出すんです。いったいあの経験は何だったんでしょうね。あの幸福感は
いったい何だったんだろうか。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

143 :ナナシズム:2010/02/12(金) 11:49:19 ID:whrNY6vg
…私は国家といふものの暴力を肯定してもそれが直ちに無前提に戦争を肯定することにはならないといふ立場に
立つものであるが、この立場に真に対立するものが次のやうな毛沢東の言葉なのである。
すなはち「われわれの目的は地上に戦争を絶滅することである。しかし、その唯一の方法は戦争である」これが
毛沢東の独特な論理であつて、この論理がすなはち右に述べたやうな暴力肯定の論理とちやうど反極に立つものである。
すなはちそれは平和主義の旗じるしのもとに戦争を肯定した思想なのである。私は戦後、平和主義の美名が
いつもその裏でただ一つの正しい戦争、すなはち人民戦争を肯定する論理につながることをあやぶんできたが、
これが私が平和主義といふものに対する大きな憎悪をいだいてきた一つの理由である。

三島由紀夫
「砂漠の住人への論理的弔辞」より

144 :ナナシズム:2010/02/12(金) 11:50:02 ID:whrNY6vg
そして、私の暴力肯定は当然国家肯定につながるのであるから、平和主義の仮面のもとにおける人民戦争の肯定が
国家超克を目的とするかのごとき欺瞞に対しては闘はざるを得ない。国家超克はいはゆる共産主義諸国の理論的前提で
あるにもかかはらず、現実の証明するとほり共産主義諸国も国家主義的暴力の行使を少しも遠慮しないからである。
(中略)しかし「人民戦争のみが正しい暴力である」(このことは、「中共の持つ核兵器のみが平和のための
正しい核兵器である」といふ没論理をただちに招来する)といふ思想は、それほど新しい思想であらうか。
それは又、古くからある十字軍の思想であり、その根本的性格は「道義的暴力」といふことであるが、道義的主張は
どんな立場からも発せられうるものである。かくてあらゆる道義が相対化されるときに、被圧制、被圧迫の立場のみが、
道義的源泉であるとすれば、その自由と解放は、たちまち道義的源泉を涸(か)らすことになるのは自明である。

三島由紀夫
「砂漠の住人への論理的弔辞」より

145 :ナナシズム:2010/02/12(金) 11:51:25 ID:whrNY6vg
道義の問題を別としても、暴力に質的差異をみとめること、正義の暴力と不正義の暴力をみとめることは、軍隊と
警察の力のみを正義の力とみとめ、その他の力をすべて暴力視する近代国家の論理と、どこかで似て来るのである。
かくて毛沢東の論理は、結局、国家の論理に帰結する、と私は考へる。
私はかりにも力を行使しながら、愛される力、支持される力であらうとする考へ方を好まない。この考へ方は、
責任観念を没却させるからである。責任を真に自己においてとらうとするとき、悪鬼羅刹となつて、世人の
憎悪の的になることも辞さぬ覚悟がなくてはならぬ。それなしに道義の変革が成功したためしはないのである。
自分がいつも正しい、といふのは女の論理ではあるまいか。

三島由紀夫
「砂漠の住人への論理的弔辞」より

146 :ナナシズム:2010/02/13(土) 12:33:26 ID:s1kAHzEH
私は別にかつての軍隊の讚美者でもなく、軍隊生活の経験も持たない身は、それについて論じる資格もないが、
大分前に、「きけ、わだつみの声」であつたか、その種の反戦映画を見て、いはん方ない反感を感じたおぼえがある。
たしかその映画では、フランス文学研究をたよりに、反戦傾向を示す学生や教師が、戦場へ狩り出され、戦死した
彼らのかたはらには、ボオドレエルだかヴェルレエヌだかの詩集の頁が、風にちぎれてゐるといふシーンがあつた。
甚だしくバカバカしい印象が私に残つてゐる。ボオドレエルが墓の下で泣くであらう。
日本人がボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、祖国のために死んだはうが
論理的であり、人間は結局個人として死ぬ以上、おのれの死をジャスティファイする権利をもつてゐる。

三島由紀夫
「『青春監獄』の序」より

147 :ナナシズム:2010/02/13(土) 12:36:20 ID:s1kAHzEH
絶対的に受身の抵抗のうちに、戦死しても犬のやうに殺されたといふ実感を自ら抱いて、死んでゆける人間は、
稀に見る聖人にちがひない。
私はすべてこの種の特殊すぎる物語に疑ひの目を向ける。兵隊であつて文学者あつた人の書くものも、一般人を
納得させるかもしれないが、私のやうな疑ぐり深い文士を納得させない。私の読みたいのは、動物学者の書いた
狼の物語ではなく、狼自身の書いた狼の物語なのである。
狼がどんなに嘘を並べても、狼の目に映つた事実であり嘘であれば、私は信じる。私は何も礼を失して、
宮崎氏を狼呼ばはりするのではない。しかし氏の著書は、或る見地から見て、実に貴重なのである。

三島由紀夫
「『青春監獄』の序」より

148 :ナナシズム:2010/02/20(土) 11:55:10 ID:JAAntW7d
……今、四海必ずしも波穏やかならねど、
日の本のやまとの国は
鼓腹撃壌(こふくげきじよう)の世をば現じ
御仁徳の下、平和は世にみちみち
人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交はし
利害は錯綜し、敵味方も相結び、
外国(とつくに)の金銭は人らを走らせ
もはや戦ひを欲せざる者は卑怯をも愛し、
邪まなる戦(いくさ)のみ陰にはびこり
夫婦朋友も信ずる能(あた)はず
いつはりの人間主義をたつきの糧となし
偽善の団欒は世をおほひ
力は貶(へん)せられ、肉は蔑(なみ)され、
若人らは咽喉元(のどもと)をしめつけられつつ
怠惰と麻薬と闘争に
かつまた望みなき小志の道へ
羊のごとく歩みを揃へ、
快楽もその実を失ひ、信義もその力を喪ひ、
魂は悉く腐蝕せられ
年老ひたる者は卑しき自己肯定と保全をば、
道徳の名の下に天下にひろげ
真実はおほひかくされ、真情は病み、
道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく
なべてに痴呆の笑ひは浸潤し

三島由紀夫
「英霊の聲」より

149 :ナナシズム:2010/02/20(土) 11:58:23 ID:JAAntW7d
魂の死は行人の顔に透かし見られ、
よろこびも悲しみも須臾(しゆゆ)にして去り
清純は商(あきな)はれ、淫蕩は衰へ、
ただ金(かね)よ金よと思ひめぐらせば
人の値打は金よりも卑しくなりゆき、
世に背く者は背く者の流派に、
生(なま)かしこげの安住の宿りを営み、
世に時めく者は自己満足の
いぎたなき鼻孔をふくらませ、
ふたたび衰へたる美は天下を風靡し
陋劣(ろうれつ)なる真実のみ真実と呼ばれ、
車は繁殖し、愚かしき速度は魂を寸断し、
大ビルは建てども大義は崩壊し
その窓々は欲球不満の螢光燈に輝き渡り、
朝な朝な昇る日はスモッグに曇り
感情は鈍磨し、鋭角は摩滅し、
烈しきもの、雄々しき魂は地を払ふ。
血潮はことごとく汚れて平和に澱み
ほとばしる清き血潮は涸れ果てぬ。
天翔けるものは翼を折られ
不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑(あざわら)ふ。
かかる日に、
などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし

三島由紀夫
「英霊の聲」より

150 :ナナシズム:2010/02/22(月) 13:02:03 ID:8vTVj21Z
>>148>>149の訂正
……今、四海必ずしも波穏やかならねど、
日の本のやまとの国は
鼓腹撃壌(こふくげきじやう)の世をば現じ
御仁徳の下(もと)、平和は世にみちみち
人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交はし
利害は錯綜し、敵味方も相結び、
外国(とつくに)の金銭は人らを走らせ
もはや戦ひを欲せざる者は卑劣をも愛し、
邪まなる戦(いくさ)のみ陰にはびこり
夫婦朋友も信ずる能(あた)はず
いつはりの人間主義をたつきの糧となし
偽善の団欒は世をおほひ
力は貶(へん)せられ、肉は蔑(なみ)され、
若人らは咽喉元をしめつけられつつ
怠惰と麻薬と闘争に
かつまた望みなき小志の道へ
羊のごとく歩みを揃へ、
快楽もその実を失ひ、信義もその力を喪ひ、
魂は悉(ことごと)く腐蝕せられ
年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、
道徳の名の下に天下にひろげ
真実はおほひかくされ、真情は病み、
道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく
なべてに痴呆の笑ひは浸潤し

三島由紀夫
「英霊の声」より

151 :ナナシズム:2010/02/22(月) 13:02:59 ID:8vTVj21Z
魂の死は行人の顔に透かし見られ、
よろこびも悲しみも須臾(しゆゆ)にして去り
清純は商(あきな)はれ、淫蕩は衰へ、
ただ金(かね)よ金よと思ひめぐらせば
人の値打は金よりも卑しくなりゆき、
世に背く者は背く者の流派に、
生(なま)かしこげの安住の宿りを営み、
世に時めく者は自己満足の
いぎたなき鼻孔をふくらませ、
ふたたび衰へたる美は天下を風靡し
陋劣(ろうれつ)なる真実のみ真実と呼ばれ、
車は繁殖し、愚かしき速度は魂を寸断し、
大ビルは建てども大義は崩壊し
その窓々は欲球不満の蛍光灯に輝き渡り、
朝な朝な昇る日はスモッグに曇り
感情は鈍磨し、鋭角は磨滅し、
烈しきもの、雄々しき魂は地を払ふ。
血潮はことごとく汚れて平和に澱み
ほとばしる清き血潮は涸れ果てぬ。
天翔(あまが)けるものは翼を折られ
不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑(あざわら)ふ。
かかる日に、
などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし

三島由紀夫
「英霊の声」より

152 :ナナシズム:2010/02/22(月) 13:07:22 ID:8vTVj21Z
かけまくもあやにかしこき
すめらみことに伏して奏(まを)さく
今、四海必ずしも波穏やかならねど
日の本のやまとの国は
鼓腹撃壌(こふくげきじやう)の世をば現じ
御仁徳の下(もと)、平和は世にみちみち
人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交はし
利害は錯綜し、敵味方も相結び、
外国(とつくに)の金銭は人らを走らせ
もはや戦ひを欲せざる者は卑劣をも愛し、
邪まなる戦ひのみ陰にはびこり
夫婦朋友も信ずる能(あた)はず
いつはりの人間主義をなりはひの糧となし
偽善の茶の間の団欒は世をおほひ
力は貶(へん)せられ、肉は蔑(なみ)され
若人らは咽喉元をしめつけられつつ
怠惰と麻薬と闘争に、
かつまた望みなき小志の道へ
羊のごとく歩みを揃へ
快楽もその実を失ひ
信義もその力を喪ひ、魂は悉く腐蝕せられ、

三島由紀夫
「悪臣の歌」より

153 :ナナシズム:2010/02/22(月) 13:08:12 ID:8vTVj21Z
年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、
道徳の名の下に天下にひろげ
真実はおほひかくされ
道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく
なべてに痴呆の笑ひは浸潤し、
魂の死は行人の顔に透かし見られ、
よろこびも悲しみも須臾(しゆゆ)にして去り
清純は商(あきな)はれ、淫蕩は衰へ、
ただ金(かね)よ金よと思ひめぐらせば
金を以てはからるる人の値打も、
金よりもはるかに卑しきものとなりゆき、
世に背く者は背く者の流派に、
生(なま)かしこげの安住の宿りを営み、
世に時めく者は自己満足の
いぎたなき鼻孔をふくらませ、
ふたたび衰弱せる美学は天下を風靡し、
陋劣(ろうれつ)なる真実のみがもてはやされ、

三島由紀夫
「悪臣の歌」より

154 :ナナシズム:2010/02/22(月) 13:09:47 ID:8vTVj21Z
人ら四畳半を改造して
そのせまき心情をキッチンに磨き込み
車は繁殖し、無意味なる速力は魂を寸断し、
大ビルは建てども大義は崩壊し
窓々は欲球不満の蛍光灯にかがやき渡り、
人々レジャーへといそぎのがるれど
その生活の快楽には病菌つのり
朝な朝な昇る日はスモッグに曇り、
感情は鈍磨し、鋭角は磨滅し、
烈しきもの、雄々しき魂は地を払ふ。
血潮はことごとく汚れて平和に温存せられ
ほとばしる清き血潮はすでになし。
天翔(あまが)けるもの、不滅の大義はいづくにもなし。
不朽への日常の日々の
たえざる研磨も忘れられ、
人みな不朽を信ぜざることもぐらの如し。かかる日に、
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫
「悪臣の歌」より
*(「悪臣の歌」は「英霊の声」の挿入歌の前身と思われるものです)

155 :ナナシズム:2010/02/25(木) 16:12:23 ID:b6p5z4KT
――二・二六事件に関してどう考へてゐるか。
三島:十一歳のとき起きたあの事件は、私にたいへん大きな精神的影響を与へた。私がいまも持つてゐる英雄崇拝と
ざせつ感は、すべてあの事件に由来するものです。いふまでもなく私は反乱軍といはれた青年将校の味方で、
のちに反乱軍として糾弾した本がたくさん出たが、さういふたぐひの本を読むと、ハラがたつて破つて捨てたほどですよ。
その後の軍閥政治であの挙兵が逆用され、すつかり汚されてしまつたが、青年将校たちの行動は、いはば
昭和維新になりうる可能性を持つたものであり、救国の信念に基づく純粋なものでした。
それが反乱軍の汚名を冠せられたのは、陛下を取り巻く卑怯で臆病でずる賢い老臣どもの策謀であり、ひいては
それを受け入れられた陛下ご自身の責任です。

三島由紀夫
「“人間宣言”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より

156 :ナナシズム:2010/02/25(木) 16:16:02 ID:b6p5z4KT
――戦前の「天皇制国家」を唯一の国体と考へるのか。
三島:さうです。天皇が自ら人間宣言をなされてから、日本の国体は崩壊してしまつた。戦後のあらゆる
モラルの混乱はそれが原因です。なぜ、天皇が人間であつてはならぬのか。少なくともわれわれ日本人にとつて
神の存在でなければならないのか。このことをわかりやすく説明すれば、結局「愛」の問題になるのです。
近代国家はかつての農本主義から資本主義国家へ必然的に移行していく。これは避けられない。封建的制度は崩壊し、
近代的工業主義へ、そしていきつくところは、人生の絶望的状態である完全福祉国家とならざるをえないすう勢だ。
そして一方、国家が近代化すればするほど、個人と個人のつながりは希薄になり、冷たいものになるんですね。
かういふ近代的共同体のなかに生きる人間にとつては、愛は不可能になつてしまふ。

三島由紀夫
「“人間宣言”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より

157 :ナナシズム:2010/02/25(木) 16:20:08 ID:b6p5z4KT
たとへばAがBを愛したと信じても、かういふ社会では、確かめるすべをもたない。逆にBのAに対する愛にしても
さうです。つまり、近代的社会における愛は相互間だけでは成立しないといふことなのです。
愛し合ふ二人の他に、二人が共通にいだいてゐる第三者(媒体)のイメージ――いはば三角形の頂点がなければ、
愛は永遠の懐疑に終はり、ローレンスのいふ永遠に不可知論になつてしまふ。これはキリスト教の考へ方でもあるが、
昔からわれわれ日本人には、農本主義から生まれた「天皇」といふ三角形の頂点(神)のイメージがあり、
一人々々が孤独に陥らない愛の原理を持つてゐた。天皇はわれわれ日本人にとつて絶対的な媒体だつたんです。
私は天皇制についてきかれるたびに、いつも“お祭りは必要なのだから大切にすべきだ”と一言いつてたのは、
さういふ意味です。

三島由紀夫
「“人間宣言”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より

158 :ナナシズム:2010/03/05(金) 13:59:29 ID:fYEueQMY
私は決して平和主義を偽善だとは言はないが、日本の平和憲法が左右双方からの政治的口実に使はれた結果、
日本ほど、平和主義が偽善の代名詞になつた国はないと信じてゐる。
この国でもつとも危険のない、人に尊敬される生き方は、やや左翼で、平和主義者で、暴力否定論者であることであつた。
それ自体としては、別に非難すべきことではない。
しかしかうして知識人のConformity が極まるにつれ、私は知識人とは、あらゆるConformity に疑問を抱いて、
むしろ危険な生き方をするべき者ではないかと考へた。
一方、知識人たち、サロン・ソシアリストたちの社会的影響力は、ばかばかしい形にひろがつた。
母親たちは子供に兵器の玩具を与へるなと叫び、小学校では、列を作つて番号をかけるのは軍国主義的だといふので、
子供たちはぶらぶらと国会議員のやうに集合するのだつた。

三島由紀夫
「『楯の会』のこと」より

159 :ナナシズム:2010/03/05(金) 14:00:03 ID:fYEueQMY
それならお前は知識人として、言論による運動をすればよいではないか、と或る人は言ふのであらう。
しかし私は文士として、日本ではあらゆる言葉が軽くなり、プラスチックの大理石のやうに半透明の贋物になり、
一つの概念を隠すために用いられ、どこへでも逃げ隠れのできるアリバイとして使はれるやうになつたのを、
いやといふほど見てきた。あらゆる言葉には偽善がしみ入つてゐた、ピックルスに酢がしみ込むやうに。
文士として私の信ずる言葉は、文学作品の中の、完全無欠な仮構の中の言葉だけであり、前に述べたやうに、
私は文学といふものが、戦ひや責任と一切無縁な世界だと信ずる者だ。
これは日本文学のうち、優雅の伝統を特に私が愛するからであらう。
行動のための言葉がすべて汚れてしまつたとすれば、もう一つの日本の伝統、尚武とサムライの伝統を
復活するには、言葉なしで、無言で、あらゆる誤解を甘受して行動しなければならぬ。
Self-justification は卑しい、といふサムラヒ的な考へが、私の中にはもともとひそんでゐた。

三島由紀夫
「『楯の会』のこと」より

160 :ナナシズム:2010/03/05(金) 14:00:38 ID:fYEueQMY
私は或る内面的な力に押されて、剣道をはじめた。もう十三年もつづけてゐる。
竹の刀を使ふこの武士の模擬行動から、言葉を介さずに、私は古い武士の魂のよみがへりを感じた。
経済的繁栄と共に、日本人の大半は商人になり、武士は衰へ死んでゐた。
自分の信念を守るために命を賭けるといふ考へは、Old-fashioned になつてゐた。
思想は身の安全を保証してくれるお守りのやうなものになつてゐた。
(中略)
しかし私は、若者はギュムナシオーンとアゴラを半ばづつ往復しなければならぬと信ずる者であり、
学生ばかりでなく、あらゆる知識人がさうすべきだ、と考へる者だ。
言論を以て言論を守るとは、方法上の矛盾であり、思想を守るのは自らの肉体と武技を以てすべきだ、と考へる者だ。

三島由紀夫
「『楯の会』のこと」より

161 :ナナシズム:2010/03/05(金) 14:01:11 ID:fYEueQMY
かうして私は自然に、軍事学上の「間接侵略」といふ観念に到達したのである。
間接侵略とは、表面的には外国勢力に操られた国内のイデオロギー戦のことだが、本質的には、(少なくとも
日本にとっては)日本といふ国のIdentify を犯さうとする者と、守らうとする者の戦ひだと解せられる。
しかもそれは複雑微妙な様相を持ち、時にはナショナリズムの仮面をかぶつた人民戦争を惹き起し、
正規軍に対する不正規軍の戦ひになる。
ところで日本では、十九世紀の近代化以来、不正規軍といふ考へが完全に消失し、正規軍思想が軍の主流を占め、
この伝統は戦後の自衛隊にまで及んでゐる。日本人は十九世紀以来、民兵の構想を持つたことがなく、
あの第二次世界大戦に於てすら、国民義勇兵法案が議会を通過したのは降伏わづか二ヶ月前であつた。
日本人は不正規軍といふ二十世紀の新しい戦争形態に対して、ほとんど正規戦の戦術しか持たなかつた。

三島由紀夫
「『楯の会』のこと」より

162 :ナナシズム:2010/03/07(日) 11:13:10 ID:???
>日本人は十九世紀以来、民兵の構想を持つたことがなく
其の辺は当時日本が見習うべきだった国の制度とも関係が在るのかね。
民兵制度を見習うべき国のアメリカとの交流が
南北戦争の後遺症の所為で大きく出遅れたのがマズかったんだろうか?

