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爺さんの体験談代筆スレッド 巻の二

1 :醜男 ◆SiKoOok7TQ :2008/02/16(土) 21:09:39 ID:L487ukuu
『健在な友軍もまだまだたくさんいるはずだ』(本人発言どおり)
『三国人が本邦で何をしたか、今の若い人達に話すべきかもしれん』(本人発言どおり)
なぜ↑これをしてこなかったのか?の問いに対して
『戦争に負けた事と、敗戦後の三国人の犯した数々の無法から本邦を守りきれなかった事が
後進の邦人に対して申し訳ない気持ちと、それを恥じている為だ』(本人発言どおり)
との事でした
いろんな『友軍』の方々のレスがあるようなスレなら爺さんも是非書かせて頂きたいとの事です
(とはいっても代筆になりますが)

というわけで戦時中や戦後を生きた爺さんの生の声を聞いたり、
質問したりするスレッドにしていきましょう。
他の爺ちゃん達も歓迎します。^^

依頼元
【スレ立て依頼】ウリのスレ立て代行汁!【16】
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1152437062/266

前スレ
爺さんの体験談代筆スレッド
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/korea/1153618912/

2 :マンセー名無しさん:2008/02/16(土) 22:46:06 ID:Oex239we
>>1
(・ω・`)乙  これは乙じゃなくてポニーテールなんだからね!

3 :マンセー名無しさん:2008/02/17(日) 18:38:37 ID:ihz7Pu93
良スレですね。このスレを通してみんなで見識深められたらいいですね。

うちのじいちゃんも二度出兵したらしく、またまじめなじいちゃんだったようで
青年期に毎日書いた日記があるらしいのでまた調べてみたいと思います。じいち
ゃんは残念ながらもう他界しましたが・・・

4 :マンセー名無しさん:2008/02/20(水) 19:37:52 ID:Bck56Xdo
保守

壱スレにぼた餅がたびたび出てくるので自作してみた。
市販のものは確かに洗練された上品な味がするのだが、子供の時に食べた味とはどこか違う。
自作のぼた餅は大きさも形も不揃いだったが、なんとか「あの味」のようなものをつくる事ができた。
母がつくり、祖母がつくり、この国の懐に抱かれて伝えられてきたそれぞれの味…文化と伝統。
幾多の若者達が守るために命をかけた「ふるさと」を、次の世代に残す番が今自分に回ってきている様なのだが、
爺様婆様達には遠く及ばず申し訳ない限りであります。
我らが父祖に敬意を表して。

5 :マンセー名無しさん:2008/02/20(水) 20:43:01 ID:ZYx3erqr
こちらもよろしく
あなたのおじい様の戦争体験を教えて その17
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/army/1195753214/

6 :791 ◆9zatwGbxuw :2008/02/24(日) 13:34:41 ID:r3u1YaMc
あぁ、書き始める前に前スレが落ちてしまった……
トリップが正しいか確認の後、40編目投下開始します。


7 :791 ◆9zatwGbxuw :2008/02/24(日) 13:35:22 ID:r3u1YaMc
日ソ戦による全満邦人の惨劇(1/3)

   開拓移民団の惨劇
 敗戦による在満邦人は筆舌に尽きせぬ惨劇が全満各地に起りましたが開拓団の人達は永
住の地として北満東満と国境近くそして街から遠く酷寒と時には匪賊の恐怖と戦い原野を
開拓して汗と脂を流して得た財産を一夜にして失いその上柱と頼む主人を招集で連れてい
かれ老人子供を抱えての引揚げ途中略奪と暴行酷寒そして飢餓の四重苦にさいなまれ、
それがため疲労栄養失調から来る病気と闘い山を越え湿地に足を取られ恐怖におののきな
がら幼子を背負い又は手を引き僅かばかりの財産を持って東満へ南満へと集まり途中根も
力も尽き果て思い余って子供を棄て満人に呉れて辛うじて復員出来たと云う。
 二十七万人(中国開拓義勇軍を含む)二十八人万人。三分ノ一の九万人がソ連軍又は
反乱軍匪賊土匪の餌食となった。
 内訳は、
   戦死自決            一万一千人
   病   没            六万七千人
   消息不明            一万一千人
   旧満州に残存した者     一千人(現地妻養子)
   合計 九万人    (復員局調)


8 :791 ◆9zatwGbxuw :2008/02/24(日) 13:35:57 ID:r3u1YaMc
日ソ戦による全満邦人の惨劇(2/3)

最も犠牲者が多かった開拓団は左記に依る。
 一、東京開拓団荏原郷(九八三人)(興安省王爺廟)
    避難途中病気土匪に襲撃され自殺八五三人が死亡復員百三十人
 一、第四次哈達河開拓団
    虎林線東海駅北に二粁興凱湖に近くソ連満国境関東全県四國九州北海道その他四県
    からなる千余人を?出開戦と同時に軍籍にある者全員招集され老幼男女のみ残され
    避難途中三百余名ソ連に追われ満軍反乱んも為敵弾に倒れる者自殺する者残余の者
    も脱出不可能の為本体全員四百六十五人遂に帰らなかった招集された者ソ連から
    復員した者も行方は定かでない。
 一、大青森郷開拓団(黒河省奇克県)孫呉國境近く。小興安嶺山中を難行中団員四七一
    の中生死不明一四四名死亡一五一人生存一七六人
 一、第八次大泉テ開拓団(浜江省賓県)福井富山県送出満軍反乱軍と暴民の襲撃を受け
    五八四人の中二五三人死亡
 一、第十三次来民開拓団(吉林省扶余県)熊本県縒り送出、匪賊暴民に襲われ二七五人
    全員自殺一名助かり脱出
 一、第二次千振開拓団(三江省樺川県)宮城県送出婦女子八○名暴民に襲われ飛行場
    地下格納庫に避難したが脱出出来ず全員劇薬自殺


9 :791 ◆9zatwGbxuw :2008/02/24(日) 13:36:23 ID:r3u1YaMc
日ソ戦による全満邦人の惨劇(3/3)

 一、第三次瑞穂村開拓団(北安省綏稜県)
    幹部が治安維持の為出勤中団員家族四九五人全員劇薬自殺
 一、第四次城子河開拓団(吉林省舒蘭県)
    五十三人自殺、二十人病死
 一、第十次埴科開拓団(東安省宝清県)
    団員二五四人避難中主力二二八人ソ連軍の砲撃を受け二二一人死亡
 一、第十三次高橋郷開拓団(浜江省蘭西県)
    土匪の襲撃により三八○人中二九九人が呼蘭河に投身自殺
 一、第十三次高見開拓団(三江省樺川県)
    団員主力三三三人中ハルピンに辿りついた者六四名、途中落伍消息不明二六六名。
    地区の婦人三三名、男一名及び他地区より合流した七一名、計一〇五名脱出できず
    劇薬自殺。


10 :791 ◆9zatwGbxuw :2008/02/24(日) 13:46:52 ID:r3u1YaMc
あとがき

 結婚して六ヶ月突如の招集令状を振り出しに、人生が余りにも狂った。生死の境を通り
抜けて生還し、舞鶴上陸。暖い肉親に迎えられた時。私の人生が蘇ったのでした。帰らな
かった戦友諸君には済まないと思っていますが、現在は親思いの長男と父母思ひの素直な
嫁にめぐまれ、二人の可愛い孫に囲まれた日々を過ごして居ります。過去を顧み、平成と
いう名のもとに平和が何時までもと願って居ります。


平成元年 一月九日
                箏葺 弓六


11 :791 ◆9zatwGbxuw :2008/02/24(日) 14:04:01 ID:r3u1YaMc
追加として、この冊子に挟まれた爺様の年譜表。その最後の一文を紹介させていただきます。

------------------------------------------------------------------------------
「満州・シベリアの思ひ出」を発刊するにあたり、尊敬する父(祖父)に
○○(長男)、○(妻)、○○(孫)、○○(孫)が贈ります。

------------------------------------------------------------------------------

 最後に、ここまで爺様の文章を読んでいただいた皆様に、俺から感謝の念を。
今までありがとうございました、この芯の強い爺様の記録を多くの人に知ってもらう事が、俺の
義務だと思っていました。皆様のおかげで、その目的を達成できました。今はほっとしています。

 そして、世の中にまだいるであろう、名も知らぬ爺様やその戦友達に後世の者として敬意と感謝と
哀悼の念を。
 いずれ靖国に行き、この冊子の事を思い浮かべながら頭を垂れてこようと思っています。

 それでは、一月あまりお付き合いいただきありがとうございました。
 これにて投下全終了いたします。ではでは


12 :マンセー名無しさん:2008/02/24(日) 18:29:29 ID:x48Dy7+B
791氏 お疲れ様でした。

366氏の爺さんも友軍が来てくれたと、
きっと喜んでくれてるんじゃないでしょうか。
とにかく本当にお疲れ様でした。

13 :マンセー名無しさん:2008/02/24(日) 18:30:44 ID:gqY1BbbH
>>791
いつもお疲れさまです。
感想をうまく言葉にする事が出来ず少々悔しいのですが、
貴重な資料を掲載頂き、ありがとうございました。多くの感謝を。


やっとアク禁解除。
最終回に間に合って良かった。

昨日、仕事帰りに靖国リベンジ行ってきました。途中までは作法の通りだったと思うけど、
お祈りの時の手順を間違えた。orz  ちゃんとできるまでリベンジを続けよう。できてもたまには行こう。
それはそうと、あの「作法」って完璧にやると非常に格好いいものなのね。見ていて思った。

14 :備前 有縁通 ◆5/7mhL.nO6 :2008/02/24(日) 19:05:27 ID:J3AMhKjp
 
 
 
>>13
>あの「作法」って完璧にやると非常に格好いいものなのね
オマエにとって、靖国参りは自分のカッコよさを
他人にヒケラカス為の趣味にすぎないということか?
大切なのは作法や格好ではなく「心」では無いのか?
日本人は外見ばかり気にしてで「心」がないよな。
だから、何度謝っても認めてもらえないんだよ。
反省しとけ。
 
 
 


15 :マンセー名無しさん:2008/02/24(日) 19:11:09 ID:ufVa3xea

どういう奇形理論で見てかっこいいという感想が
ひけらかす趣味になるんだ?


ギャハハハハハハ〜w




16 :マンセー名無しさん:2008/02/24(日) 19:11:18 ID:wQv9iIdl
日本人の接客作法によく韓国人は感心する
だがその後で「心がこもってない」とケチをつける

心が作法に現れるとは考えないらしい。
韓国人はマナーもないし心もない。
田麗玉「悲しい日本人」参照

17 :マンセー名無しさん:2008/02/24(日) 19:11:33 ID:Es0x5ABO
>>14
奇形、揚げ足取りか?

>何度謝っても認めてもらえないんだよ。
お前に認めてもらう必要ないだろ。イラクとイランの区別もつかん
頭の悪いお前に言っても無駄だが、ベトナムで謝りすらしない朝鮮人が
世界で認められないのわかってね。

18 :マンセー名無しさん:2008/02/24(日) 19:25:58 ID:L30srhnH
>>17
相手すんな、そして上げるな、この荒らしが。

19 :マンセー名無しさん:2008/02/24(日) 19:27:28 ID:vPbNjbEK
>>16
たとえば茶道などでも、お客様を最高にもてなそうとする心が
無駄のない洗練された動作と手順とを求め、
その結果がさまざまなしきたりとなって確立されてきた、
それと同じ事なのにね。


20 :マンセー名無しさん:2008/02/24(日) 19:30:36 ID:gqY1BbbH
>>14
場所が場所なのでスルーさせて貰う。

21 :備前 有縁通 ◆5/7mhL.nO6 :2008/02/24(日) 19:34:31 ID:J3AMhKjp
 
 
 
なに、カッコつけてんだ、タコ!
返す言葉が無いだけだろw
 
 
 

22 :マンセー名無しさん:2008/02/24(日) 19:36:03 ID:aaqou9X5



確かに意味不明な奇形理論にまともに返す言葉はないよなあw
どういう思考回路を経てひけらかす趣味とやらに変換されるんだかw


ギャハハハハハ〜w





23 :791 ◆9zatwGbxuw :2008/02/25(月) 00:04:14 ID:m1a4uB/l
>14
実は弓道あたりでも二礼二拍一礼したりします、自然に背筋を伸ばして行えば
かなり見栄えがしますよ。あまり力まないように、自然体が基本です。
ご神前や英霊にキリッっとしたところを見せて差し上げましょう、それは王道たる
敬意の表し方です。作法を守ろうとする意識、見栄えよく振舞おうとする意識も又、
奉ずべき価値ある心なのですよ。


24 :791 ◆9zatwGbxuw :2008/02/25(月) 02:35:56 ID:m1a4uB/l
うあ……

>13の間違いでしたorz


25 :マンセー名無しさん:2008/02/25(月) 10:51:16 ID:3tcOhtrP
流れ豚切ってスマソ

既出だったら恐縮ですが、前スレのまとめサイトとか作る予定の方いらっしゃいますか?
せっかくの体験談&名言たちを埋もれてしまうのはもったいない。

26 :マンセー名無しさん:2008/02/25(月) 11:03:45 ID:vGsc4UH9
>>23のレスを見た時、なんという賢者ぶり、と思ったw

27 :八咫烏 ◆cPmkHzc4Fc :2008/02/25(月) 14:57:22 ID:jiyCyQpT
ありがとうございました。>791 ◆9zatwGbxuwさん

28 :マンセー名無しさん:2008/02/25(月) 15:00:21 ID:vpkvq+Np
終わっちまった・・・寂しいな。

しかし取り敢えず今まで乙。

29 :791 ◆9zatwGbxuw :2008/02/25(月) 18:48:20 ID:m1a4uB/l
 えーと、間の抜けたところを見せてしまったし、乙も頂いてますので、爺様と会話
した時の事とかを思い出しつつ。

○前スレ808-809『大荒溝輸送隊顛末記』の辺りの事
> 駅からはるか後方の平地にソ連軍の車両部隊と戦車部隊が何百と並んで居た。
> 武装解除、未練気も無く兵器を捨てる。

 この戦闘車両の群れ、どうも大部分がアメリカ製だったようです。
「ソ連軍はアメリカのトラックに乗っていて、これが頑丈で故障もなく良く走るんだ。
こっちの車両はすぐ故障してねー、あまりソ連製の車両は見なかった」
爺様は整備隊所属だったという事もあってか、その辺りが印象に残ってたようでした。
会話中何度か、苦笑っぽい笑顔でそのことを繰り返しておられました。
 この文中に木炭トラックをも軍で使用していたとありますので……差は歴然としていた
のでしょうね。日本軍、実は大陸でもアメリカの工業力に痛い目に逢わされていたようです。
アメリカからソ連へ車両のリースがあったのは自分も知っていましたが、爺様達はその威力
を満州とシベリアで体験していたのですね。
 とにかく、物量の差を目の当たりにして。こりゃ駄目だ、どうにもならない。と結論せざるを得
なかった事は強調されてました。「そりゃ、悔しい話ですね」「いやいや、辛いとか悔しいとか今更
言ってもしょうがないから、笑い話とでも思ってくれよ」との事でした。

○軍隊用語について
 文中に良く「ヨ隊」とか「ミ隊」とか出てくるのですが、これが俺も解りません。何を意味する
単語なのでしょうか、どなたかご存知ありませんか?