>経済的繁栄と共に、日本人の大半は商人になり、武士は衰へ死んでゐた
猪木正道と三島由紀夫との対談から抜粋

猪木
日本では財界人や有産階級の間に防衛意識が欠けている面がありますね。
戦前の政党内閣では、陸海軍大臣は現役の軍人だった。
これには軍部が排他独占的で介入を許さなかった事も在るが、
財界人が積極的に防衛の意思を示さなかった事もあると思う。
他国では、例えばイギリスのロイド・ジョージは、第一次大戦の時、
大蔵大臣の栄職を自ら投げ捨て、志願して軍需大臣になっているんです。
ブルジョアジーの防衛を大きく謳い、ドイツに対抗できる軍需工場を作っている。
それから陸軍大臣、首相になるわけだけれども、『有産階級としての防衛意識』の熾烈なことといったらない。
軍需大臣の頃、軍が一個大隊辺り二挺の機関銃を要求してきたら、
『アフリカで現地人を追い回すのとは違うんだ』 といって、なんて六十四挺ずつ配った。
自分の国を自分で守る気構えの代表といっていいでしょう。
これからすると、日本の有産階級は依頼心だけが強い。
戦前は軍部に任せ、注文だけ貰って儲けさせて貰う。戦後は自分の国に軍隊が無いから、アメリカの軍隊に依頼する。
経済を背負って立つ人が国を守る意思を持たん位、恥ずかしい事は無い。
決意さえ持てば、労働者だって協力しますよ」

163 :ナナシズム:2010/03/07(日) 23:44:06 ID:0HUd0czr
>>162
結構具体的な民兵組織の構想を三島由紀夫は立案していて、それを実現するために
財界人に協力してもらおうと、政治家を使ったりして何度か理解を得ようと会談したようですが、
結局は目先のことしか考えない、日本がなくなってもいいと思ってる財界人らへの失望に終わってますね。

164 :ナナシズム:2010/03/07(日) 23:51:32 ID:0HUd0czr
もし三島の民兵組織が実現していたら、竹島等々の領土問題ももっと日本は主張できてるんじゃないかと思います。

165 :ナナシズム:2010/03/09(火) 17:23:04 ID:g5c3J53N
三島:僕はいつも思うのは、自分がほんとうに恥ずかしいことだと思うのは、自分は戦後の社会を否定してきた、
否定してきて本を書いて、お金をもらって暮らしてきたということは、もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。
武田:いや、それだけは言っちゃいけないよ。あなたがそんなこと言ったらガタガタになっちゃう。
三島:でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうことを言わなかった。
武田:それはやっぱり、強気でいてもらわないと……。
三島:そうかな。おれはいままでそういうことは言わなかったけれども、よく考えてみるといやだよ。
武田:いやだろうけど、それは我慢していかないと……。
三島:それじゃ、我慢しないでだよ、たとえば、戦後社会を肯定して、お金をもうけることは非常に素晴らしいことだ、
これならだれに対しても恥ずかしくない、と言えるかな。
武田:言えないでしょう、それは。

三島由紀夫
武田泰淳との対談「文学は空虚か」より

166 :ナナシズム:2010/03/09(火) 17:24:02 ID:g5c3J53N
三島:言えないでしょう。そうすると、われわれだってどっちもいけないじゃないの。どうするのよ……。
武田:だから最後まで強気をもつということよ。
三島:強気をもつということは、もう小説を書くことじゃないだろう、そうすれば。
文学じゃそれは解決できる問題じゃない。
武田:だって、小説だって、あの長いもの書くのに、強気でなければ書けないよ。
三島:しかし僕は、それは絶対文学で解決できない問題だと気がついたんだ。
…たとえば政治行為というものはね、あるモデレートな段階で満足できるものなら、自分の良心も満足するだろう。
たとえば、デモに参加した、危険を冒して演説会をやった、私は政治行為をやったということで、
安心して文学をやっていられる。私は自分の良心にこれだけ忠実にやったんだぞ、ということで、文学をやる、
小説が売れる、お金が入る、別荘でも建てる、犬でも飼う、ヨットを買う、そんなことほんとうにいやだな。
武田:それは、あなたはいやでしょうね。
三島:ほんとうにいやだな。
武田:だけども、つまり政治行動というものは、ほんとうはそうじゃないからね。

三島由紀夫
武田泰淳との対談「文学は空虚か」より

167 :ナナシズム:2010/03/11(木) 12:21:29 ID:czdMXWFf
…この叫び(剣道のかけ声)には近代日本が自ら恥ぢ、必死に押し隠さうとしてゐるものが、あけすけに露呈されてゐる。
それはもつとも暗い記憶と結びつき、流された鮮血と結びつき、日本の過去のもつとも正直な記憶に源してゐる。
それは皮相な近代化の底にもひそんで流れてゐるところの、民族の深層意識の叫びである。
このやうな怪物的日本は、鎖につながれ、久しく餌を与へられず、衰へ呻吟してゐるが、今なほ剣道の道場に
おいてだけ、われわれの口を借りて叫ぶのである。それが彼の唯一の解放の機会なのだ。

三島由紀夫
「実感的スポーツ論」

168 :ナナシズム:2010/03/11(木) 12:22:57 ID:czdMXWFf
私は今ではこの叫びを切に愛する。
このやうな叫びに目をつぶつた日本の近代思想は、すべて浅薄なものだといふ感じがする。
それが私の口から出、人の口から出るのをきくとき、私は渋谷警察署の古ぼけた道場の窓から、空を横切る
新しい高速道路を仰ぎ見ながら、あちらには「現象」が飛びすぎ、こちらには「本質」が叫んでゐる、といふ喜び、
……その叫びと一体化することのもつとも危険な喜びを感じずにゐられない。
そしてこれこそ、人々がなほ「剣道」といふ名をきくときに、胡散くさい目を向けるところの、あの悪名高い
「精神主義」の風味なのだ。私もこれから先も、剣道が、柔道みたいに愛想のよい国際的スポーツにならず、
あくまでその反時代性を失はないことを望む。

三島由紀夫
「実感的スポーツ論」より

169 :ナナシズム:2010/03/11(木) 15:08:48 ID:czdMXWFf
芸術における虚妄の力は、死における虚妄とよく似てゐる。団蔵の死は、このことを微妙に暗示してゐる。
芸道は正にそこに成立する。
芸道とは何か?
それは「死」を以てはじめてなしうることを、生きながら成就する道である、といへよう。
これを裏から言ふと、芸道とは、不死身の道であり、死なないですむ道であり、死なずにしかも「死」と同じ
虚妄の力をふるつて、現実を転覆させる道である。同時に、芸道には、「いくら本気になつても死なない」
「本当に命を賭けた行為ではない」といふ後めたさ、卑しさが伴ふ筈である。現実世界に生きる生身の人間が、
ある瞬間に達する崇高な人間の美しさの極致のやうなものは、永久にフィクションである芸道には、決して
到達することのできない境地である。「死」と同じ力と言つたが、そこには微妙なちがひがある。いかなる
大名優といへども、人間としての団蔵の死の崇高美には、身自ら達することはできない。彼はただそれを
表現しうるだけである。

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

170 :ナナシズム:2010/03/11(木) 15:09:54 ID:czdMXWFf
ここに、俳優が武士社会から河原乞食と呼ばれた本質的な理由があるのであらう。今は野球選手や芸能人が
大臣と同等の社会的名士になつてゐるが、昔は、現実の権力と仮構の権力との間には、厳重な階級的差別があつた。
しかし仮構の権力(一例が歌舞伎社会)も、それなりに卑しさの絶大の矜持を持ち、フィクションの世界観を以て、
心ひそかに現実社会の世界観と対決してゐた。現代社会に、このやうな二種の権力の緊張したひそかな対決が
見られないのは、一つは、民主社会の言論の自由の結果であり、一つは、現実の権力自体が、すべてを同一の
質と化するマス・コミュニケーションの発達によつて、仮構化しつつあるからである。
さて、芸能だけに限らない。小説を含めて文芸一般、美術、建築にいたるまで、この芸道の中に包含される。
(小説の場合、芸道から脱却しようとして、却つて二重の仮構のジレンマに陥つた「私小説」のやうな例もあるが、
ここではそれに言及する遑(いとま)はない)

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

171 :ナナシズム:2010/03/11(木) 15:12:04 ID:czdMXWFf
(中略)芸道には、本来「決死的」などといふことはありえない。
…ギリギリのところで命を賭けないといふ芸道の原理は、芸道が、とにかく、石にかじりついても生きてゐなければ
成就されない道だからである。「葉隠」が、
「芸能に上手といはるゝ人は、馬鹿風の者なり。これは、唯一偏に貪着(とんちやく)する故なり、愚痴ゆゑ、
余念なくて上手に成るなり。何の益にも立たぬものなり」
と言つてゐるのは、みごとにここを突いてゐる。「愚痴」とは巧く言つたもので、愚痴が芸道の根本理念であり、
現実のフィクション化の根本動機である。
さて、今いふ芸術が、芸道に属することをいふまでもないが、私は現代においては、あらゆるスポーツ、いや、
武道でさへも、芸道に属するのではないかと考へてゐる。
それは「死なない」といふことが前提になつてゐる点では、芸術と何ら変りないからである。

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

172 :ナナシズム:2010/03/11(木) 15:15:29 ID:czdMXWFf
(中略)
武士道とは何であらう?
私はものごとに「道」がつくときは、すでに「死」の原理を脱却しかかり、しかも死の巨大な虚妄の力を自らは
死なずに利用しはじめる時であらう、と考へる。武士道は、日常座臥、命のやりとりをしてゐた戦国時代ではなくて、
すでに戦国の影が遠のき、日常生活における死が稀薄になりつつあつた時代に生れた。
真に死に直面してゐた戦闘集団には、それこそ日々の「決死」の行為と、その死への心構へと、死を前にした
人間の同志的共感がすべてである。それは決して現実を仮構化する暇などはもたない。それこそが、現実の側の
権力のもつとも純粋な核であり、あらゆる芸道的なものを卑しめる資格があるのは、このやうな、死に直面した
戦闘集団に他ならない。それさへ、現実に権力を握れば、現実の仮構化をもくろむ芸道の原理に対抗するに
自分も亦、こつそりと現実の仮構化を模倣しつつ、しかも芸道を弾圧せねばならない。これが現実権力の腐敗である。

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

173 :ナナシズム:2010/03/11(木) 15:17:12 ID:czdMXWFf
私が決して腐敗を知らぬ、永遠に美しい、永遠に純粋至上な「現実権力」として認めるものは、あの挫折した
二・二六事件の、青年将校の同志的結合である。末松太平氏の「私の昭和史」の次のやうな一節を読むがいい。
天皇の軍隊を天皇の命令なくして、私的にクーデターなどに使ふことに反対してゐた高村中尉(著者の学友)が、
つひに著者に説得されて、理屈よりも友情が勝ち、次のやうに言ふところである。
「『(略)…貴様がやることなら、おれもやるよ。しかしやるまで暇があるなら、そのあいだにできるだけ、
そのおれの疑念を晴らすよう教えてくれ。疑念が晴れなければやらないというのじゃないよ』」
この最後の一句のいさぎよい美しさこそ、永遠に反芸道的なものである。そして芸道を河原乞食と卑しむことが
できるものは、このやうな精神だけであり、固定して腐敗した政治権力には、そのやうな資格はない。

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

174 :ナナシズム:2010/03/12(金) 11:22:25 ID:9UTTucPU
さて、死に直面する戦闘集団の原理は、多少とも武士道に影を宿し、泰平無事の元禄の世にも、赤穂義士の義挙と、
「葉隠」の著作を残した。それが、命のやりとりを再び復活した幕末から維新を経て、人々の心に色濃くのこつてゐた。
このやうな戦闘集団の同志的結合は、要するに、戦野に同じ草を枕にし、同じ飯盒(はんがふ)の飯を喰ひ、
死の機会は等分に見舞ふところの、上長と兵士の間の倫理を要請した。
飛躍するやうだが、旧憲法の統師大権の本質はここにあり、武士道を近代社会へつなぐ唯一のパイプであつたと
思はれるのである。
史家は、明治憲法制定の時、薩摩閥が、国務大権を握つたのに対抗して、長州閥が、天皇に直属する統師大権を
握つて、国務大権から独立した兵馬の権をわがものにしようとした、と説明するが、政治史の心理的ダイナミズムは
そのやうに経過したとしても、統師大権の根本精神は、もつと素朴な、戦闘集団の同志的結合の純粋性を天皇に
直属せしめるところにあつたと思はれる。

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

175 :ナナシズム:2010/03/12(金) 11:26:12 ID:9UTTucPU
二・二六事件の悲劇は、統師大権の純粋性を信じた青年将校と、英国的立憲君主の教育を受けた文治的天皇との、
甚だしい齟齬にあつたが、私が近ごろ再軍備の論をきくにつれ、いつも想起するのは、この統師大権の問題である。
シヴィリアン・コントロールとたやすく言ふが、真に死に直面した戦闘集団は、芸道的原理に服した現実の権力の
ために死ぬことができるであらうか?
早い話が、「死ぬこととみつけた」武士道は、「死なないですむ」芸道のために、死ぬことができるであらうか?
「死なないですむ」芸道的原理が現代を支配し、大臣も芸能人も野球選手も、同格同質の社会的名士と扱はれ、
したがつてそこに、現実の権力と仮構の権力(純粋芸道)との、真の対決闘争もなく、西欧的ヒューマニズムが、
唯一の正義として信奉されてゐるやうな時代に、シヴィリアン・コントロールが、真に日本人を死なせる
原理として有効であらうか、私は疑問なきを得ない。
もちろん、シヴィリアン・コントロールは、天皇の代りに、総理大臣のために死ぬことではない。

三島由紀夫
「団蔵・芸道・再軍備」より

176 :ナナシズム:2010/03/16(火) 14:13:25 ID:KBDj0mPW
電熱器ばやりの今の人には火鉢と云つてもピンと来ないだらうが、むかしは炭火をカンカン起して、鉄の網を
五徳にのせて、東京人が「おかちん」と呼ぶところの餅を、火鉢で焼いて喰べるのが、冬の夜の家庭のたのしみの
一つであつた。その鉄の網目の模様がコンガリと焼けた餅にのこり、私たちは、熱い餅をフーフー吹きながら、
醤油をかけて、おいしく喰べたものだ。
さて、いくら早く焼きたいからと云つて、餅を炭火につつこんだのでは、たちまち黒焦げになつて、喰べられた
ものではない。餅網が適度に火との距離を保ち、しかも火熱を等分に伝達してくれるからこそ、餅は具合よく
焼けるのである。
さて、法律とはこの餅網なのだらうと思ふ。餅は、人間、人間の生活、人間の文化等を象徴し、炭火は、人間の
エネルギー源としての、超人間的なデモーニッシュな衝動のプールである潜在意識の世界を象徴してゐる。

三島由紀夫
「法律と餅焼き」より

177 :ナナシズム:2010/03/16(火) 14:13:44 ID:KBDj0mPW
人間といふものは、おだやかな理性だけで成立つてゐる存在ではないし、それだけではすぐ枯渇してしまふ、
ふしぎな、落着かない、活力と不安に充ちた存在である。
人間の活動は、すばらしい進歩と向上をもたらすと同時に、一歩あやまれば破滅をもたらす危険を内包してゐる。
ではその危険を排除して、安全で有益な活動だけを発展させようといふ試みは、むかしからさかんに行はれたが、
一度も成功しなかつた。
どんなに安全無害に見える人間活動も、たとへば慈善事業のやうなものでも、その事業を推進するエネルギーは、
あの怖ろしい炭火から得るほかはない。一例が、プロヒューモ氏は、例の醜聞事件以後、すばらしく有能な
慈善事業家として更生してゐるさうである。
人間の餅は、この危険な炭火の力によつて、喰へるもの、すなはち社会的に有益なものになる。

三島由紀夫
「法律と餅焼き」より

178 :ナナシズム:2010/03/16(火) 14:14:03 ID:KBDj0mPW
しかし、もし火に直接に触れれば、喰へないもの、すなはち社会的に無益有害なものになる。だから、餅と火の
あひだにあつて、その相干渉する力を適当に規制し、餅をほどよい焼き加減にするために、餅網が必要になるのである。
たとへば殺人を犯す人間は、黒焦げになつた餅である。そもそもさういふ人間を出さないやうに餅網が存在して
ゐるのだが、網のやぶれから、時として、餅が火に落ちるのはやむをえない。さういふときは、餅網は餅が
黒焦げになるに委(まか)せる他はない。すなはち彼を死刑に処する。餅網の論理にとつては、罪と罰は
一体をなしてゐるのであつて、殺人の罪と死刑の罰とは、いづれも餅網をとほさなかつたことの必然的結果であつて、
彼は人を殺した瞬間に、すでに地獄の火に焼かれてゐるのだ。

三島由紀夫
「法律と餅焼き」より

179 :ナナシズム:2010/03/16(火) 14:14:23 ID:KBDj0mPW
そして責任論はどこまで行つてもきりがなく、個人的責任と社会的責任との継目は永遠にはつきりしないが、
少くとも、殺人といふ罪が、人間性にとつて起るべからざることではなく、人間の文化が、あの怖ろしい炭火に
恩恵を蒙(かうむ)つてゐるかぎり、火は同時に殺人をそそのかす力にさへなりうるのである。かくて、終局的に、
責任は人間のものではないとする仏教的罪の思想も、人間には原罪があるとするキリスト教的罪の思想も
生れてくるわけであるが、餅網の論理は、そこまで面倒を見るわけには行かない。
ただ、餅網にとつていかにも厄介なのは、芸術といふ、妙な餅である。この餅だけは全く始末がわるい。
この餅はたしかに網の上にゐるのであるが、どうも、網目をぬすんで、あの怖ろしい火と火遊びをしたがる。
そして、けしからんことには、餅網の上で焼かれて、ふつくらした適度のおいしい焼き方になつてゐながら、
同時に、ちらと、黒焦げの餅の、妙な、忘れられない味はひを人に教へる。

三島由紀夫
「法律と餅焼き」より

180 :ナナシズム:2010/03/16(火) 14:14:45 ID:KBDj0mPW
殺人は法律上の罪であるのに、殺人を扱つた芸術作品は、出来がよければ、立派な古典となり文化財となる。
それはともかくふつくらしてゐて、黒焦げではないのである。古典的名作はそのやうな意味での完全犯罪であつて、
不完全犯罪のはうはまだしもつかまへやすい。黒焦げのあとがあちこちにちらと残つてゐて、さういふところを
公然猥褻物陳列罪だの何だのでつかまへればいいからである。
それにしても芸術といふ餅のますます厄介なところは、火がおそろしくて、白くふつくら焼けることだけを
目的として、おつかなびつくりで、ろくな焦げ目もつけずに引上げてしまつた餅は、なまぬるい世間の良識派の
偽善的な喝采は博しても、つひに戦慄的な傑作になる機会を逸してしまふといふことである。

三島由紀夫
「法律と餅焼き」より

181 :ナナシズム:2010/03/17(水) 15:02:04 ID:nLEhBQY+
私は大体笑ふことが好きであり、子供のころから「この子を映画へ連れてゆくと、突拍子もないところで
ケタケタ笑ひ出して、きまりわるい」とおとなにいはれた。徳大寺公英氏の思ひ出話によると、中学時代も、
教室でキャッキャッと一きは高い笑ひ声がするので、私がゐることがわかる、と先生がいつてゐたさうである。
おとなになつても、福田恆存氏の「キティ颱風」の招待日などには、拍手役ならぬ、笑声のサクラに狩り出された。
うしろのはうの席に、宮田重雄氏はじめ、笑ひの猛者がそろつてゐて、セリフの一言半句ごとに、声をそろへて
ゲラゲラ笑ふのである。するとそれにつられて笑ひ出すお客がある。福田氏は、新劇の観客層のシンネリムッツリを、
よほどおそれてゐたのである。
俳優のT君が、「君の貧弱な体格からすると、笑ひ声だけが大きくて不自然だから、後天的に自分で育成これ
つとめたものだらう」といつたが、これはマトをそれてゐる。私の肺活量はこれでも四千七百五十もある。

三島由紀夫
「わが漫画」より

182 :ナナシズム:2010/03/17(水) 15:06:11 ID:nLEhBQY+
漫画は、かくて、私の生理衛生上必要不可欠のものである。をかしくない漫画はごめんだ。何が何でもをかしく
なくてはならぬ。おそろしく下品で、おそろしく知的、といふやうな漫画を私は愛する。
悩殺する、とか、笑殺する、とかいふ言葉は、実存主義ふうに解すると、相手を「物」にしていまふことだと思はれる。
「人を食ふ」といふのもこれに等しい。われわれは他人の人格を食ふことはできぬ。相手を単なる物、単なる
肉だと思ふから、食ふことができる。
漫画はだから「食はれる状態」をうまく作りあげねばならぬ。「物」になつてゐなければならぬ。
知的な漫画ほどこの即物性がいちじるしく、低級な漫画ほど、笑ひ話の物語性だの、教訓性だの、によりかかつてゐる。
下手な落語家は「をかしいお話」を語るにすぎないが、名人の落語家ほど、笑はれるべき対象を綿密に造形して、
話の中に「笑はれるべき物」を創造してゐるのである。
何もいはゆる、サイレント漫画が知的だといふのではない。
言葉がない代りに、社会の良風美俗に逆によりかかつてわからせてゐるやうな、不心得な漫画も散見する。

三島由紀夫
「わが漫画」より

183 :ナナシズム:2010/03/17(水) 15:08:21 ID:nLEhBQY+
漫画は現代社会のもつともデスペレイトな部分、もつとも暗黒な部分につながつて、そこからダイナマイトを
仕入れて来なければならないのだ。あらゆる倒錯は漫画的であり、あらゆる漫画は幾分か倒錯的である。
そして倒錯的な漫画が、人を安心して笑はせるやうではまだ上等な漫画とはいへぬ。
日本の漫画がジャーナリズムにこびて、いはゆる社会的良識にドスンとあぐらをかいて、そこから風俗批評、
社会批評をやらかして、それを漫画家の使命だと思つてゐる人が少なくないのは、にがにがしいことである。
もつとも漫画的な状況とは、また永遠に漫画的状況とは、他人の家がダイナマイトで爆発するのをゲラゲラ笑つて
見てゐる人が、自分の家の床下でまさに別のダイナマイトが爆発しかかつてゐるのを、少しも知らないでゐる
といふ状況である。漫画は、この第二のダイナマイトを仕掛けるところに真の使命がある。

三島由紀夫
「わが漫画」より

184 :ナナシズム:2010/03/17(水) 15:09:49 ID:nLEhBQY+
あんまりのんびりしてゐると、ほかならぬ漫画家自身が、右のやうな漫画を演じなければならぬことになりますぞ!
さて私も、かういふ商売をやつてゐて、何やかと漫画に描かれることが多い。この一文で、漫画家諸氏のお名前を
一つもあげなかつたのは、かかる職業上のおもんぱかりであるが、われわれ文士も「素人時評」といふやつは、
ほとほとにがにがしい、イヤ味なものだと思つてゐるのである。
小説書きでないやつに、小説なんてわかるものか!
漫画家でないやつに、漫画なんてわかつてたまるものか!
それでよろしい。
さて、一つの漫画は、小説家が、かういふ雑文をたのまれて、をかしくもない文章を、頭から湯気を立てて
書いてゐる、といふその状況である。

三島由紀夫
「わが漫画」より

185 :ナナシズム:2010/03/21(日) 11:34:08 ID:brwQsalB
私は弱い者が大ぜい集まつてワイワイガヤガヤ言つて多数の力で意見を押しとほすといふ考へがきらひだ。
全学連だつて、一人一人会えば大人しい坊ちやんだし、体力的に弱いタイプが多い。
なぜ多数を恃むのか。自分一人に自信がないからではないのか。
「千万人といへども我行かん」といふ気持がないではないか。
もつとも一人の力では限りがあることがわかつてゐる。だから私は少数精鋭主義である。
その少数の一人一人が、「千万人といへども我行かん」といふ気構へをもち、それだけ腕つ節がなければならない。
たつた一人孤立しても、切り抜けて行けなければならない。

三島由紀夫
「拳と剣――この孤独なる自己との戦ひ」より

186 :ナナシズム:2010/03/21(日) 11:34:54 ID:brwQsalB
私は進歩主義者ではないから、次のやうに考へてゐる。
精神をきたへることも、肉体をきたへることも、人間の古い伝統の中の神へ近づくことであり、失はれた完全な
理想的な人間を目ざすことであり、それをうながすものは、人間の心の中にある「古代の完全性」への郷愁である、と。
精神的にも高く、肉体的にも美しかつた、古典期の調和的人間像から、われわれはあまりにもかけはなれてしまひ、
社会にはめこまれた、小さな卑しい、バラバラの歯車になつてしまつた。
ここから人間を取りもどすには、ただはふつておいて、心に念じてゐるだけでできるものではない。

三島由紀夫
「きたへる――その意義」より

187 :ナナシズム:2010/03/21(日) 11:35:19 ID:brwQsalB
苦しい思ひをしなければならぬ。
人間の精神も肉体も、ただ、温泉につかつて、ぼんやりしてゐるやうにはできてゐない。
鉄砲でも、刀でも、しよつちゆう手入れをしてゐなければ、さびて使ひものにならなくなる。
精神も肉体も、たえず練磨して、たえずみがき上げてゐなければならぬ。
これは当り前のことなのだが、この当り前のことが忘れられてゐる。
若いうちに、つらいことに耐へた経験を持つことほど、人生にとつて宝はないと思ふ。
軍隊のやうな強制のない現在、一人一人の自発的な意志が、一人一人の未来を決定するにちがひない。

三島由紀夫
「きたへる――その意義」より

188 :ナナシズム:2010/03/22(月) 12:00:46 ID:/zAfid4h
西部劇は純然たる男だけの世界であつてこそ意味がある。へんな恋愛をからませた西部劇ほど、おかつたるいものはない。
さて、西部劇に欠くべからざるインディアンのことだが、アメリカ人はインディアンに対しては、ニグロに
対するやうな人種的偏見を持つてゐないらしい。ユンクによると、アメリカ人の英雄類型は結局インディアンの
伝統的英雄に帰着するさうである。アメリカ人の集合的無意識は、自分の祖先を衰弱した白皙のヨーロッパ人
としてよりも、精力にみちあふれた赤い肌のインディアンとして見てゐるらしい。開拓時代にインディアンと
戦ひながら、アメリカ人は敵の精力をしらずしらず崇拝し、模倣しようとしたかもしれない。(中略)
「一難去つて又一難」といふ事態に対する人間のどうしやうもない興味は、(これは西部劇に限つたことでは
ないが)、どんなに平和な時代が続かうと癒やしがたいものであるらしい。平和な市民生活に直接の身体的
危険が乏しいことから、この刺戟飢餓は、危険なスポーツや、自動車の制限速度の超過や、犯罪などに向ひ、
あるひは内攻してノイローゼに向ふことになる。西部劇はかういふ不満に対するいかにも安全な薬品である。

三島由紀夫「西部劇礼讃」より

189 :ナナシズム:2010/03/25(木) 12:13:18 ID:mysuUGVC
実際芸術の堕落は、すべて女性の社会進出から起つてゐる。女が何かつべこべいふと、土性骨のすわらぬ
男性芸術家が、いつも妥協し屈服して来たのだ。あのフェミニストらしきフランスが、女に選挙権を与へるのを
いつまでも渋つてゐたのは、フランスが芸術の何たるかを知つてゐたからである。(中略)
道徳の堕落も亦、女性の側から起つてゐる。男性の仕事の能力を削減し、男性を性的存在にしばりつけるやうな
道徳が、女性の側から提唱され、アメリカの如きは女のおかげで惨澹たる被害を蒙つてゐる。悪しき人間主義は
いつも女性的なものである。男性固有の道徳、ローマ人の道徳は、キリスト教によつて普遍的か人間道徳へと
曲げられた。そのとき道徳の堕落がはじまつた。道徳の中性化が起つたのである。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

190 :ナナシズム:2010/03/25(木) 12:15:43 ID:mysuUGVC
一夫一婦制度のごときは、道徳の性別を無視した神話的こじつけである。女性はそれを固執する。人間的立場から
固執するのだ。女にかういふ拠点を与へたことが、男性の道徳を崩壊させ、男はローマ人の廉潔を失つて、
ウソをつくことをおぼえたのである。男はそのウソつきを女から教はつた。キリスト教道徳は根本的に偽善を
包んでゐる。それは道徳的目標を、ありもしない普遍的人間性といふこと、神の前における人間の平等に置いて
ゐるからである。これな反して、古代の異教世界においては、人間たれ、といふことは、男たれ、といふことで
あつた。男は男性的美徳の発揚について道徳的責任があつた。なぜなら世界構造を理解し、その構築に手を貸し、
その支配を意志するのは男性の機能だからだ。男性からかういふ誇りを失はせた結果が、道徳専門家たる地位を
男性をして自ら捨てしめ、道徳に対してつべこべ女の口を出させ、つひには今日の道徳的瓦解を招いたものと
私は考へる。一方からいふと、男は女の進出のおかげで、道徳的責任を免れたのである。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

191 :ナナシズム:2010/03/25(木) 12:27:26 ID:mysuUGVC
われわれの死には、自然死にもあれ戦死にもあれ、個性的なところはひとつもない。しかし死は厳密に個人的な
事柄で、誰も自分以外の死をわが身に引受けることはできないのだ。死がこんな風に個性を失つたのには、
近代生活の劃一化と劃一化された生活様式の世界的普及による世界像の単一化が原因してゐる。
ところで原子爆弾は数十万の人間を一瞬のうちに屠(ほふ)るが、この事実から来る終末感、世界滅亡の感覚は、
おそらく大砲が発明された時代に、大砲によつて数百の人間が滅ぼされるといふ新鮮な事実のもたらした感覚と
同等のものなのだ。(中略)
原爆の国連管理がやかましくいはれてゐるが、国連を生んだ思想は、同時に原子爆弾を生まざるをえず、
世界国家の理想と原爆に対する恐怖とは、互ひに力を貸し合つてゐるのである。

三島由紀夫「死の分量」より

192 :ナナシズム:2010/03/25(木) 12:28:09 ID:mysuUGVC
交通機関の発達と、わづか二つの政治勢力の世界的な対立とは、われわれの抱く世界像を拡大すると同時に
狭窄にする。原子爆弾の招来する死者の数は、われわれの時代の世界像に、皮肉なほどにしつくりしてゐる。
世界がはつきり二大勢力に二分されれば、世界の半分は一瞬に滅亡させる破壊力が発明されることは必至である。
しかし決してわれわれは他人の死を死ぬのではない。原爆で死んでも、脳溢血で死んでも、個々人の死の分量は
同じなのである。原爆から新たなケンタウロスの神話を創造するやうな錯覚に狂奔せずに、自分の死の分量を
明確に見極めた人が、これからの世界で本当に勇気を持つた人間になるだらう。
まづ個人が復活しなければならないのだ。

三島由紀夫「死の分量」より

193 :ナナシズム:2010/03/26(金) 10:28:30 ID:anncqgWr
現代の若い人たちの特徴として、欲望の充足そのものをあまり重要なものとしてゐないのではないかと僕は思ふ。
それは欲望を充足してから後に、いつも「たしかこれだけではないはずだ」といふやうな飢餓の気持に襲はれて、
その感じの方が欲望の充足といふことよりも強く来てしまふんです。女の人に関しては、まだまだ欲望の
充足といふことは大問題かもしれないけれども、若い男にとつては欲望の充足だけが人生の大問題であるなんて
ことは、ほとんどないんぢやないかと思ふ。(中略)
今はさういふもの(性欲の満足)に対して、あまりにも近道が発達してゐるものだから、人間のかなり大事な
一つの仕事である生殖作用が、だんだん軽くなつてゐる。その一つの現はれがペッティングなどといふことに
なるんだけれども、これからますますかういふ傾向がひどくなるんぢやないかと思ふ。その結果、若い人たちの
性欲以外のいろいろな欲望に対する追求も、だんだんとねばりがなくなり、非常にニヒリスティックになる
といふことは言へると思ふ。

三島由紀夫「欲望の充足について」より

194 :ナナシズム:2010/03/26(金) 10:28:59 ID:anncqgWr
たとへば明治時代の立身出世主義のやうに一つの公認されてゐる社会的欲望が、大多数の人たちを動かして
ゐた時代もあるわけです。さうすると、社会的欲望の充足が、だれが見ても間違ひのない社会における完全な
勝利になる。さういふ時代には、あらゆる条件がそれに伴つて動いてゐたと思ふんです。たとへば上昇期の
資本主義の時代、さうして日本が近代国家として統一されて、まだ間もない時代、しかも恋愛の自由がまだ
完全にない時代――もちろんプロスティチュートはたくさんゐたし、さういふことの満足は幾らでも得られた
けれども、普通の恋愛がまだ非常に困難であつた時代、従つてたとひ男がプロスティチュートを買つても、
精神的に非常にストイックだつた時代、さういふ頃には、欲望の充足といふことは、みんな一つの大きな方向に
向つた大事業だつたといつていいと思ふ。だからさういふ立身出世主義みたいな世俗的なものの裏返しとしては、
あの時代は理想主義の時代だつたとも言へるかもしれない。

三島由紀夫「欲望の充足について」より

195 :ナナシズム:2010/03/26(金) 10:29:24 ID:anncqgWr
けれども今の時代は、普通の若い人たちの間で、必ずしもプロスティチュートでなくても、欲望の充足が非常に
簡単になつて来てゐる。その簡単になつて来たといふ背後には、逆にどうやつてもいろいろな社会的な欲望の
充足が困難になつて来たといふ事情も入つてゐると思ふ。たとへば今学校で子供たちに、将来何になりたいかと
聞いたならば、大臣になりたいなどといふ子供はあまりゐないだらうし、大将などはなくなつてしまつた
やうなものだし、みんなのなりたいものは、プロ野球の選手だとか映画俳優くらゐしかなくなつてしまつた。
さうして社会が一種の袋小路に入つてゐて、未来の日本の希望といふものもあまり見られないし、社会そのものが
今発展期にないといふことが、非常に概念的な言ひ方だけれども、簡単に欲望が満足させられてしまふ悲しさ、
空虚感に、ますます拍車をかけてゐるといふ感じがする。

三島由紀夫「欲望の充足について」より

196 :ナナシズム:2010/03/26(金) 10:29:51 ID:anncqgWr
そこで欲望の充足といふことは、ほかの項目にある刺激飢餓といふことに、すぐ引つかかつて来る。
ヒロポンとかパチンコとか麻雀とかに対する狂熱的な欲望も、みんなさういふところに入つて来ると思ふのです。
だから性欲なら性欲といふことを一つ考へても、それにいろいろな条件がからんで来るので、もし性欲が非常に
簡単に満足されるとすれば、何も性欲である必要はないんです。それはある場合においては賭事であつてもいいし、
目先の小さな刺激であつてもいいし、何でもいいわけです。つまり一つの欲望が非常に大事であるといふことに
なれば、ほかの欲望もみんな大事であると言へると思ふ。もし性欲の満足が非常に大事な問題であれば、ほかの
欲望もそれぞれ人生の中での大問題になる。一つの欲望の充足がくだらぬことになつてしまへば、ほかもみんな
くだらなくなつてしまふ。