○使った仮名について
 『箏葺 弓六(ことぶき きゅうろく)』必要があって作った仮名でしたが、その後はコピペする
だけでも恥ずかしさを覚えるネーミングでした。まとめサイトを作って爺様の文章を載せていた
だけるなら、この名前に関しては変更を検討していただくのが賢明かも知れません(^^;
ちなみに、箏葺>寿>寿発動機、弓六>九六>九六艦戦でした。以前、お遊びで考えた名前
をさらにいじくった感じです。他にも「ふがく もくせい」とか「はやて ほまれ」とか、あぁ馬鹿くさい。

以上、思い出した会話と、俺自身の馬鹿っぷり晒しでした。ではでは

30 :マンセー名無しさん:2008/02/28(木) 15:03:21 ID:1SxbXuCP
ほす

31 :マンセー名無しさん:2008/03/02(日) 12:52:48 ID:0myfOVC2
一応、保守

32 :マンセー名無しさん:2008/03/07(金) 20:16:40 ID:NTd85S8k
ほすするけどさびしいな

33 :マンセー名無しさん:2008/03/09(日) 17:54:36 ID:OXZxfLw+
2,3年前、他の板でUPしたもの。半島ネタなし。
前回、割愛した部分はすべて追加するので結構長文になる。
それでもよかったら俺がやるけど。

ちなみに本はこれ↓
ttp://www.uploda.net/cgi/uploader4/index.php?file_id=0000028111.jpg


34 :マンセー名無しさん:2008/03/10(月) 12:07:42 ID:80vxfqMQ
バチコーイ
気長に待ってるぜ

35 :33:2008/03/10(月) 20:28:29 ID:bZeCq2lK
気長にやるので、みなさんよろしく。

連浦―マラン弥次喜多空輸記

中 尾  周 作

昭和19年2月末日編成を完了した我が36教育飛行隊は東部ジャワ・マラン飛行場
に前進するよう命ぜられました。編成地の北朝鮮の連浦から約8,000q当時の私達
の常識では大変な移動作戦で、非常な緊張感を覚えました。
航空部隊は空輸、整備隊その他の支援部隊は輸送船で移動するのです。私はそ
の前年、昭和18年12月当時の明野陸軍飛行学校乙種学生の課程を卒業して部隊に
着任したばかりの新品少尉です。(飛行時間約200時間)勿論外地の航法の経験など
まるでありません。その私が編隊長として、当時の満州奉天鉄西飛行場に出向いて、
二式単座高等練習機七機を受領して、ジャワ島マランに空輸するよう命令を受けまし
た。同年3月中旬私は、加藤曹長、吉野軍曹、村上軍曹、鴨山軍曹、青山軍曹、脇浜
軍曹、和田伍長、田志兵長等を連れて奉天航空廠に赴いて飛行機受領に当りました。

当時の奉天航空廠の傍に日本の中島飛行機の分家といわれた、満州飛行機--通
称:満飛(マンピ)と云われました--で、九七戦を改造した二式単高練を大車輪で製
作していたのです。
当時の陸軍航空当局は、戦局の要請に応えて操縦者、特に戦斗操縦者の養成に
力を入れて、教育飛行隊を大増設していたのです。そしてその部隊を燃料入手の容
易な南方諸地域に配置した訳です。


36 :33:2008/03/10(月) 20:32:34 ID:bZeCq2lK
奉天の鉄西飛行場ではそれ等のパイロットの飛行機受領者で大混雑して居りまし
た。満飛の生産ラインから出来て来る飛行機は前記の待ち構えたパイロットに渡され
て、試験飛行をして、これでよしと云うことになると夫々の任地に空輸するのです。とこ
ろが出来て来る二式単高練には色々の問題点がありました。当時の物資不足の状況
で、特に特殊合金の極度の不足の為、エンヂンが極めて不安定なのです。新製品の
二式単高練を受領して試験飛行して驚いた事は、新製品であるのに拘らず滑油消費
量が非常に多い事です。フィルターには金屑が多量に発見されます。もともとパイロッ
ト仲間に満飛製の飛行機は人気がありませんでしたが、これ程とは思いませんでした。

噂では、気の短い編隊長が18機の二式単高練を受領して台湾に空輸したところ、
まともに目的地に到着したのは2機丈けだった、等と云われていました。私はこの飛
行機を安全確実にマラン飛行場まで空輸しなければなりません。特に入念に試験飛
行をして、完全な飛行機を受領するよう心掛けました。航空廠は一定のノルマを果た
ねばなりませんから、内心あまり文句を云わずさっさと持って行けという態度です。航
空廠の少佐からお前の部隊は文句が多過ぎると叱られた事もありましたが、マラン飛行場迄の8,000qの航程を考えますと簡単に妥協は出来ません。
とに角、何とか良さそうな飛行機を受領して編成地の連浦飛行場に帰着したのは4
月中旬だったと思います。部隊長編隊は九々高練数機で、既にマランに向けて出発し
て居りました。


37 :33:2008/03/10(月) 20:39:20 ID:bZeCq2lK
連浦で更に入念に整備をして4月20日頃出発、南朝鮮の大邱経由太刀洗に向い
ました。そのメンバーは次の通りです。中尾少尉、加藤曹長、鴨山軍曹、村上軍曹、
青山軍曹、和田伍長、田志兵長。

春とは云え朝鮮の山々は雪を頂いて荒涼たるものです。大邱飛行場では燃料滑油
の補給後直ぐ太刀洗に向けて飛び立ちました。そこで食べたリンゴの歯にしみた冷た
さが記憶にあります。玄界灘を飛び越えて北九州に入りますと全くの春です。黄色い
菜の花が目にしみます。先刻の荒涼とした情景に較べ全くソフトな感じで、あゝやっぱ
り内地だなあと感じました。

太刀洗に着いて気になるのはやはり飛行機の滑油消費量です。二式単高練の整
備上のデータ等は忘れましたが、約4時間位飛行しますと滑油タンクは殆ど空っぽに
なるのです。通常の航空機の航続時間は、燃料の消費量が基礎になるのですがこの
飛行機は滑油の消費量が基礎にならざるを得ません。点火栓は飛行の度毎にベタベ
タになります。これから外地に出れば、途中丁寧な整備を望む事は無理でしょう。私は
太刀洗航空廠に滑油消費量の甚だしい数機のエンヂン交換を申入れました。航空廠
側も知って居りまして快く私の要求を容れてくれました。
(つづく)


38 :マンセー名無しさん:2008/03/11(火) 15:52:44 ID:58QqNb5A
激しく乙
エンジンにクセがあった話は広く伝わってるが
二式戦の具体的な整備の話は初めて聞いた
この陸軍戦闘機、「鍾馗」の名前で知ってる人も多いかもね

39 :マンセー名無しさん:2008/03/11(火) 16:16:25 ID:MrwIZgZe
>38
説明文を見逃してるよ。

> 二式単座高等練習機七機を受領して、ジャワ島マランに空輸するよう命令を受けました。
とか
> 九七戦を改造した二式単高練を大車輪で製作していたのです。
とかを。
でも俺もパっと見たとき、そう勘違いしたw

それにしてもいい文章だな、欲しい説明が簡潔で分かりやすい。他人に説明することに慣れた
人の文章なのかな。

40 :マンセー名無しさん:2008/03/12(水) 09:04:44 ID:jaf5fcDm
シルバー回顧録
ttp://homepage3.nifty.com/yoshihito/index.htm

じいちゃんが頑張っているサイト。
一読してみて、良ければ激励の一つもしてあげてくれ。

41 :33:2008/03/12(水) 20:14:21 ID:EuLEp69R
太刀洗の飛行場はなかなか活況を呈して居りまして、私が明野飛行学校で共に学んだ
同期生が一式戦や三式戦を駆ってニューギニアやビルマの戦線に出発するのに会いまし
た。彼等の意気軒昂な気迫に較べて、満飛製の二式単高練の整備に苦労している私は
一寸情ない気持ちになりました。また、勤労女子挺身隊のうら若い女性が飛行機の清掃
をしてくれていたのも楽しい記憶となって居ります。

エンヂン交換の終った飛行機の試験飛行をしていた鴫山機が、故障で四国の海上に不
時着したのが4月28日でした。八方手を尽して捜索した結果、瀬戸内海の三島沖合で機
体故障のため海上に不時着して居りましたが、本人無事でやっと安心しました。

翌4月29日、私は鴫山君収容のため三島海軍航空隊に飛びました。当時の言葉で云
えば天長の佳節です。陸軍の飛行機が来たので大変歓迎して呉れまして私は祝賀会の
宴に招かれました。私は先日の収容作業の礼を申して鴫山君を連れて帰ろうとしますと、
こんな目出度い日に来た客人がそそくさと帰る事があるもんですかと、無理に引留められ
て一杯飲まされました。次の飛行を控えているので少し押えていましたが元来嫌いな酒で
はないのでつい飲み過してから、海軍さんの心配するのを振り切って離陸しました。なん
と瀬戸内海の島々の景色が美しかったこと、これは私の生涯ただ一度の飲酒酩酊飛行で
した。誠に若気の至りです。


42 :33:2008/03/12(水) 20:18:46 ID:EuLEp69R
太刀洗を離陸するとそのすぐ下、福岡県八女郡が私の生れ故郷です。17年1月戦死し
た私の兄もここに眠って居ります。俺もそのうち会うよと云い乍ら彼の生前好きな煙草を投
下して知覧飛行場に向かいました。熊本上空附近に来ますと猛烈な不連続線に遭遇しま
した。操縦桿に?っていないと座席から放り出されそうになります。一つ一つが始めての
経験ばかりです。命からがら知覧飛行場に着陸しました。その時田志兵長は手前接地し
て機体破損、連浦を出てから既に2機損耗しました。夫々2名は代機を受領して後刻追及
しましたが、これではマランに果して何機到着するやら、編隊長として誠に心細い限りで
す。

知覧で最後の内地の夜を過して翌日沖縄に向けて飛び立ちました。始めての洋上航法
ですが、地図を見ますと途中沢山の島がありますから大した事はないと思っていましたが
、丁度初夏の候で海上は一面の靄がかゝっていて殆ど雲中を飛んでいるのと同じです。
現在は、無線機その他の航法機材が完備していますので大した事は無いのですが、当時
の私には大変な苦労でした。ほのかに見える洋上に輸送船が見えますと、あゝ此処でエン
ヂンでも故障して呉れたら救助して貰えると思うとついその輸送船の上空を離れ難くなり
ます。

私より操縦経歴の古い村上軍曹はやきもきし乍ら正しい進路を示します。右に沖縄を外
すと東支那海、左に外すと太平洋に海没するより外はないのです。やっと沖縄本島が見
えて高度を下げると前方に飛行場が見えました。やれやれやっと着いたと思って着陸した
ところ、これは目下工事中の嘉手納飛行場で目的の那覇飛行場はその直ぐ南にあるとの
こと、あわてて飛び上ると直ぐその下が目指す飛行場です。冷や汗ものの航法失敗談で
す。今後、村上軍曹を航法参謀に任命して前途を克服する作戦を練りました。


43 :33:2008/03/12(水) 20:26:06 ID:EuLEp69R
当時の那覇はむし暑く梅雨の真最中、また夜な夜な遊び好きの我々は懐中乏しくなっ
たので早く台湾に行かねばなりません。と申すのは、台湾以南は兵站旅館で宿代は無
料と聞いていたからです。天気予報もろくに見ず台湾の花蓮港飛行場に向けて飛び立ち
ました。当時の天気図は現在新聞に出ている程度のもので極めて雑なものです。石垣島
の近くに来ると前方は一面台湾坊主の暗雲です。これではとても台湾には辿りつけません。