三島由紀夫「欲望の充足について」より

197 :ナナシズム:2010/03/26(金) 10:30:29 ID:anncqgWr
それが両方から鏡のやうに相投射してゐるから、何も女の子を追つかけなくても、ヒロポンを打つてゐれば
いいといふことになる。さうしてヒロポンがこはいといふ人は麻雀をやつてゐればいいといふことになる。
さういふ点から見てみると、案外今の若い人には――それは新聞や雑誌の言ふやうに性道徳が乱れて
めちやくちやになつてゐるといふ部分もあるでせうけれども、一部分には何だか全然何も考へないでパチンコ
ばかりやつてゐて女の子とつき合ふこともない。ヒロポンなんか少し甚だしいけれども、一方では女の子と
ちつともつき合はないで麻雀ばかりやつて、うたた青春を過してゐるのも多いんぢやないか。従つてすべてに
欲望がなくなつた時代とも言へるんぢやないかと思ふ。
(談)

三島由紀夫「欲望の充足について」より

198 :ナナシズム:2010/03/27(土) 11:53:11 ID:7ncWhB/0
最近ウェイドレーの「芸術の運命」といふ本を面白く読んだが、この本の要旨は、キリスト教的中世には
生活そのものに神の秩序が信じられてゐて、それが共通の様式感を芸術家に与へ、芸術家は鳥のやうに自由で、
毫も様式に心を労する必要がなかつたが、レオナルド・ダ・ヴィンチ以後、様式をうしなつた芸術家は方法論に
憂身をやつし、しかもその方法の基準は自分自身にしかないことになつて、近代芸術はどこまで行つても
告白の域を脱せず、孤独と苦悩が重く負ひかぶさり、ヴァレリーのやうな最高の知性は、かういふ模索の極致は
何ものをも生み出さないといふことを明察してしまふ、といふのである。著者はカソリック教徒であるから、
おしまひには、神の救済を持出して片づけてゐる。

三島由紀夫「モラルの感覚」より

199 :ナナシズム:2010/03/27(土) 11:53:39 ID:7ncWhB/0
道徳的感覚といふものは、一国民が永年にわたつて作り出す自然の芸術品のやうなものであらう。しつかりした
共通の生活様式が背後にあつて、その奥に信仰があつて、一人一人がほぼ共通の判断で、あれを善い、これを
悪い、あれは正しい、これは正しくない、といふ。それが感覚にまでしみ入つて、不正なものは直ちに不快感を
与へるから「美しい」行為といはれるものは、直ちに善行を意味するのである。もしそれが古代ギリシャの
やうな至純の段階に達すると、美と倫理は一致し、芸術と道徳的感覚は一つものになるであらう。
最近、汚職や各種の犯罪があばかれるにつれて、道徳のタイ廃がまたしても云々されてゐる。しかしこれは
今にはじまつたことではなく、ヨーロッパが神をうしなつたほどの事件ではないが、日本も敗戦によつて
古い神をうしなつた。どんなに逆コースがはなはだしくならうと、覆水は盆にかへらず、たとへ神が復活しても、
神が支配してゐた生活の様式感はもどつて来ない。

三島由紀夫「モラルの感覚」より

200 :ナナシズム:2010/03/27(土) 11:54:06 ID:7ncWhB/0
もつと大きな根本的な怖ろしい現象は、モラルの感覚が現にうしなはれてゐる、といふそのことではないのである。
今世紀の現象は、すべて様式を通じて感覚にぢかにうつたへる。ウェイドレーの示唆は偶然ではなく、彼は
様式の人工的、機械的な育成といふことに、政治が着目してきた時代の子なのである。コミュニズムに何故
芸術家が魅惑されるかといへば、それが自明の様式感を与へる保証をしてゐるやうに見えるからである。
いはゆるマス・コミュニケーションによつて、今世紀は様式の化学的合成の方法を知つた。かういふ方法で
政治が生活に介入して来ることは、政治が芸術の発生方法を模倣してきたことを意味する。我々は今日、自分の
モラルの感覚を云々することはたやすいが、どこまでが自分の感覚で、どこまでが他人から与へられた感覚か、
明言することはだれにもできず、しかも後者のはうが共通の様式らしきものを持つてゐるから、後者に
従ひがちになるのである。

三島由紀夫「モラルの感覚」より

201 :ナナシズム:2010/03/27(土) 11:54:39 ID:7ncWhB/0
政治的統一以前における政治的統一の幻影を与へることが、今日ほど重んぜられることはない。
文明のさまざまな末期的錯綜の中から生れたもつとも個性的な思想が非常な近道をたどつて、もつとも民族的な
未開な情熱に結びつく。ブルクハルトが「イタリー・ルネッサンスの文化」の中で書いてゐるやうに
「芸術品としての国家や戦争」が劣悪な形で再現してをり、神をうしなつた今世紀に、もし芸術としてなら
無害な天才的諸理念が、あらゆる有害な形で、政治化されてゐるのである。
芸術家の孤独の意味が、かういふ時代ではその個人主義の劇をこえて重要なものになつて来てをり、もし
モラルの感覚といふものが要請されるならば、劣悪な芸術の形をした政治に抗して、芸術家が己れの感覚の
誠実をうしなはないことが大切になるのである。

三島由紀夫「モラルの感覚」より

202 :ナナシズム:2010/04/04(日) 11:22:37 ID:LHof6G/3
男のおしやれがはやつて、男性化粧品がよく売れ、床屋でマニキュアさせる男がふえた、といふことだが、
男が柔弱になるのは泰平の世の常であつて、大正時代にもポンペアン・クリームなどといふものを頬に塗つて、
薄化粧する男が多かつたし、江戸時代の春信の浮世絵なんかを見れば、男と女がまるで見分けがつかぬやうに
描かれてゐる。男が手や爪の美容に気をつかふのは、スペインの貴族の習慣で、そこでは手の美しい男で
なければ、女にもてなかつた。
私はこんな風潮一切がまちがつてゐると考へる人間である。男は粗衣によつてはじめて男性美を発揮できる。
ボロを着せてみて、はじめて男の値打がわかる、といふのが、男のおしやれの基本だと考へてゐる。

三島由紀夫「男のおしやれ」より

203 :ナナシズム:2010/04/04(日) 11:23:07 ID:LHof6G/3
といふのは、男の魅力はあくまで剛健素朴にあるのであつて、それを引立たせるおしやれは、ボロであつても、
華美であつても、あくまで同じ値打同じ効果をもたらさなければならぬ。指環ひとつをとつてみても、節くれ
立つた、毛むくぢやらの指をしてゐてこそ、男の指環も引立つのだが、東洋人特有のスンナリした指の男が、

指環をはめてゐれば、いやらしいだけだ。
多少我田引水だが、日本の男のもつとも美しい服装は、剣道着だと私は考へてゐる。これこそ、素朴であつて、
しかも華美を兼ねてゐる。学生服をイカさない、といふのも、一部デザイナーの柔弱な偏見であつて、学生服が
ピタリと似合ふ学生でなければ、学生の値打はない。あれも素朴にして華美なる服装である。背広なんか犬に
喰はれてしまへ。世の中にこんなにみにくい、あほらしい服はない。商人服をありがたがつて着てゐる情ない
世界的風潮よ。タキシードも犬に喰はれてしまへ。私はタキシードの似合ふ日本人といふものを、ただの一人も
見たことがないのである。

三島由紀夫「男のおしやれ」より

204 :ナナシズム:2010/04/06(火) 15:10:28 ID:bxnlcGYy
Q:先生の皇室観について

…僕は、天皇制といふものは、制度上の問題でもなく、皇居だけの問題でもない。日本人の奥底の血の中にある
もので、しかもみんな気付いてゐないものだと思ひます。だからどんな過激なことをいつてゐる人でも、その
心の奥をどんどん掘りかへしていくと、日本人の天皇との結びつき、つまり天皇制といふものの考へがひそんで
ゐると思ひます。我々は殆(ほと)んど無意識のうちに暮してゐますけど、心の奥底で、天皇制と国民は
連なつてゐるのだと思ひます。それを形に表はしたのが皇室なんです。
ですから皇室で一番大切なのはお祭りだと思ひます。
“お祭り”を皇室がずつと維持していただく、これが一番大切なことです。歴代の天皇が心をこめて守つて
来られた日本のお祭りを、将来にわたつて守つていただきたいと思ひます。

三島由紀夫「三島由紀夫先生を訪ねて――希望はうもん」より

205 :ナナシズム:2010/04/06(火) 15:11:22 ID:bxnlcGYy
Q:現代かなづかひについて

…僕は今の若い人は現代かなづかひでなければ小説など読まないと思つてゐたんですけど、かならずしも
さうではないやうです。
言葉をいぢるといふことは、言葉の魂をいぢることで、日本人の歴代を人為的にいぢるのと同じことです。
僕は大嫌ひですね。言葉を大切にしない民族は、三流ですよ。

三島由紀夫「三島由紀夫先生を訪ねて――希望はうもん」より

206 :ナナシズム:2010/04/07(水) 11:05:48 ID:WfxPMYB5
日本人の明治以来の重要な文化的偏見と思はれるのは、男色に関する偏見である。
江戸時代までにはかういふ偏見はなかつた。西欧では、男色といふ文化体験に宗教が対立して、宗教が人為的に、
永きにわたつてこの偏見を作り上げたのである。しかるに日本では明治時代に輸入されたピューリタニズムの
影響によつて、簡単に、ただその偏見が偏見として伝播して、奇妙な社会常識になつてしまつた。そして
元禄時代のその種の文化体験を簡単に忘れてしまつた。
男色は、男色にとどまるものでなく、文化の原体験ともいふべきもので、あらゆる文化あらゆる芸術には、
男色的なものが本質的にひそんでゐるのである。
芸術におけるエローティッシュなものとは、男色的なものである。そして宗教と芸術・文化の、もつとも先鋭な
対立点がここにあるのに、それを忘れてしまつたのは、文化の衰弱を招来する重要な原因の一つであつた。

三島由紀夫「偏見について思ふこと」より

207 :ナナシズム:2010/04/09(金) 11:07:08 ID:HxEL1a4e
今でも英国では、午後の紅茶に「ミルク、ファースト?ティー、ファースト?」と丁重にきいてまはつてゐる。
同じ茶碗にお茶を先に入れようがミルクを先に入れようが、味に変りはなささうだが、そんなことはどうでも
いいかといへば、そこには非合理な各人各説といふものがあつて、決してさうはいかないのが英国であることは、
今も昔も変りがない。
「どつちでもいいぢやないか」といふ精神は、生活を、ひろくは文化といふものを、あつさり放棄してしまつた
精神のやうに思はれる。

三島由紀夫「英国紀行」より

208 :ナナシズム:2010/04/09(金) 11:07:36 ID:HxEL1a4e
このごろは、デモ見物に歩くことが多くなつた。デモの当事者からすれば、弥次馬は唾棄すべき存在だらうが、
かういふときには、一人ぐらゐ「見る人間」も必要である。
鴨長明が洛中の屍体の数まで、自分手で数へあげてゐる態度は、学ぶべきだと思ふ。
新聞を見てもテレビを見ても、どうしても報道そのものに主観的態度が入つてゐるやうに思はれる。
写真や映画は正に実物そのものの筈だが、必ず主観的なアナウンスが入つてゐて、印象を混濁させる。
かうなつてくると、いはゆるマス・コミは却つて不便で、どうせ主観なら自分の主観、どうせ目なら自分の目を
信ずる他はなくなるのだ。私の目だつて大したことはないが、カメラのレンズよりは少しばかり精巧であらう。

三島由紀夫「同人雑記」より

209 :ナナシズム:2010/04/09(金) 11:21:03 ID:HxEL1a4e
私はショッピングが大きらひだ。店のなかをウロウロして、十軒も二十軒も東京中を歩いて、やつと一本の
ネクタイを買ふ人があるが、時間が惜しくてとてもあんな真似はできない。私の買物は即興詩みたいなものだ。
町を歩いてゐて、視界のはじつこのはうに、ちよつと気に入つたネクタイが目に入る。と間髪を入れずそれを
買ふのである。今のチャンスをのがしたら、その同じネクタイが気に入ることは二度とないだらうと感じるからだ。(中略)
本当のお洒落といふのは、下着から靴下から靴から、すみずみまでのお洒落であらう。私は到底お洒落の
資格はない。せいぜいカラーに汚れのない白いワイシャツをいつも着てゐるぐらゐが私のお洒落であらう。
靴下のことまで考へるのは面倒くさい。しかしもし下着から靴下まで考へることが本当のお洒落ならば、
もう一歩進んで、自分の頭の中味まで考へてみることが、おそらく本当のお洒落であらう。

三島由紀夫「お洒落は面倒くさいが――私のおしやれ談義」より

210 :ナナシズム:2010/04/13(火) 12:23:37 ID:EnSEQSX7
さしも世界に名高い日本の柔道も紅毛碧眼に名を成さしめる仕儀に相成つたが、剣道はまだまだ勝味がござる。
小生、先ごろ桑港(サンフランシスコ)に赴き、書肆(しよし)の一画に「柔道」と名付くる棚があつて、
数十冊の柔道書を並べたる一驚を喫したが、生憎剣道のはうは一冊もござらなんだ。もつとも加州大学には、
剣道四段の碧眼の偉丈夫あり、勝負を挑まれたが、いささか日本国の名誉を思うて、風邪にことよせ、試合は
御辞退申した。かかる例外あれど、概して泰西諸国においては、剣道の普及未だしの観あり、剣道はもつぱら
「羅生門」の名優三船敏郎氏の風車剣法によつてのみ名あり。
剣をたしなむときけば、泰西人はいささか畏怖の情をあらはし、時代錯誤的恐怖にからるるやと思(おぼし)く、
ここがつけ目と愚考いたしてござる。武士道は、禅と等しく、ますます神秘化されてこそ世界に活路もあれ、
ゆめゆめスポーツ化させることなかれ、といふが、小生の切なる忠言でござる。

三島由紀夫「剣、春風を切る――ただいま修業中」より

211 :ナナシズム:2010/04/13(火) 12:33:12 ID:EnSEQSX7
たとへば、いちばん崇高でもあり、つぎの瞬間にいちばん下劣でもあるのが人間なんですよ。
ぼくは、さういふ人間を考へる。崇高なだけであつてもウソに決まつてゐる。
また下劣なのが人間の本当の姿だ、といふ考へ方も大きらひなんですよ。
それは自然主義的な考へ方で、十九世紀に、ごく一部にできた迷信ですよ。
人間は崇高であると同時に下劣。だから、ぼくのことを下劣だと思ふ人があれば、それでもかまはない。
ぼくの中にだつて、「一寸の虫にも五分の魂」で、崇高なものもある。それを、ぼくは自分でぼくだと思ふ。
むりやりに結びつけて、論理的に統一しようつたつて、できるものではない。
ただ思想的には節操は大切だと思ひますけど、それと人間の行動の一つ一つ。
つまり節操の正しい人は、どんなクソの仕方をするのか。
いつもまつすぐなクソがでてくるかといふと、そんなものぢやない。節操の正しい人でも、トグロを巻いちやふ。
節操の曲がつた人でも、まつすぐなクソが出るかもしれない。そんなこと関係ないですよ。

三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より

212 :ナナシズム:2010/04/13(火) 12:41:21 ID:EnSEQSX7
剣道の、人を斬るといふ仮構は爽快なものだ。
今は人殺しの風儀も地に落ちたが、昔は礼儀正しく人を斬ることができたのだ。
人とエヘラエヘラ附合ふことだけにエチケットがあつて、人を斬ることにエチケットのない現代とは、
思へば不安な時代である。

三島由紀夫「ジムから道場へ――ペンは剣に通ず」より

213 :ナナシズム:2010/04/13(火) 12:42:54 ID:EnSEQSX7
チベットの反乱に対して、中共は断固鎮圧に当たるさうである。(中略)
中共もエラクなつて、正義の剣をチベットに対してふるはうといふのだらうが、チベットに潜行して反乱軍に
参加しようといふ風雲児もあらはれないところをみるとどうも日本人は弱い者に味方しようといふ気概を失つて
しまつたやうだ。
世界中で一番自分が弱い者だと思つてゐる弱虫根性が、敗戦後日本人の心中深くひそんでしまつたらしい。

三島由紀夫「憂楽帳 反乱」より

214 :ナナシズム:2010/04/14(水) 10:14:49 ID:JivqtFvY
スキャンダルの特長は、その悪い噂一つのおかげで、当人の全部をひつくるめて悪者にしてしまふことである。
スキャンダルは、「あいつはかういふ欠点もあるが、かういふ美点もある」といふ形では、決して伝播しない。
「あいつは女たらしだ」「あいつは裏切者だ」――これで全部がおほはれてしまふ。
当人は否応なしに、「女たらし」や「裏切者」の権化になる。一度スキャンダルが伝播したが最後、世間では、
「彼は女たらしではあるが、几帳面な性格で、友達からの借金は必ず期日に返済した」とか、「彼は裏切者だが、
親孝行であつた」とか、さういふ折衷的な判断には、見向きもしなくなつてしまふのである。(中略)
マス・コミといふものが、近代的な大都会でも、十分、村八分を成立させるやうになつた。

三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より

215 :ナナシズム:2010/04/14(水) 10:54:34 ID:JivqtFvY
大体私は現在のオウナー・ドライヴァー全盛時代に背を向けて、絶対に自分の車を持たぬといふ主義を堅持して
ゐる。何のために車を持つか?一刻も早く目的地へ到達するためだらう。ところが私の家から都心までは、
ラッシュ・アワーでも、バスと国電を使つて三十五分で確実に行くのに、車を利用すれば早くて四十五分はかかる。
これでもなほ車に乗るのは、どうかしてゐる。(中略)
電車なら、推理小説だのスポーツ新聞だのに読み耽つてゐるうちに、あつといふ間に目的地へ着いてしまふ。
一切あなたまかせだからイライラすることもないのである。
都会生活の真髄は能率とスピードだらう。車を持つこと、いやただタクシーに乗ることさへ、今や能率と
スピードに背馳しつつある。あとにのこる車の御利益と言つたら見栄だけだが、かう猫も杓子も車を持つやうに
なつたら、一向見栄にもならない。見栄にも実用にもならぬことに、どうしてお金を使はなければならないのだらう。

三島由紀夫「社会料理三島亭 クヮンヅメ料理『自動車ラッシュ』」より

216 :ナナシズム:2010/04/14(水) 17:38:46 ID:JivqtFvY
よく人の家へ呼ばれて、家族の成長のアルバムなんかを見せられることがある。ところがこんなに退屈な
もてなしはない。人の家族の成長なんか面白くもなんともないからである。写真といふものには、へんな魔力が
ある。みんなこれにだまされてゐるのである。ある家族が、自分の家族の成長の歴史を写真で見れば、なるほど
血湧き肉をどる面白さにちがひない。しかもそれが写真といふ物質だから、物質である以上、坐り心地のよい
椅子が誰にも坐り心地よく、美しいガラス器が誰が見ても美しいやうに、面白い写真といふものは、誰が見ても
面白からうといふ錯覚・誤解が生じる。そこでアルバムを人に見せることになるのであらう。(略)
大部分の写真は、不完全な主観の再現の手がかりにすぎない。それは山を映しても、ふるさとの懐しい山といふ
ものは映してくれない。ただ「ふるさとの懐しい山」を想ひ起す手がかりを提供してくれるにすぎない。
「ふるさとの懐しい山」といふものは、あくまでこちらの心の中にあるので、その点では、われわれ文士の
用ひる言葉といふやつのはうが、よほど正確な再現を可能にする。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より

217 :ナナシズム:2010/04/14(水) 17:39:14 ID:JivqtFvY
いちばんいい例が赤ん坊の写真である。
他人の赤ん坊ほどグロテスクなものはなく、自分の赤ん坊ほど可愛いものはない。そして世間の親がみんな
さう思つてゐるのだから世話はない。
公園で乳母車を押した母親同士が出会つて、
「まあ、可愛い赤ちゃん」「まあ、お宅さまこそ。何て可愛らしいんでせう」などとお世辞を言ひ合ふが、
どちらも肚の中では、『なんてみつともない赤ん坊でせう。まるでカッパだわ。それに比べると、うちの
赤ん坊の可愛らしいこと!…(略)』さう思つてゐる。
カメラはこの「可愛い赤ん坊」を写すのである。実は、本当のことをいふと、カメラの写してゐるのは、
みつともないカッパみたいな未成熟の人間像にすぎないが、写真は、言葉も及ばないほど、「可愛い赤ん坊」の
手がかりを提供する。(略)かへすがへすも注意すべきことは、自分の赤ん坊の写真なんか、決して人に
見せるものではない、といふことである。

三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より

218 :ナナシズム:2010/04/14(水) 17:42:44 ID:JivqtFvY
私はこの世に生をうけてより、只の一度も赤い羽根を買つたことがない。そのシーズンの盛期に、大都会で、
赤い羽根をつけないで暮すといふ絶大のスリルが忘れられないからだ。赤い羽根をつけないで歩いてごらんなさい。
いたるところの街角で、諸君は、何ものかにつけ狙われてゐる不気味な眼差を感じ、交番の前をよけて通る
おたづね者の心境にひたることができる。自分は狙われてゐるのだといふ、こそばゆい、誇らしい気持に
陶然とすることができる。もし赤い羽根をつけて歩いてごらんなさい。誰もふりむいてもくれやしないから。
冗談はさておき、私は強制された慈善といふものがきらひなのである。(略)
駅の切符売場の前に女学生のセイラー服の垣根が出来てゐて、カミつくやうな、もつとも快適ならざるコーラスが、
「おねがひいたします。おねがひいたします」と連呼する。
私がその前を素通りすると、きこえよがしに、「あの人、ケチね」などといふ。
「アラ、心臓ね」「図々しいわね」と言はれたこともある。

三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より

219 :ナナシズム:2010/04/14(水) 17:43:07 ID:JivqtFvY
これは尤も、通るときの私の態度も悪いので、なるべく悪びれずに堂々とその前をとほるのが、よほど鉄面皮に
見えるらしい。しかし、ただ胸を張つてその前を通るだけのことで、鉄面皮に見えるなら、それだけのことが
できない人は、単なる弱気から、あるひは恥かしさから、醵金箱(きよきんばこ)に十円玉を投じてゐるものと
思はれる。一体、弱気や恥かしさからの慈善行為といふものがあるものだらうか?それなら、人に弱気や
羞恥心を起させることを、この運動が目的にしてゐると云はれても、仕方がないぢやないか?
大体、弱気や恥かしさで、醵金箱にお金を入れる人種といふものは、善良なる市民である。電車で通勤する
人たちがその大半であつて、安サラリーの上に重税で苦しめられてゐる人たちである。さういふ人たちの善良な
やさしい魂を脅迫して、お金をとつて、赤い羽根をおしつける、といふやり方は、どこかまちがつてゐる。

三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より

220 :ナナシズム:2010/04/14(水) 17:43:28 ID:JivqtFvY
もつと弱気でない、もつと羞恥心の欠如した連中ほど、お金を持つてゐるに決つてゐるのだから、おんなじ
脅迫するなら、そつちからいただく方法を講じたらどうだらう。大体、私のやうに、赤い羽根諸嬢の前を
素通りすることで鉄面皮ぶつてゐる男などは甘いもので、もつと本当の鉄面皮は、ひよこひよこそんなところを
歩いてゐるひまなんぞなく、車からビルへ、ビルから車へと、ひたすら金儲けにいそがしいにちがひない。(中略)
本来なら、慈善事業とは、罪ほろぼしのお金で運営すべきものである。さんざん市民の膏血をしぼつて大儲けを
した実業家が、あんまり儲かつておそろしくなり、まさか夜中に貧乏人の家を一軒一軒たづねて、玄関口へ
コッソリお金を置いて逃げるのも大変だから、一括して、せめて今度は罪ほろぼしに、困つてゐる人を助けよう
といふ気で金を出す。これが慈善といふものだ。ところが日本の金持は、政治家にあげるお金はいくらでも
あるのに、社会事業や育英事業に出す金は一文もないといふ顔をしてゐる。(略)

三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より

221 :ナナシズム:2010/04/14(水) 17:43:49 ID:JivqtFvY
ちつとも世間に迷惑をかけず、自分の労働で几帳面に仕入れたお金なんかは、世間へ返す必要は全然ないのである。
無意味な税金を沢山とられてゐる上に、たとへ十円でも、世間へ捨てる金があるべきではない。その上、赤い
羽根なんかもらつて、良心を休める必要もないので、そんな羽根をもらはなくても、ちやんと働らいてちやんと
獲得した金は、十分自分のたのしみに使つて、それで良心が休まつてゐる筈である。
さんざんアクドイことをして儲けた金こそ、不浄な金であるから、世間へ返さなければ、バチが当るといふ
ものである。(中略)
社会保障は、憲法上、国家の責務であつて、国が全責任を負ふべきであり、次にこれを補つて、大金持が金を
ふんだんに醵出すべきであり、あくまでこれが本筋である。しかし一筋縄では行かないのが世間で、(略)
助けられる立場にゐながら、人を助けたい人もある。赤い羽根も無用の強制をやめて、さういふ人たちを
対象に、静かに上品にやつたらいいと思ふ。

三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より

222 :ナナシズム:2010/04/16(金) 12:23:54 ID:yxMDMqYB
一九五九年の、月の裏側の写真は、人間の歴史の一つのメドになり、一つの宿命になつた。
それにしても、或る国の、或る人間の、単一の人間意志が、そのまま人間全体の宿命になつてしまふといふのは、
薄気味のわるいことである。広島の原爆もまた、かうして一人の科学者の脳裡に生れて、つひには人間全体の
宿命になつた。
こんなふうに、人間の意志と宿命とは、歴史において、喰ふか喰はれるかのドラマをいつも演じてゐる。
今まで数千年つづいて来たやうに、(略)人間のこのドラマがつづくことだけは確実であらう。
ただわれわれ一人一人は、宿命をおそれるあまり自分の意志を捨てる必要はないので、とにかく前へ向つて
歩きだせはよいに決つてゐる。

三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)」より

223 :ナナシズム:2010/04/16(金) 12:24:47 ID:yxMDMqYB
現代におけるリリシズムがどんな形をとらねばならぬか、といふことが、現代芸術の一番おもしろい課題だと
私は考へてゐる。リリシズムは、現代において、否定された形、ねぢまげられた形、逆説的な形、敗北し流刑に
処された形、鼻つまみの形、……それらさまざまのネガティヴな形をとらざるをえず、そこから逆に清冽な
噴泉を投射する。もし現代において、リリシズムが一見いかにもこれらしい形をとつてゐたら、それは明らかに
ニセモノだと云つてよい。これが、私の「現代の抒情」の鑑定法である。
細江英公氏の作品が私に強く訴へるのは、氏がこのやうに「現代の抒情」を深くひそませた作品を作るからである。
そこには極度に人工的な制作意識と、やさしい傷つきやすい魂とが、いつも相争つてゐる。薔薇は元来薔薇の
置かれるべきでない場所に置かれて、はじめて現代における薔薇の王権を回復する。

三島由紀夫「細江英公氏のリリシズム――撮られた立場より」より

224 :ナナシズム:2010/04/16(金) 12:25:21 ID:yxMDMqYB
歌には残酷な抒情がひそんでゐることを、久しく人々は忘れてゐた。古典の桜や紅葉が、血の比喩として
使はれてゐることを忘れてゐた。月や雁や白雲や八重霞や、さういふものが明白な肉感的世界の象徴であり、
なまなましい肉の感動の代置であることを忘れてゐた。ところで、言葉は、象徴の機能を通じて、互(かた)みに
観念を交換し、互みに呼び合ふものである。それならば血や肉感に属する残酷な言葉の使用は、失はれた抒情を、
やさしい桜や紅葉の抒情を逆に呼び戻す筈である。春日井氏の歌には、さういふ象徴言語の復活がふんだんに
見られるが、われわれはともあれ、少年の純潔な抒情が、かうした手続をとつてしか現はれない時代に生きてゐる。

三島由紀夫「春日井建氏の『未青年』の序文」より

225 :ナナシズム:2010/04/19(月) 10:47:07 ID:KlW83PUN
現代はいかなる時代かといふのに、優雅は影も形もない。それから、血みどろな人間の実相は、時たま起る
酸鼻な事件を除いては、一般の目から隠されてゐる。病気や死は、病院や葬儀屋の手で、手際よく片附けられる。
宗教にいたつては、息もたえだえである。……芸術のドラマは、三者の完全な欠如によつて、煙のやうに
消えてしまふ。(略)
現代の問題は、芸術の成立の困難にはなくて、そのふしぎな容易さにあることは、周知のとほりである。
それは軽つぽい抒情やエロティシズムが優雅にとつて代はり、人間の死と腐敗の実相は、赤い血のりを
ふんだんに使つたインチキの残酷さでごまかされ、さらに宗教の代りに似非論理の未来信仰があり、といふ
具合に、三者の代理の贋物が、対立し激突するどころか、仲好く手をつなぐにいたる状況である。そこでは、
この贋物の三者のうち、少くとも二者の野合によつて、いとも容易に、表現らしきもの、芸術らしきもの、
文学らしきものが生み出される。かくてわれわれは、かくも多くのまがひものの氾濫に、悩まされることに
なつたのである。

三島由紀夫「変質した優雅」より

226 :ナナシズム:2010/04/19(月) 22:34:16 ID:KlW83PUN
聞くところによると、例の「風流夢譚」掲載のいきさつについて、中央公論の嶋中社長がその掲載を反対した
にもかかはらず、あたかもぼくが圧力かけて掲載させたやうに伝はつてゐるらしいんです。
これはとんでもない誤解で、推薦した事実さへない。第一、新人の原稿ならいざ知らず、深沢さんといへば
一本立ちの作家ですからね、だれそれの推薦なんてあり得ないぢやないですか。世間ではよく、ある出版社の
背後にはこれこれといふ作家がゐて、その作家の言ふことならきく、といふやうな考へを持つ人がゐるらしいが、
それは“編集権”の存在を知らない者の言ふことで、編集権を侵害しないといふモラルは、ぼく自身いつも
守つてきたはずだ。ただ例外があるとすれば、“文学賞”の審査員になつたときくらゐのものだらう。
そのときだつて、技術顧問的な役割で、作品の芸術的な判断以外の社会的な影響にまでは、タッチしないものだ。

三島由紀夫「『風流夢譚』の推薦者ではない――三島由紀夫氏の声明」より

227 :ナナシズム:2010/04/19(月) 22:34:42 ID:KlW83PUN
かういふ事情を知つてゐれば、ぼくが「風流夢譚」を掲載するやうに圧力をかけたなんていふことがナンセンス
だといふことがよくわかるはず。しかし、それにもかかはらずぼくの名が使はれたとすれば、それは一部の者が
苦しまぎれの逃げ口上に使つたのではないか。さう思へば使つた者にも同情の余地があるのだが、迷惑うけるのは
こちらだからね。ともかくふりかかつた火の粉ははらひ落としたいといふのが本音だ。
この際、次第に大きくなる風説――新聞雑誌でもそんな書き方をされてゐるんで――の誤解をときたい……。
(談)

三島由紀夫「『風流夢譚』の推薦者ではない――三島由紀夫氏の声明」より

228 :ナナシズム:2010/04/21(水) 11:03:20 ID:7XjHMJAj
一体、「日本人が何をクリスマスなんて大さわぎをするんだ」といふ議論ほど、月並で言ひ古された議論はなく、
かういふ風にケチをつければ、日本へ輸入された外国の風習で、ケチをつけられないものはあるまい。もともと
クリスマスは宗教の風習化で、宗教のはうは有難く御遠慮申し上げて、何か遊ぶ口実になるたのしさうな
ハイカラな風習のはうだけいただかうといふところに、日本人の伝来の知恵がある。識者の言ふやうに、
日本人が外国人なみ(と云つてもごく少数の信心ぶかい外国人なみ)に、敬虔なるクリスマスをすごすやうな
国民なら、とつくの昔に一億あげてキリスト教に改宗してゐたであらう。ところが日本人の宗教に対する
抵抗精神はなかなかのもので、占領中マッカーサーがあれほど日本のキリスト教化を意図したにもかかはらず、
今以てキリスト教徒は人口の二パーセントに充たぬ実情である。そして肝腎のクリスマスは、商業主義の
ありつたけをつくした酒池肉林の無礼講、あたかも魔宴(サバト)の如きものになつてゐる。

三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より

229 :ナナシズム:2010/04/21(水) 11:03:39 ID:7XjHMJAj
私は日本のクリスマスといふのは、日本にすつかり土着した、宗教臭のない、しかもハイカラなお祭なのだと
思つてゐる。オミコシをかついであばれまはる町内のお祭は、今日ではもう、ごく一部の人のたのしみになつて
しまつた。ミコシをかつぐ若い衆も年々少なくなり、しかもどこの町内でも、ミコシかつぎが愚連隊に占領
されるおそれがあるので、折角のオミコシを出さないところもふえて来た。
こんな町内のお祭以外には、紀元節も天長節も失つた民衆は、文化の日だのコドモの日だのといふ官製の
舌足らずの祭日を祝ふ気にはなれない。そこで全然官製臭のない唯一のお祭であるクリスマスをたのしむやうに
なつたのはもつともである。

三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より

230 :ナナシズム:2010/04/21(水) 11:03:57 ID:7XjHMJAj
半可通の「文化人」がにやけたベレーをかぶつて、パリの貧乏生活の思ひ出をたのしむ巴里祭などより、
どれほどクリスマスのはうが威勢がよいかわからない。それに例の「ジングル・ベル」の音楽も、今では、
「ソーラン節」や「おてもやん」程度には普及してきたのである。(中略)
一昨々年は、ニューヨークで、三軒ほどの私宅によばれて、清教徒的クリスマス、インテリ的クリスマス、
デカダン的クリスマス、と三様のクリスマス・パーティーを味はつたが、清教徒的家庭的健康的クリスマスの
つまらなさはお話にならず、いい年をした大人が、合唱したり、遊戯をしたり、安物のプレゼントをもらつて
よろこんだりする、田舎教会的雰囲気は、とても私ごとき人間には堪へられるところではなかつた。よく外国へ
行つたら家庭に招かれて、家庭のクリスマスを味はふべきだ、などと言ふ人があるが、そんな話はマユツバ物である。
クリスマスを口実に、淡々と呑んだり踊つたりといふのが、世界共通の大人のクリスマスといふのだらう。

三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より

231 :ナナシズム:2010/04/21(水) 11:04:44 ID:7XjHMJAj
…クリスマスは、キリスト教においても、本当は異教起源のお祭で、ローマの冬至の祭、サトゥルヌス祭の
馬鹿さわぎに端を発し、収納祭の農業的行事であつた。それを考へると、日本人がクリスマスを、その正しい
起源においてとらへて、ただのバカさわぎに還元してしまつたといふ点では、日本人の直観力は大したものである。
しかも、誠心誠意、このバカさわぎ行事に身を捧げて、有楽町駅の階段に醜骸をさらすほど、古代ローマの神事に
忠実な例は、あんまり世界にも類例を見ないのである。これもキリスト教に毒されなかつた御利益といふべきか。
ところが私には、妙な気取りがあつて、祭のオミコシをかついだ経験から言ふのだからまちがひないが、日本の
祭のミコシなら、ねぢり鉢巻でかつぎまはつて、恥も外聞もかまはずにゐられるのに、クリスマスといふ
ハイカラなお祭には、そのハイカラが邪魔をして、どうもそこまで羽目を外す気にはならないのである。
日本にゐて外国の祭にウツツを抜かすといふことに、何となく抵抗を感じる。「クリスマス、クリスマス」と
喜ぶのが何だか気恥かしいのである。(略)

三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より

232 :ナナシズム:2010/04/21(水) 11:05:10 ID:7XjHMJAj
ところで文化人知識人といふヤカラは、安保デモではプラカードをかつぎ、巴里祭にはベレーをかぶり、
クリスマスには銀座のバア歩きもやるくせに、どうして、日本のオミコシをかつがうとしないのであらう。
そこのところが、どうしても私にはわからない。
多分ハイカラ知識人は肉体的に非力で、オミコシなんか重くてかつげないものだから、軽いプラカードを
かついでゐるのではなからうか。あれなら子供ミコシほどの目方もありはしない。
クリスマスも、日本の神事祭事に比べて、ただ目方が軽いから、ここまで普及したのではあるまいか。日本の
祭には、たのしいだけでなく、若い衆に苦行を強制する性格があるからである。お祭といふのは、本当はもつと
苦しいものである。苦しいからあばれるのである。もつとも、年末は丁度借金取の横行するシーズンで、
形のある重いオミコシよりも、無形の借金の重さを肩にかついで、やけつぱちで呑みまはりさわぎまはる
「苦シマス」が、日本的クリスマスの本質なのかもしれない。