丁度見えた石垣島の飛行場に着陸しました。ここは海軍の飛行場です。島の廻りには
悪天候で不時着した飛行機の残骸があちこちに見えます。ここで海軍の指揮官に悪天
候の為に不時着したので燃料の補給を頼みました処、誠に不本意な返事です。

ここは海軍の飛行場で陸軍の飛行機燃料を補給する事は出来ぬ,丁度近くに陸軍の爆
撃機が不時着して、それから抜いた燃料があるからそれを補給して行けとの事です。こ
ちらは新品少尉、向うは海軍大尉喧嘩にならないので仕方なくそれを補給して天候の回
復を待って台湾に向けて出発した処、大変な故障が待ち受けていました。

不時着した陸軍爆撃機から抜いた燃料を濾過しないで補給したので殆ど全機が気化器
に芥が詰って、エンジンはプスプス、やっと花蓮港に危機一髪で滑り込みました。またこゝ
で燃料タンクと気化器の清掃に大変な手間を喰いました。どうも今度の第二次大戦の敗
因に陸海軍の共同作戦の不一致もあるように感じますがその一端を覗いたような気がし
ました。


44 :33:2008/03/12(水) 20:30:04 ID:EuLEp69R
それにしても各機の滑油消費量は次第に増えるばかりでした。当時日本一の高山、新
高山をあっぷあっぷし乍ら越えて屏東に到着しましたが、未だ全行程の三分の一です。安
全確実に目的地に到着するには更に何等かの対策が必要であると感じて居りました。即
ち、当時としては常識外の滑油の増加タンクを機体に設置する事です。

私は屏東航空廠に交渉に行きましたところ、担当者はこれは前代未聞の事ですと吃驚
しました。私は現在迄の航法データを示してその必要性を力説しました処、快く諒承して九
七戦の胴体タンクを増設してくれました。これで概ね800kmの航続距離を確保して一安
心です。然し機体重量は益々増え離着陸操作は慎重を要するようになりました。当時の
搭載量を列記しますと次の通りです。機関銃2丁、燃料増槽2個、滑油増槽1個、それに
我々の身の回り品です。

日本を離れる迄にこれ丈け準備すればまあまあとして後はマラン迄最も効率の良い経
路を選んで早く戦列に加わろうと勇躍屏東を飛び立ちました。航法にも或る程度自身がつ
き我が編隊のチームワークも概ね完成しました。

少々の悪天候も気にせず、屏東離陸後は直ちに雲層突破、雲上で編隊を組んで一路
バシー海峡を越えて初めての外地フィリッピンに向いました。着陸した処はラオアグ、始め
てニッパ椰子のピストに休んでマンゴの御馳走になりました。
(つづく)


45 :マンセー名無しさん:2008/03/12(水) 21:07:53 ID:Ut8J51LA
前スレは読めないのでしょうか?

46 ::2008/03/12(水) 22:56:03 ID:PtJ1ZyDE
祖父様 体験談か〜♪

今からしれば もっと戦争の話し聞いとけばよかたな〜♪

南方宣戦 テレマカシーなご挨拶と 軍刀差して 猿に首輪付けて犬みたいにして 飼い馴らしてる 写真はあるんだけどな!

直に聞いた話したら あんま ねーんだよな! 親父通してしか!

でも 死ぬ前に 俺侍の子だけど 苦しいいの我慢デキネ 早く死にたいて 言うて病床から 2週間で死んだのは 覚えてんな〜♪

直に聞いたたら 南北では 捕虜のビンタ張り係りだた とか、海上からの上陸のとき撃沈されたが足点く浅瀬だから 助かった とか そんな話しだたな!

明治生まれなんに 179cm

∵:・ゝ(゜ε゜*)ノブヒャ♪

祖母さんが夫婦喧嘩したとき祖父様に言うた 一句 は 内緒! 超ウケッから!

47 ::2008/03/12(水) 23:06:00 ID:PtJ1ZyDE
>46

南北ては を 南方ではに訂正 m(__)m

48 :マンセー名無しさん:2008/03/12(水) 23:10:19 ID:Il52HjDv
知覧出身の者です
小さい時から祖父母に特攻隊の色んな話を聞いて育ちました
今度、まとめて書いてみる…余裕があったらだけど

49 :マンセー名無しさん:2008/03/12(水) 23:14:50 ID:Il52HjDv
飛んできて書き込んでみたがここハングル板かよ

50 :マンセー名無しさん:2008/03/12(水) 23:55:01 ID:1wztVfRf
私は軍事板から飛んできたのでここしか見とらん

51 :マンセー名無しさん:2008/03/14(金) 23:16:18 ID:qa2u+vzk
ハン板だと解った途端に口調がガラッと変わったのがワロスw


52 :マンセー名無しさん:2008/03/15(土) 08:59:16 ID:nYmKFugs
家の死んだ爺さんが、よく話していました。
南京で犯しまくった娘の白い尻が忘れられないと・・・
命乞いをする子供や老人を笑いながら殺すとき
自分が神になったような気分だったと。
上官にいびられた憂さ晴らしには、
強姦と子供年寄りを銃剣で刺しまくるのが一番だったと。
家の爺さんは大日本帝国軍人の誇りです。

53 :マンセー名無しさん:2008/03/15(土) 09:27:57 ID:TtLpUzzJ
32 名前:マンセー名無しさん[] 投稿日:2008/03/15(土) 08:26:11 ID:nA24Yxe8
なんだこの糞コテの博覧会は

54 :マンセー名無しさん:2008/03/15(土) 09:47:08 ID:TtLpUzzJ
間違えた、こっちだったな。

952 名前:マンセー名無しさん[] 投稿日:2008/03/15(土) 08:46:57 ID:nYmKFugs
どうせ、取り戻せないよ(ボソ

55 :マンセー名無しさん:2008/03/15(土) 10:00:59 ID:Q0tqx9u7
ID:nYmKFugsは犯罪者の子孫として、一族の全財産を中国様に献上すべき。
ID:nYmKFugsは犯罪者の子孫として、戦時売春婦のおばあさんに奴隷として仕え、祖父の犯した罪を償うべく努力してくるべき。

卑怯な犯罪者の祖父に相応しい孫のようだが、せめて祖父の犯罪を償うべく努力をするべきと思う。
それは人間として当然のこと。
ささ、ID:nYmKFugsは犯罪者の子孫として南京にいって、自称日本兵に強姦されたとかいう
被害者のおばあさんたちに心からのおわびと、目に見える謝罪として全財産を渡してくるのだ。

56 :マンセー名無しさん:2008/03/15(土) 11:15:49 ID:nYmKFugs
>>55
何人犯せるか、何人殺せるか、部隊で賭けをしていたそうです。
家の爺さんは、合計28人で賭けにボロ負けしたそうです。
それでも、家の爺さんは大日本帝国軍人の誇りです。

57 :マンセー名無しさん:2008/03/15(土) 12:03:55 ID:DpH5kuRv
朝鮮人ってのはどうして息を吐くように嘘をつくのかね┐(´∀`)┌ヤレヤレ

58 :マンセー名無しさん:2008/03/15(土) 12:22:24 ID:nYmKFugs
家の死んだ爺さんが、よく話していました。
南京で犯しまくった娘の白い尻が忘れられないと・・・
命乞いをする子供や老人を笑いながら殺すとき
自分が神になったような気分だったと。
上官にいびられた憂さ晴らしには、
強姦と子供年寄りを銃剣で刺しまくるのが一番だったと。
家の爺さんは大日本帝国軍人の誇りです。

59 :マンセー名無しさん:2008/03/15(土) 12:29:18 ID:DpH5kuRv
ごめんごめん、朝鮮人も当時は日本人なんだよな('A`)

60 :マンセー名無しさん:2008/03/15(土) 12:39:47 ID:1Cs8KGwK
なあそんなにでっかい釣り針に引っかかって楽しいのか?

61 :マンセー名無しさん:2008/03/15(土) 12:47:10 ID:DpH5kuRv
そうやってすかすのが意味あるとは思えんけどね。

62 :33:2008/03/15(土) 16:08:51 ID:WvQq9Z/G
次はクラーク飛行場着陸前右手にコレヒドール要塞を見、私の兄がこの上空で緒戦にお
いて散華した情景を想って居りました。
次はパラワン島のポートプリンセス飛行場へ、一飛び毎に風物が異って想いは益々マラ
ンに募ります。パラワンの飛行場は全くの前線基地です。飛行場の周囲はビッシリ椰子林
で囲まれ滑走路の距離も短く離着陸がさぞかし困難であろうと感じました。燃料補給、点火
栓清掃、その後直ちに離陸して空中集合しますと一機が馬力が出ないらしくなかなか追い
着きません。何か故障があるものと判断してまた着陸して点検しました処、某君は点火清掃
後その一つを装着するのを忘れて離陸したとのこと、あの狭い飛行場でよく離陸出来たもの
と、今でもマラン会で会う度に思い出話になって居ります。

次はラブアン、此処は北ボルネオの重要基地です。各機種がひしめき合っていました。当
時私が航空士官学校時代面識のあった、重爆隊の石橋戦隊長に会いました。挨拶します
とお前はどの飛行機で来たかと問われましたので私の乗っている二式単高練を指します
と、お前ようこんな飛行機で飛んで来たな、誘導機も無しにこんな航法するなんて昔は考
えられなかったよ。呉々も慎重に飛んで目的を達せよと申された事が印象に残っています。

次はクチンえ南方特有の好天に恵まれて呑気に飛んでいましたが、前方の雲行きが怪
しくなって来ました。猛烈なスコールです。上空の積乱雲は越せそうにもなく海上もとても
突破出来そうもありません。引返す決心をして旋回して居ますと下に思いかけず飛行場が
見えましたのでそこに着陸してスコールの通過を待つ決心をしました。場周旋回して着陸
降下に移った時左右の椰子の木に大きな白い鳥が見えます。成る程ボルネオのオウムは
大きんだなと感心しつゝ着陸すると、椰子からするする降りて来たのは現地人の子供達で
した。

↓輸送経路 参考までに
ttp://www.soutokufu.com/up/img/up490.jpg


63 :33:2008/03/15(土) 16:14:59 ID:WvQq9Z/G
なかなか天候が回復しないので当地で一泊しましたが、その晩は大歓迎です。めったに
来た事のない飛行場に臨時に我が編隊が着陸したのですから、現地の志気が上ったの
でしょう。司政官は当時の土肥原中将の同期生で早く軍人をやめて南方進出の先兵とな
って居られる方でしたが、こゝに日本人の開拓者魂を垣間見たような気がしました。その
晩皆と相談して、最も早くマランに到着するには一路南下してポンチャナック経由バンカ島
を経て、バンドンに行く事に決定しました。

翌朝、皆さんの歓待を謝しつゝビンツルを離陸一路ボルネオの樹海を越えてボンチャナッ
クえ、編隊を解散して着陸降下中地上を見ますとどうも滑走路上に沢山の人々が作業し
て居ます。当時未だ工事中だったのです、直ちに着陸止めの翼を振りつゝビンツルに帰り
ましたが帰途一機足りません。どうやら誰かが着陸したらしい、大きな事故にならねば良
いがと念じつゝ、ビンツル着陸後各所に連絡した処、某君が着陸して車輪パンクの程度で
一安心。それにしても修復器材も無いだろうし当地で整備力のあるのはクチン飛行場と判
断して前進して対策を立てるつもりの処、彼は無事修理して我々と合流しました。
当時はその位、各飛行場の情況が判らない状態でした。
クチンの一夜は、パイナップルのうまかった事、ダイヤ族の首狩り情景を示す博物館、華
僑がこんな遠い処にも根を張っている事等が記憶にあります。

次はシンガポールへ、4,000m以上の積乱雲を越えての航法は誠に爽快です、刻々近づ
く昭南島、マニラ以来二度目の近代都市です。カラン飛行場に着陸すると各機始めて戦
地らしく分散配置の掩体壕に地上滑走です。飛行機の後方からは捕虜の英人が上半身
裸でボロのパンツをはいてゾロゾロ続いて来ます。滑走援助です。こちらの下手な地上滑
走を棚に上げて右押せ左押せと叱り乍ら掩体壕に入れて飛行機を降りますと、捕虜の英
人共はペコペコし乍ら手伝います。戦争は負けるものじゃないなと得意になって居りました
が、2年後は反対に私達がその境遇に陥るとは想像もしませんでした。


64 :33:2008/03/15(土) 16:29:40 ID:WvQq9Z/G
シンガポールでやゝ近代的空気を吸って戦勝気分を味わい乍ら、次の目的地はパレンパ
ンです。空の神兵ともてはやされた空挺隊の降下した飛行場です。ムシ河の流れには石
油が混じっているのが上空から見えます。石油の一滴は血の一滴と云われた事等を思い
乍らのんびり着陸したところ、編隊長機は着陸でひっかけられて車輪パンク!何とも恥し
い次第でした。村上君がパンドンに飛んで車輪を空輸して呉れ、やっと救われました。
パンドンは上空から見ればカラフルな街です。異国情緒たっぷりでした。

いよいよ最後のコース、あこがれのマランです。途中の山々、積乱雲、段々畑、マラン
はどんな処だろうと思ううちにマラン盆地に入りました。
さて飛行場は何処だろうと地図を出して標定しますと、アルジュノ山の南方になって居ます。
一生懸命探しましたが飛行場はありません。イライラしながら旋回していると右手にやっと滑
走路が見えました。当時の地図はその位不確実なものでした。やれやれやっと辿り着いた
のが、確か昭和19年5月下旬だったでしょうか、其処でまた、マラン会員の皆さんと青春の
ドラマが始まったわけです。(以上)

付  言
昨年2月私達20数名は30年ぶりにマラン飛行場を訪れました。現在はインドネシア空軍の
重要基地になって居ります。思いがけぬ暖かいマラン空軍基地司令官の招宴には、戦時中
マラン飛行場で働いていたインドネシアの老人が、数名招かれて居りました。本当に心憎い
接待です。
我々旅行団員を兄として遇して呉れました。当時の兵舎も飛行場も、またマランの町も殆ん
どその儘でした。前にも述べましたように試行錯誤を重ねながら辿り着いた8,000qの距離
は、現在は航空機の発達に依って一飛び、8時間位になりました。今後益々、我々マラン会
員は日本とインドネシアの架け橋となって、お互いの親善を高め合おうではありませんか。
(おわり)

次は、地上部隊の船舶移動の様子を投下します。こちらも苦労の連続だったようです。
投下のピッチは土、日、水でいこうと思ってます。


65 :マンセー名無しさん:2008/03/16(日) 02:16:52 ID:iwqS/r3y
おつ〜

66 :33:2008/03/16(日) 23:20:27 ID:AhP+A6fn
マランへの道

石 橋  慎 三

門司岸壁にて植田隊と別れてよりマラン到着までの二ヶ月半の状況を記憶にある限り書いて
みようと思う。人名、階級、其の他誤があるかもしれないが大筋には間違いない。階級はその
時のものを使用した。
 
第36教育飛行隊ジャワ島マランへの移動の為、最終部隊として植田中尉以下三百数十名と
始動機、燃料タンク車、スペリー、無線車、トラック、四輪駆動車、側車等の車輛15、6台で連
浦を出発したのは未だ肌寒き四月頃であった。

興南の駅より鉄道にて夜出発した。釜山より日昌丸にて下関へ、朝鮮海峡は相当荒れてい
た。下関の旅館へ分宿、三、四日目であったか門司船舶司令部より音羽山丸へ乗船の指示
があった。直に乗船準備を整えて門司岸壁に集結した。本船は沖に停泊していてハシケにて
連絡していた。植田隊長はハシケ第一便にて連絡の為本船に行かれた。荷物の積込み、兵
員の輸送が行われていた。間もなく岸壁に戻られた隊長は私を呼ばれた。「オイ、あの船に皆
んなは乗れんよ」

私は驚いた。船は一万屯余であり乗船部隊は我我だけ、そんなことは考えられないことであ
った。然し考えてみれば、第一に自動車をハシケに積んで沖まで行き本船に吊り上げねばな
らないが、岸壁にはそれらしき器械は見当らず、只広々としたコンクリートの広場であった。又
本船もタンカーであり自動車を吊り上げるウインチがないと云うことであった。
次に本船はタンカーで人員輸送の設備はなく、三百数十名の給食が不可能との事であった。


67 :33:2008/03/16(日) 23:27:42 ID:AhP+A6fn
「オイ、自動車と今此処にいる者を連れてお前残れ、後から来い。」私は目玉が飛び出る程驚
いた。全く予想外の状況変化であった。
この時既に大半の乗船を終り残ったものは私石橋少尉以下百三十数名と自動車とドラム罐
数本の自動車用燃料であった。最終ハシケで植田隊長は行って了った。この間一時間位で
あったろうか。

百三十数名と自動車十数輛を如何に早く且つ安全に目的地マランへ到着させるかと云う大
責任が任官間もないチンピラ少尉である小官の双肩にのしかゝって来た。
今までは植田隊長の指示命令通りに行動すればよかった。自分なりにも努力もしたし又責任
もそれなりに感じて来た心算であったが此の時責任と云うものがどんなものか、又今までも責
任を自覚していたとは云え、それは植田隊長を頼りにした上のことであり不充分であったこと
を身にしみて感じた。

ハシケで遠ざかり行く隊長以下戦友達を残された者百三十数名と共に見送りながら、これが
最後かもしれないと云う気持が胸中を走り抜けた。衛生関係玉村軍曹、主計小原曹長であっ
た。衛生上の責任を負った玉村軍曹は大変なことであった。
一般軍務に関しては既に実戦の経験者である後藤准尉が居た、堀見習士官もいた。深須軍
曹の外太刀洗以来の連中が多勢いた事は大変心強かった。

我々は再び下関へ引返して旅館に分宿、次の便船を待つことになった。毎日毎日旅館の中
でゴロゴロしているのは大変であった。外出は防諜上厳禁であった。
暫く下関に滞在するのを余儀なくされたので、下関衛戊司令官へ申告に行った。司令官であ
った年配の大佐殿は私に懇々と防諜の必要を説かれ外出禁止を強く求められた。憲兵の目
も厳しいものであった。


68 :33:2008/03/16(日) 23:46:13 ID:AhP+A6fn
こうした旅館での罐詰生活は次第に堪えられない状況になって来た。二、三日ならともかく一
週間十日となると理屈をつけた行軍演習程度ではどうにもならない。幸にも我々には自動車
があった。燃料も持っていた。
小月の防空戦隊の戦隊長阿部少佐は36教飛編成までの連浦に於ける一年間私の部隊長
であった。自動車行軍を実施した。目的地は小月である。小月まで約30km弱トラック五台に
分乗して出掛けた。

阿部戦隊長は大変機嫌よく迎えて下さった。ピストの前にキ八四、四式戦が翼を連ねていた。
この新鋭機を前にした飛行服姿の阿部少佐は正に空の勇者の風格があった。私達は最新鋭
機による実戦部隊の訓練を見学することが出来た。阿部中佐は一度マラン飛行場にも来られ
た筈である。

こんなことを毎日毎日続けているわけにもゆかない。困り果てた私は後藤准尉と相談をし外
泊許可を出して数日間帰宅させることにした。これは何でもないように思えるが私にとっては
重大事であった。相当な覚悟で踏み切った。
外出禁止で困り果てたとは云え実行に踏み切った最大の理由は、やはり二度と再び内地の
土を踏むことはなかろう。家族との再会は期し難い。この機会を逃したらもう絶望であろうと云
うことであった。

然し実際に行動に移すに当り先づ第一に憲兵の目がある。全部一度に宿が空になることは
問題である。緊急の場合直ちに帰隊出来なければいけない。許可権のある中隊長はいない。
等々むづかしいことばかりであった。然し実行することにした。
門司の船舶司令部に私の中学時代の友人(現東農工大教授)が勤務していた。私は彼に五
日以内には配船しない様申し入れた。
(つづく)


69 :マンセー名無しさん:2008/03/17(月) 02:00:50 ID:M2+cIB/X
乙。

70 :マンセー名無しさん:2008/03/19(水) 14:23:55 ID:l0SpPOfb
33氏乙です、上も下も大変だったんですね。機転を利かさないと自分が
行くべき場所にもたどり着けないとは。

>43
確か、海軍と陸軍では使用するガソリンのオクタン価が違って陸軍機の
方がオクタン価高いのでしたっけ。
それは気軽に補給できないでしょうね。



71 :33:2008/03/19(水) 19:40:15 ID:A9KuTfuX
軍隊では要領がよくないとやっていけないということは聞いた事があります。
こういうのを読んでいるとよくわかります。

海軍と陸軍の兵器の仕様が違うということは聞いたことあるけど、ガソリンもですか。
仕様を変えるメリットって何かあるだろうか。

前に乙やレスしてくれた人ありがとう。
兵器についての知識が乏しいもんで、気の利いたレスが返せなくてすみません。


72 :33:2008/03/19(水) 19:46:05 ID:A9KuTfuX
それから外泊先の制限をした。西は九州一円、東は大阪まで四国はダメ、離島即ち船で行く
ところはダメ。海が荒れて帰隊出来ないことが起る可能性がある為である。この制限は後藤
准尉と内密に相談を重ねた上の決定であった。
この様な制限をすれば三分の一位が該当するであろう。宿が空になることはない。緊急の場
合も兎に角帰隊出来るであろう等考えながら、中隊長代理陸軍少尉石橋慎三の名前で外泊
許可証を発行した。

代理とは窮余の一策であった。勝手な中隊長代理であった。該当者は喜んで帰って行った。
然し当然帰れないものも出る。隣町だから帰して呉れ。瀬戸内海の島だから帰して欲しいと
云う者が出て来た。これは最初から覚悟して居たことではあったが当面すると拒否することは
仲々むづかしかった。最後の面会の機会を与えると云うことが最大の理由であれば尚更である。

然し一つ許可すればその次の町も許可しなければならず、結局全部許可と云うことになって
しまうのであとの申し出は一件も受け付けなかった。
今後戦地のことを思い一度決心して決定したことは中途で変えることは一切やらない。万一
それが少々誤っていたとしても決して中途で変更はしない。それまでに充分考え尽くしての上
であれば止むを得ないと固く心にきめていた。終戦後クアラ飛行場に於いてこの考え方に支
えられたことがあった。

このようにしてあとの申し出を拒否し続けながらも、多数を遠くまで帰した場合万一事故でも
あったらとそれが恐ろしかったのも確かである。
その時笹生長次郎上等兵が現れて、帰宅の許可を申し出た。成る程許可線外であるが僅か
である。家庭の事情もあったように思う。私が前記のような大決心であったに不拘、笹生上等
兵の申し出を受け入れてしまった。拒否し続けるのに精神的に参っていたかもしれない。この
一ヶ月足らずの内に彼が戦病死し、これが最後の面会になってしまったことを思えば天の啓
示であったかもしれない。


73 :33:2008/03/19(水) 19:51:05 ID:A9KuTfuX
外泊ではなくて両親を呼ぶことにした。
私は郵便局から私の名前で下関まで来て欲しい旨電報した。御両親は何事かと驚きながらも
直に私のもとに来られた。そうして私の部屋で数日を過された。これが笹生上等兵と御両親
の最後の面会となった。
笹生上等兵はマラン到着に至らず、シンガポールに上陸、筑紫山南兵営に宿営中発病(病名
は忘れてしまった)ジョホ−ルバールの病院に入院したのは小原曹長と二人であったと思う。
二人を病院に残したまゝマランへ出発した。マラン到着後まもなく小原曹長は元気になって着
任した。その時小原曹長の報告で、始めて笹生上等兵の戦病死を知った。

最後にジョホールの病院に訪ねたとき、大手術後に不拘非常に元気で「すぐ行きます。大丈
夫です」と笑ったのが忘れられない。その後主治医であった老軍医大尉に会い後事を託した。
老軍医は大変親切な人で「オレが引き受けた。心配するな。元気にしてすぐ送ってやるよ。
こゝの看護婦は大変よい看護婦なので安心しなさい」と云われた。この病院には回復の見込
みのない患者もいた。看護婦達は小使いを出し合って材料を仕入れ、日本の匂いのする食
事、菓子等を作っては軍医の目をかすめては患者に与えていた。

軍医はそれを知りながら見逃して患者に最後の母国の味覚を楽しませていた。軍医殿はそ
の一部を持参させた。私もそれを頂いた。誠に美味であった。しかしこの話を聞いたのは賞味
した後であった。何とも云えない味が舌先に残った。私は安心してマランに向った。

そんな事を考えながら小原曹長の報告を聞いていた。今こゝに病状急変とは云え彼の元気な
報告が聞けないのは、甚だ残念であった。
下関での数日の面会は遺族の方々にとっても最後の思い出となって心に刻まれておられる
であろう。あの時私が電報を打つのを止めていればこの機会は失われていた筈である。会わ
せておいてよかった。もしやめていれば、あの時あゝしておけばよかったと三十六年後の今日
迄、いや一生心の奥に悔いが残ったことであろう。今でも切にそう思う。


74 :33:2008/03/19(水) 19:54:52 ID:A9KuTfuX
それはそれとして下関に於ける外泊許可が的を射たものであったか否かは問題だと考えるこ
とがある。戦時防諜上よいことではないのは確かである。
何れにしても我々の船団は門司港数日後、台湾沖で毎時十三浬の高速船団でありながら第
一回目の敵潜の攻撃を受けた。僚船有馬山丸に乗っていた兵隊の内、相当数が戦死した筈
である。

防諜上の義務を犯したという点に関しては後悔の念皆無とは云えない。これは私が植田隊長
と別れた後、最初にやった決定であり出鱈目であった。
この様な状況下約一ヶ月を下関に過し、記録によれば昭和19年5月29日マニラ丸に乗船門
司港より図南の途についた。

マニラ丸は九千屯余の老朽貨物船であった。老朽であるが故か厚い鉄板とリベットで組上げ
た頑丈な構造で、戦時標準船に比べれば装甲車と戦車のちがいは充分であった。
車輛は船倉の下の方に積み込まれた。乗船した兵員は数千名に及んだことだろう。
何しろ総員は輸送指揮官以外我々には知る由もなかったが、船倉の坪当り十三名とか十四
名とか云う話であった。当時坪当り何名乗せたと云うことが、船舶司令部の腕前だという噂を
聞いたことがある。

十四、五名分の装備を一坪に置けば山積みとなる。人が立つ所があろう筈がない。正に満員
電車さながらであった。輸送指揮官は歩兵聯隊長の陸軍中佐、輸送副官は聯隊副官の大尉
であった。この副官が物分りの大変悪い人でシンガポール下船迄、我々の様な便乗者連中
は悩まされ通しであった。
考えかたによっては一々我々の言い分を聞いていては仕事にならなかったのかもしれないが、
何れにしろ我々にとっては難物中の難物であったことは間違いない。この様な輸送指揮官、
副官の下、兵員を鈴生りにしたマニラ丸は前途の苦難も知らぬげに静かに岸壁をはなれて行
った。