三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より

233 :ナナシズム:2010/04/23(金) 11:14:34 ID:iud5Pxl3
この間伊豆の田舎の漁村へ取材に行つてゐて、その村のたつた一軒の宿に泊り、夕食に出された新鮮な魚が、
ほつぺたが落ちるほど美味しかつたが、一晩泊つてみてびつくりした。別に化物が出たといふ話ではない。
ここは昔ながらの旅籠屋で、襖一枚で隣室に接してゐるわけであるが、前の晩の寝不足を取り戻さうと思つて、
九時ごろ床についたのがいけなかつた。(中略)
又眠らうと寝返りを打つたとたん、隣りの部屋へドヤドヤと人が入つて来て、酒宴がはじまつた。と、それに
まじつてトランジスター・ラヂオの大音声の流行歌がはじまつたが、ラヂオをかけながらの酒宴といふのも
へんなものだと思ふうちに、それがもう一つ向うの部屋のものだとわかつた。
更に別の部屋からは、火のつくやうな赤ん坊の泣き声。……夜十時といふころ、宿全体が鷄小屋をつつついた
やうな騒ぎになつてしまつた。

三島由紀夫「プライヴァシィ」より

234 :ナナシズム:2010/04/23(金) 11:14:53 ID:iud5Pxl3
やつと静まつたのが十二時すぎだつたが、それがピタリと静まるといふのではない。しばらく音がしないで、
寝静まつたかなと思ふと、連中は風呂へ行つてゐたので、風呂からかへると、又寝る前に一トさわぎがある。
西瓜の話ばかりなので、商売は何の人だらうと思つたらあとできいたら果して西瓜商人であつた。
一時すぎにやつと眠りについて、朝五時をまはつたころ、村中にひびきわたるラウド・スピーカアの一声に
眠りを破られた。
「第八〇〇丸の乗組員の皆様、朝食の仕度ができましたから、船までとりに来て下さい」
それから間もなく静かになつて、又眠りに落ちこむと、今度はラヂオ体操がスピーカアから村中に放たれた。

三島由紀夫「プライヴァシィ」より

235 :ナナシズム:2010/04/23(金) 11:15:13 ID:iud5Pxl3
(中略)――かうして一日たち二日たつた。
最初の一夜は、「これは大変だ」と思つたのに、馴れといふものは怖ろしいものである。二日目にはもう隣室の
話し声は気にならず、トラックやバスの響きに眠りを破られることがなくなつた。三日目になると完全にコツを
おぼえ、宿中全員が寝静まらぬうちは眠らぬことにきめ、女中を呼ぶにも大音声を張りあげ、食事がおそい
ときは、「おそいぞ!」と怒鳴り、よその子供がバタバタ廊下をかけまはれば、「うるさいぞ!」と怒鳴つて、
夜寝不足ならば十分昼寝をし、ほぼ快適な生活を送れるやうになつた。
――それはさておき、かりにも都会で、プライヴァシィを重んずる「近代的」生活を、生活だと思ひ込んでゐる
人間には、人の迷惑などを考へずにのびのびと暮してゐるかういふ旧式の日本人の生活は、おどろくべきもので
あつた。都会なら、となりのうるさいラヂオを容赦しないが、ここではラヂオはすべて音の競争であつて、
隣りのラヂオがうるさかつたら、家のラヂオの音をもつと大きくすればそれですむのである。

三島由紀夫「プライヴァシィ」より

236 :ナナシズム:2010/04/23(金) 11:15:32 ID:iud5Pxl3
みんながそれに馴れ、何の苦痛も感じないなら、人間の生活はそれで十分なので、何も西洋のプライヴァシィを
真似なくてもいい。西洋の冷たい個室の、完全なプライヴァシィの保たれた生活の裏には、救ひやうのない
孤独がひそんでゐるのである。(中略)
そこへ行くと、日本の漁村の宿の明朗闊達はおどろくばかりで、人間が、他人の生活に無関心に暮すためには、
何も厚いコンクリートの壁で仕切るばかりが能ではなく、薄い襖一枚で筒抜けにして、免疫にしてしまつた
はうが賢明なのかもしれない。(略)
しかし、この昔風の旅籠屋が、襖一枚の生活を強制するのが、昔を偲ばせて奥床しいとは云ひながら、それが
そのまま昔風とは云ひがたい。何故なら、江戸時代には、人はもう少し小声で話したにちがひないし、怪音を
発するトランジスター・ラヂオなんか、持つてゐなかつたからである。

三島由紀夫「プライヴァシィ」より

237 :ナナシズム:2010/04/23(金) 11:38:42 ID:iud5Pxl3
格の正しい、しかも自由な踊りを見るたびに、私は踊りといふもののふしぎな性質に思ひ及ぶ。無音舞踊といふ
のもないではないが、踊りはたいがい、音楽と振り付けに制約されてでき上がつてゐる。いかに自由に見える
踊りであつても、その一こま一こまは、厳重に音楽の時間的なワクと振り付けの空間的なワクに従つてゐる。
その点では、自由に生きて動いて喋つてゐるやうに見える人物が、実はすべて台本と演出の指定に従つてゐる
他の舞台芸術と同じことだが、踊りのその音楽への従属はことさら厳格であり、また踊りにおける肉体の動きの
自由と流露感は、ことさら本質的なのである。
よい踊りの与へる感銘は、観客席にすわつて、黙つて、口をあけて、感嘆してながめてゐるだけのわれわれの
肉体も、本来こんなものではなかつたかと感じさせるところにある。

三島由紀夫「踊り」より

238 :ナナシズム:2010/04/23(金) 11:39:16 ID:iud5Pxl3
踊り手が瞬間々々に見せる、人間の肉体の形と動きの美しさ、その自由も、すべての人間が本来持つてゐて
失つてしまつたものではないかと思はせるとき、その踊りは成功してをり、生命の源流への郷愁と、人間存在の
ありのままの姿への憧憬を、観客に与へてゐるのである。
なぜ、われわれの肉体の動きや形は、踊り手に比べて、美、自由、柔軟性、感情表現、いやすべての自己表現の
能力を失つてしまつたのであらうか。なぜ、われわれは、踊り手のあらはす美と速度に比べて、かうも醜く、
のろいのであらうか。これは多分、といふよりも明らかに、われわれの信奉する自由意思といふもののため
なのである。自由意思が、われわれの肉体の本来持つてゐた律動を破壊し、その律動を忘却させたのだ。
それといふのも、踊り手は音楽と振り付けの指示に従つて、右へ左へ向く。しかしわれわれは自由意思に従つて、
右へ向き左へ向く。結果からいへば同じことだが、意思と目的意識の介入が、その瞬間に肉体の本源的な律動を
破壊し、われわれの動きをぎくしやくとしたものにしてしまふ。

三島由紀夫「踊り」より

239 :ナナシズム:2010/04/23(金) 11:39:45 ID:iud5Pxl3
のみならず、何らかの制約のないところでは、無意識の力をいきいきとさせることができないのは、人間の
宿命であつて、自由意思の無制約は、人間を意識でみたして、皮肉にも、その存在自体の自由を奪つてしまふのだ。
踊りは人間の歴史のはじめから存在し、かういふ肉体と精神の機微をよくわきまへた芸術であつた。武道も
もともとは、戦ひの技術を会得するために、まづ肉体に厳重な制約を課して、無意識の力をいきいきとさせ、
訓練のたえざる反復によつて、その制約による技術を無意識の領域へしみわたらせ、いざといふ場合に、
無意識の力を自由に最高度に働かせるといふ方法論を持つてゐるが、踊りに比べれば、その目的意識が、
純粋な生命のよろこびを妨げてゐる。

三島由紀夫「踊り」より

240 :ナナシズム:2010/04/23(金) 11:40:12 ID:iud5Pxl3
踊りはよろこびなのである。悲しみの表現であつても、その表現自体がよろこびなのである。踊りは人間の
肉体に音楽のきびしい制約を課し、その自由意思をまつ殺して、人間を本来の「存在の律動」へ引き戻すもの
だといへるだらう。ふしぎなことに、人間の肉体は、時間をこまごまと規則正しく細分し、それに音だけによる
別様の法則と秩序を課した、この音楽といふ反自然的な発明の力にたよるときだけ、いきいきと自由になる。
といふことは、音楽の法則性自体が、一見反自然的にみえながら、実は宇宙や物質の法則性と遠く相呼応して
ゐるかららしい。そこに成り立つコレスポンデンス(照応)が、おそらく踊りの本質であつて、われわれは
かういふコレスポンデンスの内部に肉体を置くときのほかは、本当の意味で自由でもなく、また、本当の生命の
よろこびも知らないのだ、としかいひやうがない。

三島由紀夫「踊り」より

241 :ナナシズム:2010/04/23(金) 11:40:42 ID:iud5Pxl3
…ずいぶん話が飛んだやうだが、実は私は、新年といふ習慣も、この踊りの一種であるべきであり、新春の
よろこびも、この踊りのよろこびであるべきだといひたかつたのである。
新しい年の抱負などと考へだした途端に、われわれの自由意思は暗い不安な翼をひろげ、未来を恐怖の影で
みたしてしまふ。未来のことなどは考へずに踊らねばならぬ。たとへそれが噴火山上の踊りであらうと、
踊り抜かねばならぬ。いま踊らなければ、踊りはたちまちわれわれの手から抜け出し、われわれは永久に
よろこびを知る機会を失つてしまふかもしれないのである。

三島由紀夫「踊り」より

242 :ナナシズム:2010/04/24(土) 12:00:31 ID:qlI/DKxM
子供のころの私は、寝床できく汽車の汽笛の音にいひしれぬ憧れを持ち、ほかの子供同様一度は鉄道の機関士に
なつてみたい夢を持つてゐたが、それ以上発展して、汽車きちがひになる機会には恵まれなかつた。今も昔も、
私がもつとも詩情を感じるのは、月並な話だが、船と港である。
このごろはピカピカの美しい電車が多くなつたが、汽車といふには、煤(すす)ぼけてガタガタしたところが
なければならない。さういふ真黒な、無味乾燥な、古い箪笥のやうなきしみを立てる列車が、われわれが眠つて
ゐるあひだも、大ぜいの旅客を載せて、窓々に明るい灯をともして、この日本のどこか知らない平野や峡谷や
海の近くなどいたるところを、一心に煙を吐いて、汽笛を長く引いて、走りまはつてゐる、といふのでなければ
ならない。なかんづくロマンチックなのは機関区である。夜明けの空の下の機関区の眺めほど、ふしぎに美しく
パセティックなものはない。

三島由紀夫「汽車への郷愁」より

243 :ナナシズム:2010/04/24(土) 12:01:03 ID:qlI/DKxM
空に朝焼けの兆があれば、真黒な機関車や貨車の群が秘密の会合のやうに集ひ合ふ機関区の眺め、朝の最初の
冷たい光りに早くも敏感にしらじらと光り出す複雑な線路、そしてまだ灯つてゐる多くの灯火などは、一そう
悲劇的な美を帯びる。
かういふ美感、かういふ詩情は、一概に説き明すことがむづかしい。ともかくそこには古くなつた機械に対する
郷愁があることはまちがひがない。少くとも大正時代までは、人々は夜明けの機関区にも、今日のわれわれが
夜明けの空港に感じるやうな溌剌とした新らしい力の胎動を感じたにちがひない。(中略)
機械といふものが、すべて明るく軽くなる時代に、機関区に群れつどふ機関車の、甲虫のやうな黒い重々しさが、
又われわれの郷愁をそそるのである。頼もしくて、鈍重で、力持ちで、その代り何らスマートなところの
なかつた明治時代の偉傑の肖像画に似たものを、古い機関車は持つてゐる。もつと古い機関車は堂々と
シルクハットさへ冠つてゐた。

三島由紀夫「汽車への郷愁」より

244 :ナナシズム:2010/04/24(土) 12:01:38 ID:qlI/DKxM
しかし夜明けの機関区の持つてゐる一種悲劇的な感じは、それのみによるものではない。産業革命以来、
近代機械文明の持つてゐたやみくもな進歩向上の精神と勤勉の精神を、それらの古ぼけた黒い機関車や貨車が、
未だにしつかりと肩に荷つてゐるといふ感じがするではないか。それはすでにそのままの形では、古くなつた
時代思潮ともいへるので、それを失つたと同時に、われわれはあの時代の無邪気な楽天主義も失つてしまつた。
しかし人間より機械は正直なもので、人間はそれを失つてゐるのに、シュッシュッ、ポッポッと煙をあげて
今にも走り出しさうな夜明けの機関車の姿には、いまだに古い勤勉と古い楽天主義がありありと生きてゐる。
それを見ることがわれわれの悲壮感をそそるともいへるだらう。そしてそこに、私は時代に取り残された無智な
しかし力強い逞ましい老人の、仕事の前に煙草に火をつけて一服してゐる、いかつい肩の影までも感じとるのである。

三島由紀夫「汽車への郷愁」より

245 :ナナシズム:2010/04/24(土) 12:02:00 ID:qlI/DKxM
それは淋しい影である。しかしすべてが明るくなり、軽快になり、快適になり、スピードを増し、それで世の中が
よくなるかといへば、さうしたものでもあるまい。飛行機旅行の味気なさと金属的な疲労は、これを味はつた
人なら、誰もがよく知つてゐる。いつかは人々も、ただ早かれ、ただ便利であれ、といふやうな迷夢から、
さめる日が来るにちがひない。「早くて便利」といふ目標は、やはり同じ機械文明の進歩向上と勤勉の精神の
帰結であるが、そこにはもはや楽天主義はなく、機械が人間を圧服して勝利を占めてしまつた時代の影がある。
だからわれわれは蒸気機関車に、機械といふよりもむしろ、人間的な郷愁を持つのである。

三島由紀夫「汽車への郷愁」より

246 :ナナシズム:2010/04/25(日) 17:31:27 ID:???
>>1さん
いつも拝見しております。
これからも三島由紀夫の魂、伝えてください。
それでは。

247 :ナナシズム:2010/04/26(月) 00:01:35 ID:tflkfo0A
>>246
閲覧ありがとう。また覗いて下さいね。

248 :ナナシズム:2010/04/27(火) 11:40:59 ID:AKSI1XBf
まことに小鳥の死はその飛翔の永生を妨げることはできない。中絶はたゞ散歩者が何気なく歩みを止めるやうに
意味のない刹那にすぎない。喪失がありありと証ししてみせるのは喪失それ自身ではなくして輝やかしい存在の
意義である。喪失はそれによつて最早単なる喪失ではなく喪失を獲得したものとして二重の喪失者となるのである。
それは再び中絶と死と別離と、すべて流転するものゝ運命をわが身に得て、欣然輪廻の行列に加はるのである。
別離が抑(そもそも)何であらうか。歴史は別離の夥しい集積であるにも不拘(かかはらず)、いつも逢着
として、生起として語られて来たではないか。会者必離とはその裏に更に生々たる喜びを隠した教へであつた。
別離はたゞ契機として、人がなほ深き場所に於て逢ひ、なほ深き地に於て行ずるために、例へていはゞ、
池水が前よりも更に深い静穏に還るやうにと刹那投ぜられた小石にすぎない。それはそれより前にあつたものゝ
存在の意義を比喩としつゝ、それより後に来るものゝ存在を築くのである。即ち別離それ自体が一層深い意味に
於ける逢会であつた。私は不朽を信ずる者である。

平岡公威(三島由紀夫)20歳「別れ」より

249 :ナナシズム:2010/05/07(金) 16:19:20 ID:ylSLQAlh
三島:…少なくとも自民党が危ないときになって国民投票をやったとします。そうしてウイかノンかといのを
国民に問うたとします。できることは、安保賛成(ウイ)か安保反対(ノン)かどっちかしかない。
安保賛成というのは、はっきりアメリカですね。安保反対というのはソビエトか中共でしょう。日本人に向かって
おまえアメリカをとるか、ソビエトをとるか中共をとるかといったら、僕はほんとうの日本人だったら態度を
保留すると思うんですね。日本はどこにいるんだ。日本は選びたいんだ、どうやったら選べるんだ。
これはウイとノンの本質的意味をなさんと思うんですよ。
…まだ日本人は日本を選ぶんだという本質的な選択をやれないような状況にいる。
これで安保騒動をとおり越しても、まだやれないんじゃないかという感じがしてしようがない。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

250 :ナナシズム:2010/05/07(金) 16:20:00 ID:ylSLQAlh
三島:それで去年の夏、福田赳夫さんと会ったときに、
「自民党は安保条約と刺しちがえて下さいよ」と言ったんですよ。私が大きなことを言うようですが、
私の言う意味は、自民党はやはり歴史的にそういう役割を持っている、自民党は西欧派だと思うんです。
西欧派は西欧派の理念に徹して、そこでもって安保反対勢力と刺しちがえてほしい。
その次に日本か、あるいは日本でないかという選択を迫られるんであるというふうに言ったことがある。
いま右だ左だといいましても、安保賛成が右なのかということは、いえないと思うんです。
安保賛成も一種の西欧派ですよ。安保反対はもちろん外国派です。
そうすると国粋派というのは、そのどっちの選択にも最終的には加担していないですよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

251 :ナナシズム:2010/05/07(金) 16:20:26 ID:ylSLQAlh
三島:ですからナショナリズムの問題が日本では非常にむずかしくなりまして、私が思うのに、
いま右翼というものが左翼に対して、ちょっと理論的に弱いところがあるのは、われわれ国粋派というのは、
ナショナリズムというものが、九割まで左翼に取られた。
だって米軍基地反対といったって、イデオロギー抜きにすれば、だれだってあまりいい気持ちではない。
それからアメリカは沖縄を出て行け、沖縄は日本のものであったほうがいい、なにを言ったところで、
左翼にとってみれば、どこかで多少ナショナリズムにひっかかっているから広くアピールする。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

252 :ナナシズム:2010/05/07(金) 16:20:58 ID:ylSLQAlh
三島:そうして私は、ナショナリズムは左翼がどうしても取れないもの――九割まで取られちゃったけれども、
どうしても取れないもの、それにしがみつくほかないと信じている。だから天皇と言っているんです。
もちろん天皇は尊敬するが、それだけが理由じゃない。ナショナリズムの最後の拠点をぐっとにぎって
いなければ取られちゃいますよ。そうして日本中が右か左の西欧派(ナショナリズムの仮面をかぶった)になっちゃう。
林:(中略)僕は今の左翼の“ナショナリズム”は発生が外国指令だと思う。
いくら彼らに教えても反米はできるが反ソ、反中共はできない。したがって尊王ということは、彼らにとっては、
もってのほかです。(中略)
三島:(中略)やつらは天皇、天皇といえばのむわけないです。
のむわけないから、やつらから天皇制打倒というのを、もっと引出したいですよ。(中略)
これをもっとやつらから引出さなければならない。
やつらのいちばんの弱味を引き出してやるのが、私は手だと思っているんですがね。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

253 :ナナシズム:2010/05/13(木) 11:27:34 ID:HH4PcOLZ
天地の混沌がわかたれてのちも懸橋はひとつ残つた。さうしてその懸橋は永くつづいて日本民族の上に永遠に
跨(またが)つてゐる。これが神(かん)ながらの道である。こと程さ様に神ながらの道は、日本人の
「いのち」の力が必然的に齎(もたら)した「まこと」の展開である。(中略)
神ながらの道に於ては神の世界への進出は、飛躍を伴はぬのである。そして地上の発展そのものがすでに神の
世界への「向上」となつてゐるのである。かるが故に「神ながらの道」は地上と高天原との懸橋であり得るのである。
神ながらの道の根本理念であるところの「まことごゝろ」は人間本然のものでありながら日本人に於て最も
顕著に見られる。それは豊葦原之邦(とよあしはらのくに)の創造の精神である。この「土」の創造は一点の
私心もない純粋な「まことごゝろ」を以てなされた。

平岡公威(三島由紀夫)16歳「惟神(かんながら)之道」より

254 :ナナシズム:2010/05/13(木) 11:28:05 ID:HH4PcOLZ
「まことごゝろ」は又、古事記を貫ぬき万葉を貫ぬく精神である。鏡――天照大神(あまてらすおほみかみ)に
依つて象徴せられた精神である。すべての向上の土台たり得べき、強固にして美くしい「信ずる心」であり
「道を践(ふ)む心」である。虚心のうちにあはされた澎湃(はうはい)たる積極的なる心である。かゝる
積極と消極との融合がかもしだしたたぐひない「まことごゝろ」は、又わが国独特の愛国主義をつくり出した。
それは「忠」であつた。忠は積極のきはまりの白熱した宗教的心情であると同時に、虚心に通ずる消極の
きはまりであつた。
かゝる「忠」の精神が「神ながらの道」をよびだし、又「神ながらの道」が忠をよびだすのである。かくて
神ながらの道はすべての道のうちで最も雄大な、且つ最も純粋な宗教思想であり国家精神であつて、かくの如く
宗教と国家との合一した例は、わが国に於てはじめて見られるのである。

平岡公威(三島由紀夫)16歳「惟神(かんながら)之道」より

255 :ナナシズム:2010/05/20(木) 11:27:04 ID:jb9I2OLJ
私は事文化に関しては、あらゆる清掃、衛生といふ考へがきらひである。蠅のゐないところで、おいしい料理が
生まれるわけがない。アメリカ文化を貧しくさせたものは、清教徒主義と婦人団体であつて、日本精神は
もつともつと性に関して寛容なのである。日本文化の伝統は、性的な事柄に関する日本的寛容の下に
発展してきたものである。

三島由紀夫「『黒い雪』裁判」より

256 :ナナシズム:2010/05/20(木) 11:27:29 ID:jb9I2OLJ
(中略)
いくら「黒い雪」が穢らしくても、偽善よりはよほどマシである。映画も芸術の一種として、芸術のよいところは、
そこに呈示されてゐるものがすべてだといふことだ。芸術は、よかれあしかれ、露骨な顔をさらけ出してゐる。
それをつかまへて「お前は露骨だ」といふのはいけない。要するに、国家権力が人間の顔のよしあしを
判断することは遠慮すべきであるやうに、やはり芸術を判断するには遠慮がちであるべきである、といふのが
私の考へである。それが良識といふものであり、今度の判決はその良識を守つた。
この一線が守られないと、芸術に清潔なウットリするやうな美しさしか認めることのできない女性的暴力によつて、
いつかわが国の芸術は蹂躙されるにいたるであらう。われわれは、二度と西鶴や南北を生むことができなくなるであらう。

三島由紀夫「『黒い雪』裁判」より

257 :ナナシズム:2010/05/21(金) 22:12:31 ID:8/KNwaQz
インターネットは誰も彼もがすぐかっとなる空間になってしまった
言霊を使用した以上三島由紀夫にも一定の責任がある
三島由紀夫は生きているものと考え今後一切の墓参りはしない

258 :ナナシズム:2010/05/23(日) 23:03:11 ID:yrZ0NuHs
☆三島由紀夫の主義・主張★

日本人なら、ホモになって、天皇陛下万歳を叫ぶべきだ。じゃないかね?

お断りする。

259 :ナナシズム:2010/05/27(木) 05:30:00 ID:???
>>257
一定の責任も糞も無い。
これは必然なのである。
そして三島由紀夫は神になったのであり死を超越した「真人」なる存在。

260 :ナナシズム:2010/06/02(水) 17:52:13 ID:Gpolw9/K
新聞の持つてゐる社会的正義感といふものには、ときどき反撥を感じることがある。
だれでもみづから美徳の代表者を買つて出れば、サンザンな目に会ふのが当節で、新聞だけが、何の傷も
負はずに社会的正義の代表者たりうるはずがないからである。また、いろいろと虚偽の多い時代に、新聞が、
子供も読むものだといふので、ともすると家庭ダンラン趣味、事なかれの小市民趣味に美的倫理的基準を
置くのも困る。みにくいものは、みにくいままに報道してほしい。
戦争中の大本営発表以来、新聞は一たん信用をなくしたが、こんどあんなことがあるときは、新聞はこんどこそ、
最後までグヮンばつて抵抗するだらうといふことを我々は期待してゐる。この期待を裏切らないでほしい。
某紙の新聞批判に「新聞を愛すればこそ批判するのだ」と言訳がついてゐたが、いやしくも批評をするのに、
こんな言訳を要するやうな空気がもしあるならば、それを払拭されんことをのぞむ。

三島由紀夫「ありのままの報道を――私の新聞評」より

261 :ナナシズム:2010/06/14(月) 11:03:07 ID:BYOGVwL4
日本人は絶対、民主主義を守るために死なん。ぼくはアメリカ人にも言うんだけど、
「日本人は民主主義のために死なないよ」と前から言っている。今後もそうだろうと思う。

三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より


何を守ればいいんだと。ぼくはね、結局文化だと思うんだ。本質的な問題は。というのはね、
やっぱりキリスト教対ヘレニズムというようなもんなんだよ。いまわれわれが当面している問題は。
結局ね、世界をよくしようとか、未来を見ようとかいう考えと、それから、未来は
ないんだけれども、文化というものがわれわれのからだにあるんだという考えと、
その二つの対立だよ。

三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より


「文化を守る」ということは、「おれを守る」ということだよ。

三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

262 :ナナシズム:2010/06/14(月) 11:03:26 ID:BYOGVwL4
十年、五十年単位の考えは、絶対に必要なことだ。なぜかというと、十年、五十年と考えると、
今日始めなきゃだめなんだよ。だから一番緊急なことなんだよ。

三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より


一番長い経過を要する仕事を今日始めて、そしてあしたはだね、三年先のことを始める
というのが、ぼくは一番現実的な考えだと思うね。

三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

263 :ナナシズム:2010/06/14(月) 11:03:46 ID:BYOGVwL4
ぼくは文化というものはね、変な比喩だが、金とおんなじことだと思う。とにかく、
あぶないときにどっかに置いておかなければ、いつもこわされちゃう。こんなもろい、
こんなものはない。僕はいわば文化の金本位制論者だ。
日本では、昔から金について一番もろくて弱かった独占資本的財閥、戦前のそういう連中はね、
どんなインテリよりもぼくは、実際に敏感だったと思いますよ。それは昭和の歴史を見ても
よくわかりますがね。文化人というのはいつものんきなんだが、資本家が金をこわがるように、
どうして文化人は文化というものの、もろさ、弱さ、はかなさ、というものを感じないんだろうかね。

三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

264 :ナナシズム:2010/06/14(月) 11:04:04 ID:BYOGVwL4
いまでもぼくは、文化というものは、ほんとにどんな弱い女よりもか弱く、どんな
破れやすい布よりも破れやすい、もう手にそうっと持ってにゃならんのだと思いますね。
そっからすべてものの危機感がくるんだし、それで、そのためには自分のからだを
投げ出してもいいと思うしね。

三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より


文化がどんなに変様されて、歪曲されても、生きのびるほど強いもんだということは結果論です。

三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

265 :ナナシズム:2010/06/14(月) 11:04:21 ID:BYOGVwL4
天皇はあらゆる近代化、あらゆる工業化によるフラストレーションの最後の救世主として、
そこにいなけりゃならない。それをいまから準備していなければならない。それは
アンティエゴイズムであり、アンティ近代化であり、アンティ工業化であるけど、決して
古き土地制度の復活でもなければ、農本主義でもない。(中略)
天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところに
あるべきだ。そういう意味で、天皇は尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。
その根元にあるのは、とにかく「お祭」だ、ということです。天皇がなすべきことは、
お祭、お祭、お祭、お祭、――それだけだ。これがぼくの天皇論の概略です。

三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

266 :ナナシズム:2010/06/14(月) 11:05:52 ID:BYOGVwL4
エリザベスは、亭主が自分の部屋に電話を引いたり、テレビをつけたり、ボタンを押すと
飛び上がる椅子をつけたりするのに、自分は、まだ十八世紀のお茶の作法で、百メートル先から
女官たちが手から手へつないだお茶を持って来て、冷えたお茶を飲んでいる。
自分の部屋には電話がない。ぼくは、そういうことが天皇制だろうと思うんです。
日本の皇室がその点でわれわれを納得させる存在理由は日ましに稀薄になっている。
つまりわれわれが近代化の中でこれだけ苦しんで、どこかでお茶を十八世紀の作法で
飲んでいる人がいなければ、世界は崩壊するんだよ。

三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

267 :ナナシズム:2010/06/14(月) 11:06:09 ID:BYOGVwL4
世界の行く果てには、福祉国家の荒廃、社会主義国家の嘘しかないとなれば、何がほしいだろう。
それはカソリックならカソリックかもしれない。だけど、日本の天皇というのはいいですよ。
頑張ってれば世界的なモデルケースになれると思う。それが八紘一宇だと思うんだよ。

三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

268 :ナナシズム:2010/06/16(水) 10:55:22 ID:kI73MaMW
私は民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛清はつきものだと思っております。
共産主義の粛清のほうが数が多いだけ、始末が悪い。暗殺のほうは少ないから、シーザーの
昔から、殺されたのは一人で、六十万人が一人に暗殺されたなんて話は聞いたことがない。
これは虐殺であります。(中略)
たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配が
なかったら、いくらでも嘘がつける。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より


大体政治の本当の顔というのは、人間が全身的にぶつかり合い、相手の立場、相手の思想、
相手のあらゆるものを抹殺するか、あるいは自分が抹殺されるか、人間の決闘の場であります。
それが言論を通じて徐々に徐々に高められてきたのが政治の姿であります。
しかしこの言論の底には血がにじんでいる。そして、それを忘れた言論はすぐ偽善と嘘に
堕することは、日本の立派な国会を御覧になれば、よくわかる。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

269 :ナナシズム:2010/06/16(水) 10:55:41 ID:kI73MaMW
私が一番好きな話は、多少ファナティックな話になるけれども、満州でロシア軍が
入ってきたときに――私はそれを実際にいた人から聞いたのでありますが――在留邦人が
一ヵ所に集められて、いよいよこれから武装解除というような形になってしまって、
大部分の軍人はおとなしく武器を引き渡そうとした。その時一人の中尉がやにわに
日本刀を抜いて、何万、何十万というロシア軍の中へ一人でワーッといって斬り込んで行って、
たちまち殴り殺されたという話であります。
私は、言論と日本刀というものは同じもので、何千万人相手にしても、俺一人だというのが
言論だと思うのです。一人の人間を大勢で寄ってたかってぶち壊すのは、言論ではなくて、
そういうものを暴力という。つまり一人の日本刀の言論だ。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

270 :ナナシズム:2010/06/16(水) 10:55:57 ID:kI73MaMW
初めから妥協を考えるような決意というものは本物の決意ではないのです。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より


私は、暗殺者が必ずあとですぐに自殺するという日本の伝統はやはり武士(さむらい)の
道だと思っている。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

271 :ナナシズム:2010/06/16(水) 10:56:14 ID:kI73MaMW
人間が一対一で決闘する場合には、えらい人も、一市民もない。そこに民主主義の原理が
あるのだと私は考える。
だから、政治というものはいずれにしろ激突だ。そして激突で一人の人間が一人の人間を
許すか、許さないか、ギリギリ決着のところだ。それが暗殺という形をとったのは
不幸なことではあるけれども、その政治原理の中にそういうものが自ずから含まれている。
もしそうでなければ、諸君が選挙の投票場へ行って投ずる一票に何の意味がありますか。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より


民主主義なんて甘いものじゃない。これをどうやって純粋民主主義に近づけるかなんて、
いつまでたっても無駄なんだ。人間は汚れている。汚れている中で相対的にいいものを
やろうというのが民主主義なんだ。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

272 :ナナシズム:2010/06/23(水) 10:25:32 ID:uueie6Y+
未来ということを考える暇がないほど現在の時点における自分の存在の中に、連綿たる
過去の日本の文化伝統と日本人の長い民族的蓄積とが、太古以来ずっと続いている、
その一番ラストに自分はいるんだ、自分が滅びたらもうお終いなんだ、自分は
日本というものの一番の精髄をになってここにいま立って、そこで自分は終るのだ。
そういうことがなければ、ぼくは人間の最終的な誇り、日本人としての最終的な誇りは
持てないと思います。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

273 :ナナシズム:2010/06/23(水) 10:26:28 ID:uueie6Y+
未来を所有しているのは老人の特徴で、未来を所有しないのが青年の特徴である。(中略)
青年は未来に対してあらゆる可能性があるように見えるかわりに、未来を何一つ所有しない。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より


言論自由下の社会主義なんていうものを夢見ているとあぶないんだ。
…もし美しき社会主義を夢見れば醜き社会主義にやられてしまうんだ。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

274 :ナナシズム:2010/06/23(水) 12:09:00 ID:uueie6Y+
テレビの場合、ぼくらは実にニュース取材というのは困るんです。うっかり映像を出すと、
映像にウソはつけない。私がカメラの前に立つ、何かをしゃべる。何かをやる、それを
フィルムではどうにでもなるということですね。しまいにちょっとしたコメントリィを
つけて「……と三島は意気揚々、過激な言論を吐いて高笑いをしていた」なんていわれたら、
これはもうマンガになっちゃう(笑)
マンガにされるのも悲劇にされるのも、みんな向こう様の自由。ですから言論の自由にしろ、
偏向にしろ、われわれは実に微妙なところで生きているということです。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

275 :ナナシズム:2010/06/23(水) 12:10:38 ID:uueie6Y+
清らかなものはそっとしておきたいって気持ちがとても強いんだけれども、清らかの
まわりには濁流がうずまいている。われわれが清らかなものをもとうとすると、
清らかなものだけもっていたら、どんどん押流されてしまう。エロティックというのは
清らかなものの中にもあるんだ。

三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より

276 :ナナシズム:2010/06/23(水) 12:28:47 ID:uueie6Y+
僕は理論なんか根底的に必要じゃないと思うんです。根底的には誠だけでいいんですよ。
誠以外になにがいりますか。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

277 :ナナシズム:2010/06/23(水) 12:34:21 ID:uueie6Y+
最近感心したのは、大東塾の靖国神社問題に対する対処の仕方ですね。これには感心している。
つまり靖国の霊を国が神道の祭祀にしたがって顕彰し、弔うべきだというだけのことです。
彼の言いたいことは。それを政治家だとか、いろんな圧力団体がそうさせない。
遺族会すらそういう本旨を誤っているという場合に、だれがその思想をとおすのか。
その思想をとおすのに、言論だけでたりるのか。どの政治家のところへお百度詣りしたら、
それをとおしてくれるのか。人間がそういうことを考えたら、それをとおす方法といったら、
やっぱりぶんなぐるほかないでしょう。だからちょっとぶんなぐったでしょう。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

278 :ナナシズム:2010/06/23(水) 12:35:42 ID:uueie6Y+
政治家をぶんなぐることがいいかどうかわからない。ただ影山(正治)氏の塾の人が
やったことは、ある一つの思想をとおすには、どうしても法的にも、議会政治の上でも、
どうしてもとおらない。しかしそれが日本にとって本質的なものだと考えたら、
あの方法しかないんじゃないですか。その方法の良し悪しというよりも、あの方法しか
ないからやったんでしょう。そういうふうな、どうしてもやらなければならんことで、
ほかに方法がないということをやるために右翼団体というものはあるんだと思うし、
塾というものがあると思うんだ。それはその姿勢は守らなければならない。それを捨てたら
だめだと思うんですよね。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

279 :ナナシズム:2010/06/23(水) 12:36:51 ID:uueie6Y+
日本人というのは自分の主義主張のためには体を張るものである、命を最終的に
惜しまないものであるという伝統的なメンタリティーがある。

三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より

280 :ナナシズム:2010/06/28(月) 11:52:07 ID:0EuDuauQ
ひとたび自分の本質がロマンティークだとわかると、どうしてもハイムケール(帰郷)
するわけですね。ハイムケールすると、十代にいっちゃうのです。十代にいっちゃうと、
いろんなものが、パンドラの箱みたいに、ワーッと出てくるんです。だから、ぼくは
もし誠実というものがあるとすれば、人にどんなに笑われようと、またどんなに悪口を
言われようと、このハイムケールする自己に忠実である以外にないんじゃないか、
と思うようになりました。ぼくのこの気持ちは、思想的立場の違う人、ゼネレーションの
違う人にはきっと理解できないんだと思います。

三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より

281 :ナナシズム:2010/06/28(月) 11:54:28 ID:0EuDuauQ
いまの相対主義的な世界におけるエロティシズムというのは、フリー・セックスでしょう。
なんにも抵抗がない。あんな絶対者にかかわりを持たぬセックスなど、ぼくは
エロティシズムとは呼びたくないですね。

三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より


やっぱり穀物神だからね、天皇というのは。だから個人的な人格というのは二次的な問題で、
すべてもとの天照大神にたちかえってゆくべきなんです。今上天皇はいつでも今上天皇です。
つまり、天皇の御子様が次の天皇になるとかどうかという問題じゃなくて、大嘗会と同時に
すべては天照大神と直結しちゃうんです。そういう非個人的性格というものを天皇から
失わせた、小泉信三がそれをやったということが、戦後の天皇制のつくり方において
最大の誤謬だったと思うんです。

三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より

282 :ナナシズム:2010/06/28(月) 11:55:48 ID:0EuDuauQ
明治維新のときは、次々に志士たちが死にましたよね。あのころの人間は単細胞だから、
あるいは貧乏だから、あるいは武士だから、それで死んだんだという考えは、ぼくは
嫌いなんです。どんな時代だって、どんな階級に属していたって、人間は命が惜しいですよ。
それが人間の本来の姿でしょう。命の惜しくない人間がこの世にいるとは、ぼくは思いませんね。
だけど、男にはそこをふりきって、あえて命を捨てる覚悟も必要なんです。維新にしろ、
革命にしろ、その覚悟の見せどころだとぼくは思うんだが、全共闘には、やっぱり
生命尊重主義というか、人命の価値が至上のものだという戦後教育がしみついていますね。