75 :33:2008/03/19(水) 19:59:39 ID:A9KuTfuX
夕暮れ近き岸壁は人影もなかったが、建物の屋上に二人の娘さんの姿が見えた。頬杖をしな
がら我々の出港を無言でぼんやりと眺めていた。私は傍の誰かを呼んで「ホレよく見ておくん
だ。多分あれが日本の娘を見る最後だろうよ」と云ったことをよく憶えている。
その日出港した船は十三隻。船団は六連島沖に終結。夜半に南へ転出して行った。好天に
恵まれ、一日一日と暑さを増しながら南進を続けていた。

船団速度は十三ノット半、相当速い船団である。然し我がマニラ丸は十三ノット半について行
くのが大変だった。煙突からは黒煙もうもう、夜は火の粉を吹き上げて老体に鞭打って息切れ
寸前の状態である。他の船はヂーゼルエンヂンの優秀船であり、マニラ丸はお荷物の外何
者でもなかった。昼の黒煙、夜の火柱は敵潜に船団の所在を知らせるのに充分であった。

船上では超満員の兵隊が居る所がなく、通路、階段、ハッチの上、ウィンチの上、所きらわず
至る所隙間なくあふれた。暑さが増すにつれて裸の連中が増えて行った。然し海中に投げ出
された時は着衣が絶対必要である。皆に衣服を着けさせるのは大仕事であった。

門司港出港数日後の夜半、潜水艦に対する警戒態勢が下令された。続いて退船準備である。
全員救命具をつけーと云われても、我々にはそんなもの一つもなかった。唯、救命用のいか
だを若干持っていたように思う。丁度私は船倉の中に居た。

前以って用意していた縄梯子で中に居た全員を甲板に送り出した。うしろから肩をたゝかれた。
振り返ると隣に陣取っていた少尉である。彼は初年兵を多数南方へ連れて行く途中であった。
彼は自分の部隊にも縄梯子を使わせて呉れと云う。私は遠慮なく使えと云い置いて部下が残
っていないかどうか確かめた。その時一人が背中を見せて座っている、後藤准尉であった。
(つづく)


76 :791 ◆9zatwGbxuw :2008/03/19(水) 20:42:09 ID:nPhLunNc
33氏、乙です。
指揮者というものが如何に悩み多いものか良くわかるね。

仕様の違いですが、航空機に関しては陸海共同で研究した事があるそうです。
ただし、その頃は飛行機そのものが未発達で今後どうなるものかはっきりせず、
なおかつ陸海で欲しい能力が違い(海軍の場合、航続距離と時間が必ず必要な
ため飛行船の方が本命だったりしたそうです)、結局はそれぞれ独自に研究を行
った結果のようです。
仕様を変えるメリットというより、仕様を統一するメリットがなかったという事ですね。
で、気付けば仕様統一するのが困難な事態に、スロットルの開閉すら逆だった訳で。


77 :マンセー名無しさん:2008/03/19(水) 20:43:13 ID:nPhLunNc
ごめん、コテがそのままだった……以降、名無しに戻ります。


78 :33:2008/03/22(土) 23:44:30 ID:r+CgjJHu
乙、ありがとうございます。

>仕様を変えるメリットというより、仕様を統一するメリットがなかったという事ですね。

なるほど、言われてみるとそうですね。


79 :33:2008/03/22(土) 23:47:46 ID:r+CgjJHu
「オイ、早く上れ」「先に行ってて下さい、あとですぐ行きます」私の上づった声に比べて何とも
落着いた声であった。私は実戦の弾をくゞった者の落ち着きを見た。当夜有馬山丸に魚雷命
中、沈没はまぬがれたが、へさきの一部が吹き飛ばされた。近くに居た有馬丸であったが、音
を聞いたか火柱が見えたか全く記憶にないが、翌朝台湾を右に見て南下する時並んで航行中
の有馬山丸のいたいたしい姿が見えた。船の先端の一部が吹きとばされて形を変えて大穴
が口を開けていたが、さすが当時の最優秀船だけに傾くこともなく航行を続けていた。然しあ
の様子では相当数の戦死者を出したことであろうと思われた。海中には雷撃時とばされたと
思われる大小の梱包が海面に浮き沈み流されていた。その間に多数の鱶のヒレが見えがく
れしている。背中がゾクッとした。
深夜海中に投げ出された人間に喰らいつく鱶の様子が頭の中をかすめた。
台湾の南端を廻って高雄港に入港した。有馬山丸修理の為である。

六月の高雄は大変暑い。マニラ丸はこぼれる程の兵員を乗せたまゝ高雄の岸壁に接岸した。
こゝで例の副官に手を焼いた。兵隊の運動の為、岸壁までの上陸許可を求めた。最初は無視
された。梯子を貸した例の少尉外、数名の同士を集めて三、四回の交渉の結果、岸壁で体操
をやることになった。
これは乗船していた者全員に大変な恩恵を及ぼした。岸壁に降り立つことが大問題になる程
、船上の生活はひどいものであった。衛生状態も次第に最悪に近づいていた。下痢患者も増
加する一方であった。
兵隊全員が陸上で久しぶりに充分に手足を伸ばすことが出来た。この快適さは文字に表せる
ものではない。

次に考えたことは酒保品の確保である。
門司出発の際我が部隊の酒保品は全部音羽山丸に積み込んでいたので、手許には何一つ残
ってはいなかった。船中他の部隊は若干の酒保品の分配があったが我々にはなかった。
私は此度は私一人の上陸許可を副官迄申し出た。私の上陸の理由は我々の部隊長が空輸
途中今頃丁度、屏東の飛行場に到着している筈である。依って私は部隊長に報告と命令受
領の為、屏東まで行かねばならないと云うことであった。副官ではらちがあかぬので輸送指
揮官の中佐殿に直談判に及んだ。


80 :33:2008/03/22(土) 23:56:12 ID:r+CgjJHu
歩兵中佐の輸送指揮官には部隊長が屏東にあり、我々が船中にあると云うことが仲々理解
出来なかった様だ。やっと私一人の上陸許可が与えられた。
高雄の六月は暑い。夏服であるが防暑服ではない立襟長袖の軍服、軍刀をぶら下げ、長靴
をはいて上陸した。私の懐中には三百円余りの金があった。内地出発に先立ち戦地加棒を
二、三ヶ月前払いして貰っていた。その外奉天出張時の残金と三月末の年度末賞与等で割
合大金があった。

交通機関は全く判らない。唯、町と思われる方向へ歩く外なかった。どこでも港から町までは
相当の距離がある。果物屋とお菓子屋を捜した。果物屋でバナナを買った。一人一本当り約
百四十本位、次いで菓子屋で金平糖を石油カン一杯買い求めた。両手に広げると相当な目
方である。軍刀が邪魔になった。頭上の太陽は遠慮ない。大変暑い、汗が目に入る、途中何
回休憩しただろうか、やっと港の近くまで来た。もう少し行けば船が見えると云う所で憲兵軍
曹に呼び止められた。

「モシモシ少尉殿、どちらまで行かれますか」「そこのマニラ丸まで帰る」憲兵軍曹殿は先刻承
知であった様だ。「荷物は何ですか」「これは見ての通りバナナである、カンの中は金平糖だ、
兵隊の酒保品として買って来た」「よく判りました。然しキンチョウは困ります」この時始めてバ
ナナのことを台湾ではキンチョウと云うことを知った。

バナナは防疫上船への持込みは禁止されているのでこの先へもって行かれるのは困ると云
う。この暑さの中を苦労してこゝまで持って来て甚だ残念である、皆の顔が見える様だ。それ
で私は憲兵に云った。若し君に会わなかったら私はキンチョウを持って行って了ったであろう、
従って君は向うを見ていて見なかったことにして呉れ、皆が待っているんだ。
憲兵軍曹殿は真意は充分に理解して大変同情はして呉れたが、見てしまった以上見過すこ
とは出来ないと職務に誠に忠実な憲兵軍曹殿であった。私は止むを得ず、「よし判った、これ
はお前にやるから持って行って皆で喰え」と云った。憲兵さんは誠に困ったような顔をした。石
油カン丈を持って帰船した。内地で甘い物に遠のいていたので皆で僅かではあったが味わった。


81 :33:2008/03/23(日) 00:01:34 ID:IkQtTfl/
高雄の岸壁の倉庫には輸送出来ずに山積みされた砂糖の袋が見えた。
すぐ傍のドッグで作業中の有馬山丸の修理は、唯破損されたところだけ蓋をする程度のこと
で人員を下船させることなく、そのまゝの状態で続けられていた。毎日堪えられぬ様な暑さが
続いた。鉄製の船な太陽でどんどん暑くなってゆく。接岸していては風もない。まるで火の上
のフライパンの中に人間が多数投げ込まれた様なものだ。夜は夜で船内の気温は仲々下が
らない。蒸し風呂、否サウナと云った方が近いかもしれない状態であった。皆は甲板で寝た。
人間の畳を敷いたようなもので一寸の隙間もない程であった。

一週間近いこの様な状況から開放される時が来た。
新しく船団を組んで出港することになった。一旦港外に出たマニラ丸は再びゆっくりと港内へ
引き返し始めた。船団の指揮官からか、護衛艦の方からか判らないが兎に角マニラ丸は速
度が遅く、十三ノットを出す為に煙突から火の粉を吹き上げては敵船の目を逃れるのに誠に
不適である。従ってあとの低速七ノット程度の船団に加わって貰い度いと云うことであったらし
い。

又、岸壁に逆戻りである。
高雄で船上生活は誠に暑かった。衣服は内地を出る時着たまゝであった。洗濯など思いも及
ばぬ状態であった。今思えばフンドシ等どうしたのであろうか。臭気が鼻をつきいつの間にか
あちこちに虱が湧き出した。今までいなかったのが何所からやって来たのかあちこちに現れ
た。全く湧き出したと云う感じである。虱がわくとはよく云ったものだとつくづく感心した。
やっと出港の日が来た。
高雄港外に集結した船団は大小合せて二十三隻であった。二列縦隊の船団は堂々たるもの
であった。護衛の為改装空母雲鷹及駆潜艇数隻が付き添って呉れた。
見たところ堂々たる船団は一路南進。時折り空母より発進した飛行機が我々の上空を舞う。
船足はゆっくりしたもので七ノット半。
船上の衛生状態は増々悪い。もう殆んど全員が下痢患者である。私も一日四回五回は便所
通いである。
(つづく)


82 :マンセー名無しさん:2008/03/23(日) 01:09:05 ID:ffY7OwqY
乙であります!

83 :マンセー名無しさん:2008/03/23(日) 01:54:11 ID:Zfd39tGF
お、続きが来たな。乙。

84 :33:2008/03/23(日) 22:10:51 ID:agcsImWH
その又便所が大変なものであった。舷側に二枚の板が30pくらいあけて突き出されている。
その回りを申し訳程度に囲ってある。下は海、用足しの姿が外からよく見える。風通しはまこ
とによい、そこでの下痢である。どこにどうなって消えるのやら、伝染病でも発生したら全員一
コロである。然し幸いにも伝染病はなかった。が下痢は止まらない。こんな便所の前に又行列
が出来る。憐れなる状況であった。然し食べ物は出来る丈食べた。食べなければ脱水症状に
なり衰弱がひどくなるからである。

敵潜水艦が近くまできているとの情報が流れる。飛行機が警戒しているが何ともならないらし
い。警報がない限り何もすることはない。唯食っては出すの状態である。山砲を引き出して敵
潜威嚇士気鼓舞を兼ね射撃をしようと云うことになった。2,000mで撃った弾はすぐ目の前に
チャポンと落ちた。海の広さがよく判った、海上の2,000mは非常に近い。威嚇射撃どころで
はなかった。

相変らず潜水艦の恐威にさらされながら船団はパラワン島沖を南下していた。船上で虱をつ
かまえて眺めるのも仕事の内であった。双眼鏡を逆にして眺めると大きく見える。手の平に乗
せて、堀見習士官と虱の競争をさせた。虱の競争などマニラ丸に乗った者でなければ知らな
いことであろう。

下痢は止る気配が全くない。次第に体が衰弱して行く。こんな状態で海中に投げ出されたら
忽ち溺死することであろう。
船団はリンガエン沖にさしかゝった。真昼間、目の前で大音響と共に水柱が高く上がった。四
千屯位の中型タンカーの中央部より若干後方に魚雷命中。警備の駆潜艇が走り回る。魚雷
を受けたタンカーは命中箇所より後部が折れ曲り、最後部は水面すれすれであったが沈没は
しなかった。直に僚船が曳航してマニラに入港した。

マニラでは沖に停泊、上陸は出来なかったが現地人が小船で本船の回りに果物を売りに来
た。綱で果物を吊り上げるのであるが、金の受け渡しが仲々むづかしいようである。
数日後、船団はマニラを出港したが行先は不明、船の数も大分少なくなったようである。護衛
の空母も駆潜艇も見えなくなった。


85 :33:2008/03/23(日) 22:19:12 ID:agcsImWH
或る日、甲板での喫煙の禁止が云い渡された。船はボルネオのミリーに到着していた。ミリー
は石油の産地で水面の油に引火の恐れありとのことで甲板上の喫煙禁止と相成ったようで
ある。マニラ、ミリー間は平穏無事であった。ミリーでの用件は不明のまゝ直にシンガポール
に向け出港。明日の夕方か明後日早朝にはシンガポールに入港と云う夜半、突然対潜警戒
が発令された。僚船が一隻攻撃を受けたらしい。間もなく各個シンガポールに急行すべしと云
う命令を受信して、我がマニラ丸も速度を上げながらシンガポールへと急いだ。

早朝シンガポールが見え出した。もう大丈夫。次第に船は港に近づいて行く、町や木の緑が
判然として来た。その時出港して行く二隻のドイツ潜水艦があった。艦体は淡いブルー、司令
塔の横に鮮やかにドイツ国旗が画かれていた。
甲板上で数人の乗組員が帽子を振り手を上げていた、我々もこれに応えて手を上げた。何だ
か無条件に胸が熱くなったのを忘れない。シンガポールのドッグで日本の手で手入れされた
ドイツ潜水艦は再び母国へ帰って行くのであろうが、帰り着けるであろうかと思わずにはいら
れなかった。

岸壁接岸は夕方であった。附近の景色を見る余裕など全くなかった。全員疲労甚だしく満足
にあるけるのは数える程であった。然し、我々には自動車があった。宿舎迄の移動はあまり
心配しなかった。

種々の手続きを終り輸送指揮官の指揮下をはなれて上陸したシンガポール第一歩である。と
ころが自動車の揚陸は明日になるとの連絡をうけた。これは大変なことになった。船当局と
種々交渉したが無駄であった。上陸した皆んなは岸壁に座り込んでいる。今夜の宿舎はシン
ガポール西側筑紫山にある英軍兵舎跡南兵舎であることが判った。そこまで相当の距離が
ある。とても歩いて行けそうにない。私は野田文一郎軍曹を呼んだ。

彼は大変元気であった。野田軍曹はシンガポールは二度目である。何も判らない私は彼に道
案内をたのんだ。彼とてシンガポールに精通しているわけでもなかろう、まして港の中判ろう
筈もないが彼はよく知っていた。先づ第一に電話のある所をさがした。航空地区司令部に電
話した。既に夕方であった為か副官はいなくて週番士官が電話に出た。


86 :33:2008/03/23(日) 22:35:40 ID:agcsImWH
「当方は36教飛の最後部隊であるが只今上陸したが、兵隊の疲労衰弱著しくとても皆帰兵営
迄の行軍不可能である車輌を出して欲しい」週番士官は我々の到着を知っていた。
「本日到着した航空関係部隊は外にも沢山ありますので見習士官指揮の下に自動車十数台
行って居ります。既に現地に到着している頃です。見習士官に連絡の上その車輌をお使い下
さい。当方には今一台もありません」

週番士官の回答は以上の様なものであった。私と野田軍曹は手分けして埠頭の中を走り回
ってやっと地区司令部の見習士官を見つけた時はホットした。見習士官は一台を我々の為に
割り当てて呉れた。無理は云えない。歩兵部隊は携帯兵器及び公用行李其の他大荷物を持
って既に歩き始めて居た。其の時航空部隊の有難味をしみじみ味わった。

第一回目として歩行が困難なる者及び全員の装具を乗せ、堀見習士官に設営を命じ先発さ
せた。車は空で間もなく帰って来た。もう既に暗くなって来た。こんどは元気な者を残し乗れる
だけ乗せて出発させた。自動車が出発後私は残った者と一緒に歩き出した。道に迷うことは
なかった。埠頭から南兵営迄行軍している兵隊でつながっていた。

途中で引き返して来た車に拾われて南兵営に集結したのはもう大分遅い時刻であった様に
思う。それから私は翌日の車輌揚陸の打合せである。二十名位の人員をつれて行かねばな
らない。埠頭までの足の確保である。つかれた等云っては居られなかった。然し翌日自動車
も揚陸を終り割に快適な環境に落ち着いた。

ところがである第七方面軍軍医部より通牒があり石橋隊は又々外出禁止である。マニラ丸船
上での下痢患者多発の為、マニラ丸に乗っていたもの全員伝染病の疑いで隔離されて了っ
た。

船上生活に比べれば此度は天国である。然し出てはいかんと云われると出たい。おまけに一
寸出れば旨そうなものがいやと云う程ある。バナナ、パパイヤ等果物の外中華料理も本場で
ある。甚だ無理である。全員元気回復である。然しどうしたことか下痢が仲々止まらない。全
員下痢が止まらないと伝染病の疑が晴れない。
(つづく)


87 :マンセー名無しさん:2008/03/23(日) 23:17:20 ID:iKx7YY7+
乙!

88 :マンセー名無しさん:2008/03/24(月) 04:27:31 ID:ngZ/48Ke
>>45
http://p2.chbox.jp/read.php?host=society3.2ch.net&bbs=korea&key=1153618912&ls=all

これ?

89 :泣けたのでコピペ:2008/03/25(火) 23:41:39 ID:EnIOXEcK
可愛い奥様:2008/03/25(火) 22:40:39 ID:Kt2QWhkI0
今日何度か会ったことがあるんだけど
話こんだのは初めてのおばあさんに戦中戦後のお話を聞く機会が
ありました。
私が「靖国って馬や犬、鳥も祀られているんですね、驚きました。」と
話したら、
「私の父が馬を飼っていて赤紙が来て
馬を戦地に赴かせる為に貨物に乗せるとき、
馬が父の服をくわえて話さなかったのよ。
馬が戦地で死んだときは戦死の通知
が来たのよ」と話してくれて、思わず泣いてしまった。
今年は私があの馬の像ににんじんをお供えするからと思ってしまった。

それと、日の丸君が代の件も怒ってたよ。
アメリカは他民族国家で国旗や国歌を大事にするのに、
日本人はもっと大事にしないと!って。

満州にソ連が攻め入ってきたときは本当に悲惨で
今でもその時を思い出して眠れない人がいるんだって。
娘を連れて日本に帰る途中でソ連兵に集団でレイプされた
娘さんは、お母さんがその娘の将来を悲観して海に突き落として
殺してしまったそうです。
きっと恥という言葉でがんじがらめにされて正常な判断が
できなかったんでしょうね。
このお母さんを責めるのは簡単だけど、自分だったら
どうしたんだろう?と考えも考えきれない。

私達は年配の方にもっと戦後戦中の話を聞くべきだと思ったよ。

90 :33:2008/03/26(水) 20:10:47 ID:mf4mcPsN
私は先づ最初に第三航空軍司令部に報告と次の命令を受ける為出掛けねばならない。今は
足がある大倉上等兵の運転する側車で出掛けた。出掛ける前兵站で道は聞いていたが馴れ
ぬ所は道も判りにくかった。

司令部で参謀部に行き第36教飛石橋少尉以下百三十数名到着した旨を告げた。若い参謀
部員は一寸姿を消したがすぐ現れて、佐藤先任参謀が会うと云って居られるので一寸こい。
一寸こいにはあまりよいことはない。佐藤先任参謀は広い参謀部の一番奥で大きな机の前
に太った体をデンと据えていた。

少佐の参謀が直立不動で立っていた。佐藤参謀は赤鉛筆で少佐参謀が持って来た何かの
原案を直している最中であった。書類は真赤になっていた。少佐参謀への指示の声は大変大
声であった。私はこれは困ったことになったと思ったが帰るわけにもゆかなかった。

私は直立不動である。私は出来る丈大声で「第36教育飛行隊石橋少尉以下百三十○名○
月○日到着しました。人員、器材共異状ありません」聞き終るや否や「来かたが遅い」と倍位
の大声が返って来た。私はびっくりしたが部員の連中には驚いた様子が全々ない。聞きなれ
た声であったのかもしれない。それから奉天航空廠にて飛行機受領に始まりシンガポール到
着までの詳細を報告した。

報告が終るまで私は非常に永い時間の様に感じられた。佐藤参謀は半眼にてうなずきながら
聞いて居られた。報告が終って佐藤参謀は
「判った。大変御苦労であった。お前の部隊の飛行機は途中事故もなく全機無事マランに到
着している。安心して呉れ、もうこゝまで来れば安心だ。あとの航海は潜水艦の心配はない。
兵隊をよく休養させて、判ったな」

その声の何と身に滲みたことだろう。最初の大声からとても想像出来なかった。この佐藤大佐
は終戦後マレーで部下の責任を負い自決された。佐藤大佐の自決の真相は先年文芸春秋
の紙上に「五人の自決者」と云う題で詳細に報道された。深沢君がコピーしてマラン会員に渡
していたので読まれた方も多数居られると思う。
軍人として人間として尊敬に値する人物であったと其の印象は強烈である。このあと一度も接
する機会がなかったのを残念に思う。


91 :33:2008/03/26(水) 20:29:56 ID:mf4mcPsN
其の後数回第三航空軍司令部を連絡の為訪れた。仲々隔離状態は解除されない。全員は
相変らず下痢は止らないが元気である。小原曹長と笹生上等兵が入院することになった。私
はジョホールの病院へ、船舶司令部へ、第七方面軍軍医部へと多忙であった。

何度目であったか三航軍司令部を訪れた時、所要の為中尾中尉がカラン飛行場に来て居る
ことが判った。連浦以来数ヶ月振りに会うことが出来た。中尾中尉にも相談したと思うが、この
まゝでは何時まで南兵営に止め置かれるか判らない。どうかして脱出しなければならない。そ
こで私は脱出を強行することにした。

三航軍参謀部にジャワ行きの配船を強く希望した。参謀部員は貴隊は目下伝染病の為隔離
中であり、第七方面軍々医部の考えもあり乗船は見合わせたらどうかと云う。我々は目下至
極元気である。方面軍々医部の方は何とでもするから是非配船して欲しい旨強く申し入れた。
其の時は承知して呉れたか否か判らなかったが直ぐ乗船命令が来た。明日は乗船日である。
私は部隊に直に出発出来るよう指示して寝てしまった。

明くれば乗船日である。早朝私は第七方面軍の軍医部を訪れて三航軍の命令に依り本日シ
ンガポール出港ジャワへ向う旨報告した。軍医部では驚いた。私は軍医部長に呼ばれた。
軍医部長に同じ様に報告した。軍医部長は大変に腹を立てていた。「君の部隊は目下隔離中
である。出発を許可することは出来ない。だめだ」軍医部長は強硬であった。然し私は引き下
がらなかった。「部長殿、私は第三航空軍の隷下の部隊です、三航軍の命令に従わなければ
なりません。第七方面軍軍医部の命令に従うわけには参りません」

軍医部長は怒り心頭に達した様である。私は一生懸命であった。終いに「勝手にしろ、あとは
知らぬ」と云い置いて席を立った。私は"しめた"である。これで出発を阻む何物もなくなった。
急いで南兵営に帰り、善は急げ間髪を入れず自動車を連ねて埠頭へ向った。営門でぐずぐ
ず云っていたが無視してしまった。埠頭には五千屯程の貨物船が待っていた。


92 :33:2008/03/26(水) 20:36:09 ID:mf4mcPsN
乗船人員は我々だけである。問題はない。器材の積込みは直ぐ終った。人員の乗船、船上は
広々としている。何しろ我々だけなのだから。然し此の船は弾薬を積んでいた。弾薬の外は
我々の自動車だけである。一寸気持が悪い。然し一同開放感を胸一杯吸い込んだ。

そうだ、シンガポールに於けることで一つ書き落した。それは例の酒保品のことである。上陸
後私は早速貨物廠に酒保品の受領にトラックで出掛けた。貨物廠で相当量の酒保品を要求
した。係員は「行先はどちらですか」「ジャワだ」「あゝそうですか、もう少し御辛抱下さい。ジャ
ワに行けば何でもあります、此処はビルマ方面へ行かれる方が優先です」私はただ聞いてい
た。本当かなあ。

私の後から来たのはアンダマン諸島に行く部隊であった。係員はアンダマンと聞くや要求され
る品物以外にもこれがある、これもある、必要ならばいくらでもと思い切り支給しているのを見
た。私は要求を引き込めた。日用品の最小限を受領して帰隊した。兵隊さん達には誠に申し
訳ないと思いながら。

ジャワの天国ビルマの地獄とは既に耳慣れた言葉であった。ビルマ方面の方は航空、地上を
問わず御苦労でありました。それからシンガポールで私達は始めてバナナの味噌汁、パパイ
ヤの漬物を食べました。青いバナナをどうして食べるのか判らなかったが味噌汁のバナナは
甘くうまかった。

一寸横道にそれたが開放感一杯の我々を乗せた船は単独で静かに出港して行った。此度は
誠にのんびりした航海であった。船上は運動場の如き広さであった。船上は涼しかった。食べ
物も上等であった。何も言うことはない。おまけに敵の潜水艦の脅威は全くない。

不思議なことに下痢は一度に止まってしまった。下痢患者は一人も居なくなった。何一つ薬を
飲んだわけでもないのに。
(つづく)


93 :33:2008/03/29(土) 15:58:58 ID:uyItS8Ic
楽しき航海であった。警備兵として乗船していた海軍上等兵曹以下数名が居た。或る日その
内の一人が輸送指揮官、艦隊が見えます、ブリッヂに来て下さいと呼びに来た。此の船では
私が輸送指揮官であった。此処では輸送指揮官もへったくれもなかった。私はブリッヂに登っ
て行った。