三島由紀夫
古林尚との対談「最後の言葉」より


(ウーマン・リブは)バカの骨頂ですね。女が女であることを否定したら損だということが
理解できないんですね。ただバカな女どもですよ。

三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より

283 :ナナシズム:2010/06/28(月) 11:57:57 ID:0EuDuauQ
ぼくがウソだと思ったのは「きけわだつみのこえ」でした。あの遺稿集は、もちろん
ほんとに書かれた手記を編集したものでしょう。だが、あの時代の青年がいちばん
苦しんだのは、あの手記の内容が示しているようなものじゃなくて、ドイツ教養主義と
日本との融合だったんですよね。戦争末期の青年は、東洋と西洋といいますか、日本と
西洋の両者の思想的なギャップに身もだえして悩んだものですよ。そこを突っきって
行ったやつは、単細胞だから突っきったわけじゃない。やっぱり人間の決断だと思います。
それを、あの手記を読むと、決断したやつがバカで、迷っていたやつだけが立派だと書いてある。
そういう考えは、ぼくは許せない。

三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より

284 :ナナシズム:2010/06/28(月) 11:58:40 ID:0EuDuauQ
どろ臭い、暗い精神主義――ぼくは、それが好きでしようがない。うんとファナティックな、
蒙昧主義的な、そういうものがとても好きなんです。ぼくのディオニソスは、神風連に
つながり、西南の役につながり、萩の乱その他、あのへんの暗い蒙昧ともいうべき
破滅衝動につながっているんです。

三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より

285 :ナナシズム:2010/06/28(月) 12:00:51 ID:0EuDuauQ
大げさな話ですが、日本語を知っている人間は、おれのジェネレーションでおしまいだろうと
思うんです。日本の古典のことばが体に入っている人間というのは、もうこれからは
出てこないでしょうね。未来にあるのは、まあ国際主義か、一種の抽象主義ですかね。
安部公房なんか、そっちへ行ってるわけですが、ぼくは行けないんです。それで世界中が、
すくなくとも資本主義国では全部が同じ問題をかかえ、言語こそ違え、まったく同じ精神、
同じ生活感情の中でやっていくことになるんでしょうね。そういう時代が来たって、
それはよいですよ。こっちは、もう最後の人間なんだから、どうしようもない。

三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より

286 :ナナシズム:2010/06/29(火) 10:55:11 ID:nGqYbRJ1
僕らは嘗て在つたもの凡てを肯定する。そこに僕らの革命がはじまるのだ。僕らの肯定は
諦観ではない。僕らの肯定には残酷さがある。――僕らの数へ切れない喪失が正当を
主張するなら、嘗ての凡ゆる獲得も亦正当である筈だ。なぜなら歴史に於ける蓋然性の
正義の主張は歴史の必然性の範疇をのがれることができないから。
僕らはもう過渡期といふ言葉を信じない。一体その過渡期をよぎつてどこの彼岸へ僕らは
達するといふのか。僕らは止められてゐる。僕らの刻々の態度決定はもはや単なる模索ではない。
時空の凡ゆる制約が、僕らの目には可能性の仮装としかみえない。僕らの形成の全条件、
僕らをがんじがらめにしてゐる凡ての歴史的条件、――そこに僕らはたえず僕らを無窮の
星空へ放逐しようとする矛盾せる熱情を読むのである。決定されてゐるが故に僕らの
可能性は無限であり、止められてゐるが故に僕らの飛翔は永遠である。

三島由紀夫「わが世代の革命」より

287 :ナナシズム:2010/06/29(火) 10:58:13 ID:nGqYbRJ1
新らしさが「発見」であるとするならば、発見ほど既存を強く意識させるものはない筈だ。
発見は「既存」の革命であるが、それは既存そのものの本質的な変化ではなく、既存の
現象的相対的変化に他ならない。既存の革命といふよりも、既存の意味の革命といふべきだ。

三島由紀夫「わが世代の革命」より


盲目的なるかにみえる衝動も、言葉を行使するに当つての理性と同一の源泉から生れた
ものであり、畢竟(ひつきやう)理性の詩的発現に他ならない。

三島由紀夫「わが世代の革命」より

288 :ナナシズム:2010/06/29(火) 11:00:17 ID:nGqYbRJ1
あらゆる批判と警戒の冷水も、真の陶冶されたる熱情を昂(たか)めこそすれ、決して
もみ消してしまふものではない。むしろあらゆる冷血にも耐へうる熱情の強さに僕らは
誇りを感じるべきだ。

三島由紀夫「わが世代の革命」より


形成とは本質的なるものの分裂とその対立緊張による刻々の決闘である。

三島由紀夫「わが世代の革命」より


独創性は真の普遍性の海のなかでしか発見されぬ真珠である。

三島由紀夫「わが世代の革命」より

289 :ナナシズム:2010/06/29(火) 11:02:06 ID:nGqYbRJ1
かくて僕らは若年の権利を提言する。「たゞ若年に可能性をのみ発掘しようとする努力に終るな。
なぜなら我々の最も陥りやすい信仰の誤謬は、存在そのものを信仰してゐるつもりで
その存在の可能性のみを信仰してゐることに存するのだから」かくの如く僕らは主張し
警告することを憚るまい。

三島由紀夫「わが世代の革命」より


新らしい時代を築かうとする若年には夭折の運命がある。神の国を後にした古事記の
王子(みこ)たちは、凡て若くして刃に血ぬられた。彼等と共に矜り高くその道を
歩むことを、恐らく僕らの運命も辞すまい。

三島由紀夫「わが世代の革命」より

290 :ナナシズム:2010/07/07(水) 10:32:54 ID:UCLTDRKm
なぜプラトンが、理想国家から詩人を追放したのか。それは自分に似ているからではないか。
理想国家の政治家にとっては詩人が自分たちに似すぎているからではないか。自分に似たものは、
ほかにはいらない。政治というのは、どうも人間の根元的な衝動に根ざしていると思う。
本来、政治と芸術というのは同じ泉から出ているのではないかと僕は思う。だから
排斥し合うのではないか。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より


男というのはうぬぼれと、闘争本能以外にはないのではないかな。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

291 :ナナシズム:2010/07/07(水) 10:33:12 ID:UCLTDRKm
世界を回ってみますと、現在日本のように無階級な国はないように思う。実に不思議な国で、
アメリカはもっともっと階級がありますね。ステータス・シンボルがそれぞれあって、
クラブでも上のクラブに入らないと、お嫁さんのいいのが来ないとか。それから
なんだかんだと言って、一つ一つの関係が非常にうるさいですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

292 :ナナシズム:2010/07/07(水) 10:33:28 ID:UCLTDRKm
弱いから文学になる。神経衰弱に文学、蔦には壁と同じで。ですけれども、文学が
寄りかかって、それで文学と弱さとのあいだに馴れ合いが起こるというのが、いちばん
嫌いですね。というのは、それだけなら文学などやる意味がないと思う。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より


ことばは絶対に克己心を教えますね。それでことばというものにぶつかったときに、
つまり文学というのは、己れの弱さをそのまま是認するものではない、文学の世界に
ことばがあって、われわれに克己心を要求するのだということを学んだような気がする。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

293 :ナナシズム:2010/07/07(水) 10:33:45 ID:UCLTDRKm
常識的なことを言って、世間から紳士扱いにされて、一つご意見をうかがいたいと、
そうしてもっとも常識的な、良識的なことを言うのが作家じゃありません。
作家はそれぞれ狂気の代表なんですよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より


読書百ぺん、意おのずから通ず。中学生にもっと古典を読ませなければいかんな。
いやでもおうでも読ませたほうがいいですね。ただ現代語訳は絶対反対ですよ。
現代語訳の場合は、いまのやつは現代語訳を読んでああわかったと思っちゃうでしょう。
現代語訳を読んでから原文にあたってやろうというのは少ないと思う。だから現代語訳は
ないほうがいいと思う。「源氏」を読むのは原文しかないというほうが、ほんとうだと思いますよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

294 :ナナシズム:2010/07/07(水) 10:34:00 ID:UCLTDRKm
ことばはどんなことしたって、インターナショナルではあり得ないですね。
僕らはことばに携わるのだから、世界がどんなにテクノロジーと生活水準の平均化によって
インターナショナルになっても、あるいは思想もインターナショナルになっても、
ことばだけはダメ。それだから、ことばに偏執する。ことばはプラクティカルな意味では
どうにもなることでも、そうでないところで、われわれは立派に偏執する。われわれの
ナショナリズムというのはことばですよ。僕は、言霊説ですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

295 :ナナシズム:2010/07/07(水) 10:38:43 ID:UCLTDRKm
僕たちのことばが、外国語に翻訳される場合に、人情は通じると思うのですよ。
人情は通じると思いますが、ことばは通じない。(中略)
たとえばある橋を渡ったという場合に、その橋という観念のなかに、どういう橋が
イメージとして浮かんでくるか。そのイメージだけは、どんなことをしても伝えられない。
文学はそれでいいのではありませんか。
ゲーテの小説を日本語で読んで、橋(ブリユツケ)ということばが出てくるとき、
その橋がドイツのどこの橋がゲーテの頭のなかにあったか、そんなことがわれわれに
わかるわけがないですよね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

296 :ナナシズム:2010/07/07(水) 10:38:59 ID:UCLTDRKm
僕は、アジア主義だけはちょっとわからない。政治的にはもちろんわかり得ると思うが。
まったく政治的なものですね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より


ヨーロッパ共同体というものは文化的には昔からあったのだから、それが伝統に帰ることであり、
そうして普遍的ヨーロッパに帰れということを、ゲーテは言いたかったわけですね。
しかし日本では、普遍的ヨーロッパというものは、日本にとってはぜんぜん別なものでしょう。
それから普遍的アジアというものは、文化的にはない。だから日本にとっていま
世界文学などというのは、ちゃんちゃらおかしいということになるわけです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

297 :ナナシズム:2010/07/07(水) 10:39:18 ID:UCLTDRKm
ことばというものは一歩プラクティカルなことを考えたら、絶対こんな不合理なものはない。
ことばの性質というものは、そういうものです。ことばというのは、そもそも人間の意思を
疎通させるために、生まれたものであるにもかかわらず、もしプラクティカルな見地からしたら、
実に非合理に満ちているという。これはどこの国のことばでも、みなそうです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

298 :ナナシズム:2010/07/07(水) 10:39:45 ID:UCLTDRKm
日本のように反体制的大政党を抱えた国が、シヴィリアン・コントロールをやるということは、
危険きわまる体制じゃありませんか。(中略)
昔は上官から天皇まで一貫していた。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より


一度、僕は新聞に原爆のことを書いたことがある。そして、ナセルが「落とすなら
原爆を落としてもいいよ」とか、中共が「水爆を落としてもいいよ、われわれは人口
七億だから、半分なくなってもあと戦える」と言った、ああいうのはもっとも危険な
思想だろうと、そういうことを書いたら、没になったことがあるのです、だいぶ前に。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

299 :ナナシズム:2010/07/07(水) 10:40:00 ID:UCLTDRKm
橋川文三なども言っているけれども、戦争中の特攻隊の連中でも、それから戦没学徒の心情でも、
死ななければ国家を批判はできない、死ぬことによってはじめて国家を批判できるという。
日本人の最高のものに対する批評の形式というのは、死しかないというあれは、かなり
切腹のみにとどまらず、いろいろな形であらわれているものだと思いますね。つまり、
批評と絶対との関係というものは、僕はおよばずながら「英霊の声」などを書いたときに、
ふっと、その問題をかいま見られたような感じがした。つまり絶対を批評するということが
できるか、できないか、これはだれもわからないことですね。だけれどもその批評形式としては、
死しかないということはありますね。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

300 :ナナシズム:2010/07/07(水) 10:44:01 ID:UCLTDRKm
日本人は、最高の批評の形式というのは、ことばのないものでしかないという考えが
どこかにある。それは、禅の不立文字からきたものばかりではないと思いますね。
体当りと言えばそれまでですが、なんか自己否定という形が批評になると、こっちに
主体があって、対象を分析したり、対象を論理的に解釈することが批評ではないのだと、
こっちが自分を根本的に否定して見せることが批評なんだというような、批評の根本形式が
あるように思う。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

301 :ナナシズム:2010/07/12(月) 20:36:42 ID:WavZYSCa
日本近代知識人は、最初からナショナルな基盤から自分を切り離す傾向にあつたから、
根底的にデラシネ(根なし草)であり、大学アカデミズムや出版資本に寄生し、一方では
その無用性に自立の根拠を置きながら、一方では失はれた有用性に心ひそかに憧憬を寄せてゐる。



日本知識人が自己欺瞞に陥るくらゐなら、死んだはうがよからう、と嘲笑はれてゐる声を
きかなければ、知識人の資格はない。



知識人の唯一の長所は自意識であり、自分の滑稽さぐらいは弁えてゐなくてはならぬ。


三島由紀夫「新知識人論」より

302 :ナナシズム:2010/07/12(月) 20:37:04 ID:WavZYSCa
命を賭けて守れぬやうな思想は思想と呼ぶに値しない。



知識人の任務は、そのデラシネ性を払拭して、日本にとつてもつとも本質的な「大義」が何かを
問ひつめてゐればよいのである。
…権力も反権力も見失つてゐる、日本にとつてもつとも大切なものを凝視してゐれば
よいのである。暗夜に一点の蝋燭の火を見詰めてゐればよいのである。断固として
動かないものを内に秘めて、動揺する日本の、中軸に端座してゐればよいのである。
私はこの端座の姿勢が、日本の近代知識人にもつとも欠けてゐたものであると思ふ。

三島由紀夫「新知識人論」より

303 :ナナシズム:2010/07/22(木) 11:02:19 ID:4HlEfVgE
ゴンブローヴィッチはエロティックでない哲学なんて信用できないという。青年がなぜ
特権を持っているか。それはエロティックということです。学生新聞の文章を読んで
ごらんなさい。妙な観念的なことを書いていて、何を言わんとするのか全くわけがわからない。
だけど性欲が過剰だということだけはよくわかる。(中略)
西洋人を見ているとわかるでしょう。いい年をして脂っこいセックス。(中略)
ああいうものを持っているということは絶対肉体からくるので、日本人にはちょっと
わからないようなところがある。西洋の哲学でも思想でも、みなああいうものを
抜きにしては考えられない。宗教もそうでしょう。キリスト教で抑圧した性欲の激しさ
というものはすごい。だからバタイユとかクロソウスキーみたいな作家が出てくる。

三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より

304 :ナナシズム:2010/07/22(木) 11:03:18 ID:4HlEfVgE
ぼくは自分の小説はソラリスムというか、太陽崇拝というのが主人公の行動を決定する、
太陽崇拝は母であり天照大神である。そこへ向かっていつも最後に飛んでいくのですが、
したがって、それを唆かすのはいつも母的なものなんです。…ずいぶん右翼のいろんな
手記を読んだりしたけど、おふくろがみんないいおふくろで、息子の行動を全部是認している。
…おふくろの力というのはとても大事なんです。右翼のあれを読むと、みなおふくろ好きなんです。
イタリアのギャングが帰着するところは全部おふくろなんです。(中略)
いくら女を締め出してもだめです。最終的におふくろが出てくる。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より

305 :ナナシズム:2010/07/22(木) 11:03:40 ID:4HlEfVgE
三島:ぼくはいま安岡君の「幕が下りてから」を読んでいるのだけれども、あんなに
人間が背が高くなることを信じない人というのはつらいだろうな。
中村:それはおもしろい。そういう意味ではあの人は魅力がない。
三島:魅力がない。

中村:とても悧巧だからね。

三島:大江君は、少なくとも背が高くなるという可能性は信じているでしょう。自分は
絶対ならないけれども、誰かがなるだろうということを信じている。それが自意識と
結びついて変なことになっちゃうかもしれないけれども、少なくとも安岡君とちがうのはそこだ。

三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より

306 :ナナシズム:2010/07/22(木) 11:04:03 ID:4HlEfVgE
三島:…作家がピエロというのは前提条件で、どこからどこまでピエロなんだから、
自分でピエロだといったらピエロでなくなっちゃう。つまりピエロが出てきて、
私はピエロですピエロですといったら絶対ピエロでなくなっちゃう。メドラノの曲馬、
あれは悲しそうだからいいので、私はクラウンですよといったらクラウンでなくなる。
日本の私小説というのはどうもそういう感じがする。(中略)
太宰は、私はクラウンですよと絶えずいっていた。だからおもしろくもおかしくもないし、
そんな当たりまえなことをいうなと言いたくなる。

中村:太宰はともかくとして、日本の私小説は大まじめで、大いに悲劇的な表情で
喜劇的なことをやってたんじゃないの。

三島:自分が気がつかないでね。自分が気がつかないというのはクラウンとはちがう。
クラウンは全部知っている。そして一生懸命やる。人は大笑い。それが芸術家だと思う。
日本の小説家は自分がクラウンだということを知らない。そして私はクラウンですよ
というのだけれど、腹の底でそう思っているかどうかはわかりません。

三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より

307 :ナナシズム:2010/07/22(木) 11:04:23 ID:4HlEfVgE
三島:もし自分はクラウンだといえば、どこかの女が、冗談おっしゃってはいけません。
クラウンじゃありませんよと……。

中村:必ず言ってくれると思っている。

三島:あれは耐えられない臭味だな。

中村:とくに太宰はね。

三島:耐えられない。ぼくは安岡君のものを読んでも気に食わないのもそれなんです。
安岡君が、「私」は醜男だ、どうせ滑稽だ、女房にいじめられてばかりいるとか、
そんなことはちっともおもしろくもおかしくない。

三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より

308 :ナナシズム:2010/07/22(木) 11:06:14 ID:4HlEfVgE
三島:…つまり、どこかでなあなあでなれ合いで、おれはこうやっていても、おれの
偉いということは人がわかってくれているのだぞ、ということがどこかに残っているからですよ。
そんな意識は捨てたればいい。
ぼくの理解者がどこかにいて、ぼくのことを偉いと思っていたら、ぼくは偉いというふうに
すればいいじゃないですか。人が偉いと思ったら偉いと思えばいいし、人が滑稽だと
思ったら滑稽であればいいので、それについて自分は偉いとか滑稽とかいう必要は毛頭ない。
安岡君はいつも自分はクラウンだというふうに自己規定する。あれは狡いと思う。
安岡君をまじめにとっている人がいくらでもいるだろう、そういう人間に対して失礼だと思う。
読者を考えた場合に、読者に対する礼儀というものは非常に大事だと思う。読者がもし
ぼくをある一点においてまともにとってくれているなら、ある一点でまともなんですよ。

三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より

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