水平線の彼方に数隻の軍艦の姿が見えた。船に備え付けの眼鏡で眺めた、どえらい戦艦が
見える。海軍上等兵曹は武蔵か大和か判らないが何れかであると云う。一万屯級巡洋艦らし
きものが二、三隻見える、駆逐艦が艦隊の周囲を回っている、空母もいる、帝国海軍健在な
りの感を深くした。然しこれが帝国海軍の最後の偉容であったかもしれない。

こんな気楽な航海の後ジャワ島タンジョンブリォークの港に着いた。沖に蓬来丸が上甲板を
海上に出して沈没していた。ジャワ攻撃の際今村大将が乗っていた船である。

我々の船は岸壁に着いた、外に入港した船はなく直に器材の揚陸、人員の上陸。簡単な手
続きを終え、兵站の指示によりジャカルタ市内ガンビルの兵站宿舎に自動車を連ねて出発し
た。タンジョンブリォークとジャカルタの間道路沿いに線路がある。全く平和そのものの田舎の
風景である。鉄道の線路の上で野生の猿が遊んでいるのが見えた。日本ではお目にかゝれ
ぬ平和なのんびりした風景である。

ガンビルの宿舎についた。町には物資があふれていると云う感じであった。果物は名前を知
らぬものばかり山の様に売ってある。安い。お菓子、何でもある。之また安い。シンガポール
の貨物廠で聞いたことはウソではなかった。これで皆安心したらしい。ガツガツしなくなった。

私には未だ仕事が残っていた。マラン迄の列車の手配である。バンドンの飛行団への報告で
ある。私は一日早くジャカルタを列車にて出発、バンドンに立寄り其の後ジョクジャカルタで後
から来る本隊と合流する様に計画した。


94 :33:2008/03/29(土) 16:02:24 ID:uyItS8Ic
先に出発した私はバンドンの飛行団司令部を訪れた。飛行団長は飛行機で出発の為飛行場
へ出掛られ留守であった。私は高級部員(中佐)に報告を終え帰ろうとした。帰ろうとした私は
当番に呼び止められた。団長が帰られたので来て呉れとのことである。飛行機故障の為出張
中止来隊されていた飛行団長に御眼にかゝった。私はびっくりした。連浦時代隣の宜徳の部
隊長であった田中大佐殿であった。連浦時代大分絞られた思い出が一度に蘇った。あゝ又こ
の南の果てで一緒になろうとは、実感であった。

ジョクジャカルタで後発と待ち合せて合流した。ジョクジャカルタの駅で売っていたユデ卵があ
まり大きいのでよく聞いてみるとアヒルの卵であった、少し色が青かった。始めて見るアヒル
のユデ卵だった、みんなで食べた。

列車は予定通りマランの駅にすべり込んだ、プラットフォームに迎えの連中の顔が見えた。駅
から飛行場まで15km。多分自動車で行ったと思うが記憶が判然としない。部隊に到着。営
庭に整列。部隊長八代大尉に到着の報告をした。
あゝこれでこゝまでの私の任務が完了した。私はほっとした。戦友の大歓迎をうけ本当に安心
した夜を迎えた。

私は心身共に疲労の極に達していることを自覚していた。立っているのも苦しかった。然し部
隊長には頑張って見せていたが、部隊長に「当分使いものにならぬなー。バトーにでも行って
静養してこい」と山の上の方に追い上げられた。甚だ不満であった。これは部隊長の想いやり
であったらしい。そこには高級ホテルと病院と温泉と高級レストランが共存していたがないも
のは酒と女であった。数日で心身共に健康を回復、部隊に復帰した。
誠に苦難のマニラ丸でありました。
(おわり)


95 :33:2008/03/29(土) 16:07:33 ID:uyItS8Ic
我が南方始末記

鈴 木 郁 弥

昭和20年6月某日、我々を乗せた汽車は静かにマラン駅プラットフォームを離れて行きまし
た。それはまるで、故郷を離れて何処か遠い地へ行く様な感慨を持たせる出発でありまし
た。
以前、日本の地を離れて、この南方へ行く時のあの感じと良く似ておりました。
汽車の窓から見えるマランの街の姿・・・・・家々の赤い屋根、ヤシの並木、教会の銀
塔・・・・・等が後へ後へと流れ去って行きました。毎日見ていたスメル山、ブタクの山々が少
しづつ遠ざかって行って仕舞いました。我々を今見送って呉れているこれ等のものに対して、
一生忘れる事の出来ない思い出が、この時私の頭に植え付けられたと思います。

又、このマランとの出会いも大変感激的のものでありました。「流れ流れて、南はジャワ
よ!」と歌った位しか、当時のジャワへの知識がなかった私は、この街の清潔な事、そして
街行く人々の表情の明るい事に驚きました。街の中央に在る広場、大王ヤシの並木道、整
然と立ち並ぶ民家、物珍しさはあってもこんなにも美しい街は外には余りないのではないか
と感じました。

赴任した飛行隊は、当初第36教育飛行隊でありましたが、後に第26練成飛行隊に改編さ
れた若々しい部隊でした。部隊長も飛行隊長も我々を短期間に仕上げる為に日夜懸命の努
力をされておりました、広い飛行場にある飛行機は、はるばる朝鮮の連浦より幾多の困難を
排除して空中空輸されたものです。又、整備隊の御苦労も大変なものでありました。一個の
部品もこの地では仲々手に入らない状況です、この様な環境の中で、我々も期待に副う可く
飛行訓練に精を出しておりました。

然し我々も若かった! 風に揺らぐヤシの樹間に輝く南十字星を見ては、青春の血も騒ぎ、
黒髪豊かなジャワ娘の姿態に接しては、ほのぼのとしたロマンスを想起する年令でありまし
た。が、現実に立ち戻れば、我々は今、このマランを出発して、チレボンにある第34教育飛
行隊に向う汽車の中に在ったのです。


96 :33:2008/03/29(土) 16:14:24 ID:uyItS8Ic
チレボンに到着したのは、翌日の朝だと記憶しております。チレボン興亜なる煙草の産地で
有名なこの町は、マランよりはるかに小さい田舎町でありました。駅からトラックで着いた部
隊営舎もマランに比べると大変見劣りがしております、それに誠に暑い所でした。飛行場も
ジャングルを切り開いて作った様なものです。飛行機の離着陸の時はもうもうたる土煙が立
ち昇ります。給与の方も悪いし外出先も大した所はなかった様でした。只だ一つ丈け良かっ
た事は、煙草とチョコレートの配給が非常に沢山ありました。

ここの部隊にはバンドンの第17教育飛行隊から来た特繰二期の同期生が十数名おりまし
た。彼等にしても涼しいバンドンからこゝに来てバンドンを懐かしがっている気持ちは我々と
同じものであります。我々もマランを懐かしみ、出来れば再びマランに帰りたいと思っており
ました。
然し、世は戦争中です。
或る日曜日にチレボンの町に外出してみました。煙草工場の大きな煙突の見える広場のベ
ンチで一休みしておりましたら、七、八才の女の子が近寄って来ました。この娘はこの町の
町長の娘であると言っておりましたが、習いたての日本語で上手に「真白き富士」の歌を私
に歌って呉れました。この時この女の子の目は大変澄んでいて、この国の将来を物語って
いる様に見えました。

七月になりますと我々はバンドンに集結を命ぜられ、いきなり第106教育飛行団々長の原
田中将より直接「北方圏転用空中勤務者」を命ずると言い渡されました。その命令下達の部
屋には白布を掛けたテーブルがあり、その上には既に別杯の用意がなされております。どう
見ても何か出陣式の様な感じがし背中に冷たいものがさーと走り顔に熱い血が上りました。

果せるかな! 同中将の音頭で乾杯した後に「日本内地特攻隊として、充分お国の為めに
やってもらいたい・・・・・・・・・諸官の武運を祈る」との激励の詞がありました。
(つづく)


97 :マンセー名無しさん:2008/03/29(土) 18:04:21 ID:8MpB6jdf
おつ

98 :マンセー名無しさん:2008/03/30(日) 16:36:21 ID:Kj5bl/Pz
乙です。

99 :マンセー名無しさん:2008/03/31(月) 13:35:56 ID:sQTta8gZ
米・英軍がドイツ・日本で行った強姦・輪姦
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1164091308/
336 :世界@名無史さん:2007/12/28(金) 12:20:02 0
なるほど、滅びの美学ですか?
民族浄化の脅しを受けて武装解除したとたんアメリカ兵やロシア兵に滅茶苦茶にやられましたからね
やつらからしたら負け犬に涙なんて観念はないのでしょうね
サイパン戦で生き残った田中徳祐・元陸軍大尉(独立混成第47旅団)の証言
・「米軍は虐待しません」の呼びかけを信じて洞窟から出てきた婦女子全員が素っ裸にされ、
 数台のトラックに積み込まれた。「殺して!」「殺して!」の絶叫を残してトラックは走り去った。
・次には滑走路に集まった老人と子供の周りにガソリンがまかれ、火が付けられた。たちまち
 阿鼻叫喚の巷と化した滑走路。我慢ならず我が兵が小銃射撃をしたが、米軍は全く無頓着に蛮行を続ける。
・火から逃れようとする老人や子供を、米軍はゲラゲラ笑いながら火の中へ蹴り飛ばしたり、
 銃で突き飛ばして火の中へ投げ入れる。2人の米兵は草むらの中で泣いていた赤ん坊を
 見つけると、両足を持って真っ二つに引き裂いて火中に投げ込んだ。「ギャッ!」といふ悲鳴を
 残して蛙のように股裂きにされた日本の赤ん坊とそれを見て笑う鬼畜の米兵ども。
・こんなに優勢な戦闘状況にも拘らず、米軍は毒ガス弾(赤筒弾)攻撃まで仕掛けてきた。
・マッピ岬にたどり着いた田中大尉は、岩の間に一本の青竹を渡し、それに串刺しにされた
 婦人を見た。さらに自分と同じ洞窟に居た兵士や住民が五体をバラバラに切り刻まれて倒れているのを眼前に見た。
『正論』平成17年9月号「NHKウォッチング」  中村粲・元獨協大学教授、昭和史研究所代表 
361 :世界@名無史さん:2008/03/30(日) 10:10:56 0
>>336 http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Saipan
それなんとなく興味深いから、一応英版wikiにその出典を出して書いてみたが、すぐ消されるな。
単なる欧米人にとって都合のいいプロパガンダ記事に成り果てているよ。
一方日本版でも書いてみたけどまだ消されていないが。

100 :33:2008/04/02(水) 20:20:59 ID:BweHVWWT
この七月の時期では沖縄特攻作戦も同島の失陥で終り、遂には日本列島に接近しつつあ
る米機動部隊に対し、飛行機、舟艇による人爆攻撃が計画されて居りました。我々を含めて
ジャワ各地からの「北方圏転用空中勤務者」の結成式がバンドンで行われましたが、ジャワ
島以外でもマレー、シンガポールでも同じ事が実施されました。

今、その時の記憶が生き生きとよみがえってきます・・・・・ああ!これで異国の地に骨を埋め
る事がなく、緑り深き母国の海に自分の青春を投ずる事が出来るのだ・・・・・と喜びの心が
生じました。

いずれにしても、この戦さでは生き残れないのは先刻承知でありましたし、戦局が不利にな
ったこの時期、我々の如き特操出身のやることは只だ一つ、爆弾を持った飛行機をなんとか
操り、敵艦に体当り出来れば之に優る成功はありません。又、この様な覚悟を持って操縦を
志願したはずです。
戦後の調べで、飛び立って行った特操の数は三百人近くありました。そして、これ等の戦士
の霊は京都の護国神社や東京の世田谷観音寺に現在祭られてあります。

昭和18年、柏の第4航空教育隊に飛行兵として現役入隊した私は、郡山の第12航空教育
隊、更には高田の第13航空教育隊で対空無線を学んでおりました。学徒兵の第1陣として
同窓の学友達も各部隊に散っておりました。そして幹候合格の発表のあった日に、中隊長
より特操志願者は申し出ろとの催いがあり、私はためらわず真先きに手を上げた記憶があ
ります。その後、適性検査等になんとか合格し、宇都宮陸軍飛行学校で基本操縦を習い、
どういう訳かジャワのマランまで来てしまったのです。

それが又直ぐ、日本に帰らねばなりません。軍隊と言う所は全く当方の都合等は考えて呉
れない所です。とに角も、この時は日本に帰れると言う喜びと日本に帰れば最後だと言う心
の葛藤に悩まされたのも事実でありました。


101 :33:2008/04/02(水) 20:25:14 ID:BweHVWWT
七月の下旬、バンドン集結中のマランよりの転属者達は、夫々九七重、百重、双発高練等
に分乗してシンガポールへ向ってバンドン飛行場を離陸しました。機上から見える輸送編隊
の隊形は誠に見事なものでした。数えて見ると総数26機です。機内では各自、前記原田中
将より贈られた「必勝」の文字の書かれたハチマキを携行しておりました。

「さらば!ジャワ島よ!さよなら!」
自然と別れの歌が各自の胸の中で歌われました。既にこの時、マランは遠い彼方に去って
行って仕舞ったのです。
編隊はその翼に朝日を受けて綺麗に輝いておりました。今や、内地への輸送作戦は開始さ
れました。眼下には青々としたジャワ島の大海原が見え、上空所々にある大積乱雲が我々
を見送って呉れておりました。同日昼、シンガポールのカラン飛行場に無事着陸した我々は
第三航空軍司令部差し回しの便で宿舎の南明閣に入りました。

この南明閣の食堂で、こんな事があったのを記憶しております。
食卓でビルマ帰りの大尉殿と同席しました。その大尉殿は我々の方の献立を見ながら「貴
公達のは随分と豪華だな」と言われますので、先方のを見ると当方より可成り落ちています。
「宜しかったら、どうぞ、どうぞ」と差し出すと、彼は非常に喜んで「航空隊の給与は良かです
なー」と語っていたものです。

シンガポールには、二、三日居りましたが、その間、色々と街を見学しに行きました。丁度こ
の時にシンガポールには知人がいた事を思い出しました。マランへ赴任途中シンガポール
に着いた時の事、ある関係から石原産業のシンガポール支店長さんへの紹介状を持ってお
りました。お訪ねした結果、色々市内見物の便を計ってもらいました。若し居れば、当時のお
礼等申し上げたいと思い連絡したところ、私の事を良く覚えておられ、日本に帰るのなら、今
夜大いに飲みましょうと最後のシンガポールの夜楽しませて頂きました。あの方は今どうし
て居られる事でしょうか。


102 :33:2008/04/02(水) 20:28:12 ID:BweHVWWT
ジャワ軍票はシンガポールでも通用した様でした。日本への土産として革カバンを一つ買い
ました。之が後日復員船に乗る時に問題になったのでした。
当時のシンガポールはジャワと比較して何となく落ち着かない様子でありました。住民の眼
も大変反日的であり、物価も高く、消費物資もジャワより少ない様でありました。

突然、町中で平服の日本人に呼び止められた事があります。彼の説明によると、彼は特操
の三期との事です。折角日本より来たのですが訓練すべき飛行機が無い為め、情報機関の
仕事をやっているとの事でした。長髪平服で支那人街に接触しているそうです。中には支那
人の娘と偽装結婚しているものもいるそうです。

さて、シンガポールから仏印へ飛び立ちました。今度は編隊ではなく単機航法です。タイ湾
上空には時々英軍スピットファイアーが出るので編隊はヤバイとの事です。カラン飛行場で
百式重爆撃機に十二、三人づつ乗り込みますと機長が「皆さん、索敵の方をお願いします」
との事、「まかせとけ」とは言いましたが敵戦闘機に発見されれば一コロです。いさゝか心配
な飛行になりそうです。

丁度タイ湾の真中高度三千位に達したころ、後方索敵の同僚から「敵らしきもの1機」と伝送
がなされました。一同ぎょ!として示された方向を見ますと、高度五、六千、乗機の進度より
右120度、直距離約五、六千の上空を小型機が1機見られました。が、相手はこちらを知る
や知らずや南下して行ってしまいました。この小型機が日本軍のものなのか、又は敵機であ
ったのかは、神ならぬ身で未だ知り様がありません。

海上五、六百まで降りてきた百重からやっと仏印の海岸線が見え始めました。やれやれと
一同の顔にも血が上って着ました。然し、重爆と言う代物は着陸には厄介なものの様です。
旋回すると何となく眼が回りそうになります。矢張り、飛行機は一人乗りが一番性に合ってい
るなと感じました。


103 :33:2008/04/02(水) 20:36:31 ID:BweHVWWT
着陸した所はカンボチアの首都プノンペン飛行場でありました。こゝは可成り大きな航空基
地です。戦闘第50戦隊等が展開しておりました。暑さはジャワどころではありません。日中
34,5度の大変な所です。プノンペンの街から一里位の所でした。この基地には特攻宿舎と言
うものがあり、又、特攻食と言うものがありました。既に我々より先きに日本へ帰った連中が
ここを通過しますので、ここの飛行場大隊(第81飛大)は北方圏転用者の専属部隊の感が
ありました。時任少佐がこの飛大の部隊長でした。

ここで毎日内地からの迎えの飛行機を待っておりました。次々にMC20や九七重に乗り単
機で出発するのを見送りました。バンドンから来た同期の一部も出発しましたが、彼等は仏
印より支那大陸を飛び飛びにして上海に着き東支那海を渡って九州に飛ぶコースです。
彼等の中のある一機は夜間東支那海上空通過中、運悪く敵機動部隊上空に出て仕舞いま
した。その為め、敵艦より猛烈な対空射撃を受け、必死に逃げ切ったそうです。日本に帰る
事自体が容易な事ではありません。

終戦の月の八月になりました。
我々の乗る迎えの飛行機は未だに到着しませんが、その後も南方各地からの集結は続い
ておりました。その中には日本で別れて以来の懐かしい同期の者もおりました。
然しこの時期には、既に日本の中枢部でポツダム宣言受諾の準備が進められておりました
ので、我々の方へまでは手が廻らなかったと思われます。

八月十五日の暑い朝が来ました。
飛大本部より本日正午、第1種軍装にて通信室前に集合の命令が発せられました。天皇陛
下の玉音放送が日本から来るとのことです。この何日か前にソ連軍が満州を攻撃中とのニ
ュースも入っておりました。
暑い中、集った我々にはラヂオの雑音が大き過ぎてその内容は全く分りません。
解散した我々の間では、多分ソ連参戦の為め内外の日本将兵に対する激励の放送であろ
うと想像しておりました。
(つづく)


104 :マンセー名無しさん:2008/04/03(木) 06:07:49 ID:8hlEMNP7
乙であります

105 :33:2008/04/07(月) 00:18:44 ID:vivVeccD
ところが、八月十八日になりますと、ある通信社からの情報として日本は無条件降伏をした
事が知らされました。
そんな馬鹿な!今、我々は内地特攻隊としてこの地まで来ているのだ、その我々を放って
おいて日本内地が敗れたとは到底信じ切れません。

然し事実だったのです。
さて、そうなると我々は一体之からどうすれば良いのか?まさか、出て来たジャワに再び帰
る訳にも行きません。とに角も今は、第三航空軍か南方総軍の指揮下にあるらしい、そして
この飛大では客分である。色々と議論が百出しました。結局、この飛行場大隊に吸収される
事になり、飛大では特別攻撃隊だから特別の字を残して特別中隊及び特別小隊を編成する
事になりました。

この中隊及び小隊は総て飛行機操縦者からなっております。即ち幹候、特操、少年飛行兵、
予備士官等でした。特別中隊の隊長は幹候出身の渡辺中尉、本部員は幹候の七、八期が
当り、第1第2第3小隊長は特操の1期が3名に、小隊付きには特操2期が各小隊に2名づ
つ配属されました。全員で300名居たのではないかと思います。一方特別小隊は隊長に幹
候出身者がなり、後は全員特操1期と2期で50名位だったと記憶します。

宿舎の位置は中隊が陸軍病院附近、小隊はそれより少し飛行場寄りにあり、竹の柱にヤシ
の葉の屋根であり、中央が通路でこれの両側に50センチ高さの床があり、ビールビンの中
にガソリンを入れその口にボロ布を差し込み、火を付ければランプになるものを作りました。
然し、之は全く危険なランプで、倒すとそこ等一面火の海となり、一、二回大火事になった事
がありました。

戦争がいきなり終ったので、一週間位は各自ボーとなり、なにもやらずにぶらぶらばかりし
ておりましたが、之まで貯蔵してあったウイスキーやら甘味品を大配給して大宴会をやった
事もあります。そして飲むほどに酔うほどに色々計画予定も出ました。例えば、日本内地は
敗れたかもしれない、然しここ南方軍は健在である、南方軍隷下の飛行機500機、又、数十
万の兵力を集めて飽くまでも戦争を続行すべきだ!


106 :33:2008/04/07(月) 00:22:12 ID:vivVeccD
あるいは、日本国家百年の計の為め、全員山に入りゲリラとなり国家再興の捨て石となろう
ではないか。又、ある者は否、戦いは終ったのだから我々は早く日本に帰り、我々を待ってい
る同胞と共に国の復興に努力する事が天皇の御意思である等々・・・・・・・の意見が出ました。
実際には個々に又は数人単位で山に入った者がいた事も確かです。

之等の離隊者を連れ戻すべく、我々の何人かも山に捜しにいきました。
そして、連れ戻した者もありましたが、中には遂に帰らずにあの地に残った人のいる事をこ
の眼で見ております。

ともあれ、百八十度変針した我々でしたが、一応附近の警備やら治安維持の任務に従事し
ておりました。
某日のこと、英印軍の命令により日本軍飛行機を受領に行くから使用可能な状態にしておく
可しとの通信が入りました。その受領の日の事は今でも忘れ得ません。朝、数機の輸送機
がプノンペン飛行場に着陸しました。

日本軍用機の一式戦、九七重、百重等は既に翼の日の丸が塗りつぶされ英軍のマークが
画かれております。輸送機から降りた英軍パイロットが日本軍パイロットに機の諸元等を教
えられておりましたが、そのうちに1機の一式戦に英軍操縦者が乗り込みました。日本軍の
整備兵が車輪止めを外しますと機は直ちに地上滑走に入りました。
我々がかたずを飲んで見守る中を出発線より走り出した隼は滑走路の半ばで見事空中に
飛び上がりました。

不思議にもこの時、我々日本軍の飛行機が敵手に渡されたと言う惜しさは感じられません
でした。むしろ、失敗しないで飛んで呉れ、之は日本軍の一式戦なのだから大事にしてやっ
て呉れと言う気持ちで見ておりました。
次々と隼は何処かに行って仕舞いました。一方、重爆や輸送機の方がどうなったかは記憶
に残っておりません。多分、シンガポールへでも行ったのではないでしょうか。


107 :33:2008/04/07(月) 00:24:44 ID:vivVeccD
それから数日後、このプノンペン飛行場にMC20輸送機が1機、胴体に緑十字を付けて舞
い下りて来ました。たまたま、ピストに来たこの機の操縦将校は、私が宇都宮陸軍飛行学校、
金丸原教育隊に居た当時の教育隊長の清水千波大尉でありました。

「隊長!お懐かしい」、「おお!良く元気でいたな」と本当に感激の一瞬でありました。ビルマ
の空中作戦に重爆第98戦隊の中隊長として活躍された後、内地の教育隊長になられた、こ
の隊長は「身体を大切にな」と言って我々を送り出して呉れたのに、それがこのプノンペン飛
行場で再会するとは。

給油中のわずかな時間の話しに依ると、清水大尉は南方総軍の飛行班長をやって居られ、
総軍幹部と日本から来られた大命伝達使を乗せて、南方各方面に居る現地の司令官等に
天皇の意を伝えて、速やかに終戦業務に入る様との命令を持って飛んで来たとの事であり
ました。

いみじくも、戦後30年振りに又お目に掛る機会を得、現在72才のお年にかゝわらず、未だ
にレシプロ機の操縦桿を握りアメリカやヨーロッパにまで飛び続けて居る「飛行機野郎」の生
き方には誠に「空は男の行くところ」の感、大なるものを感じさせます。

さて、この時期この仏印の地も何となく騒々しくなって来ました、植民地仏領印度支那を再び
我が物にせんと上陸して来たフランス軍に対して、この仏印の諸国の民族独立の戦争が始
まりました。

プノンペン附近においても、ジープにフランス旗を立てたフランス兵の姿を見る様になり、原
住民との間でゴタゴタが起こり始まりました。この反抗運動に手を焼いたフランス軍はこの鎮
圧を日本軍に命じました。丁度、ジャワにおける終戦後の日本軍と似た立場にあった様で
す。


108 :33:2008/04/07(月) 00:29:33 ID:vivVeccD
べトミンのゲリラ活動は、山に隠れ町に潜んで仲々手強いものの様です。然しフランス軍の
命令に従わないと日本に帰ることが難しくなるとの状況判断から当飛行場大隊の特別中隊
にもゲリラ鎮圧の命令が来ました。
そこで、特別中隊の中で選抜された元特攻隊の人々(その数不明なるも百名位ではなかっ
たか?)は、使い慣れない三八銃を持って、第二グランドに狩り出されて行きました。私達は
それまで、小銃の実弾射撃等は10発位しかやっておりません。

一難去って又一難とはこんな様な状況の事を言うのでしょう。戦闘隊員は胸に何とも複雑な
思いを持って出発して行きました。然し、本気でやろうとは一人も考えておりません。フラン
ス軍は後方での督戦、こちらは銃を上に向けてポンポン、当たる訳がありません。又、ゲリラ
側も日本軍の強さを知っておりますから、まともに向って来ません。

フランス軍丈けがツンボ桟敷にいる状態です。・・・・今夜フランス軍を夜襲するから日本軍は
横に隠れていて下さい・・・・と言うゲリラ側からの連絡に、どっこい承知でこちらが退避して
いる間にフランス軍がやられたり、逆に日本軍から・・・・今夜あの部落をやるから、村から出
ていなさい・・・・等と連絡しドンパチをやってもゲリラ側の人的被害は皆無等と言う事がしば
しばです。

その中に、フランス軍にも日本軍のやる気の無い事が分り、むしろ武器をゲリラ側に渡され
ては危険であるとの判断から日本軍には間も無く協力解除になり中隊もプノンペンに帰って
来ました。然し、流れ弾に当って若干の負傷者も出ました。他の部隊では戦死者もあったと
聞いておりますが、大変気の毒な事でありました。
(つづく)


109 :33:2008/04/09(水) 19:54:14 ID:YIiefoix
20年の11月になって仕舞いました。
その頃になると、日本への復員の話しも除々に現れ始めました。そして或る日、第81飛行
場大隊はサンジャックに向って前進せよと言う命令がやって来ました。大隊は引越し準備で
大騒ぎしましたが、之で日本に帰れる希望が出て、先ず先発隊を出して途中の露営地の偵
察をなし、次いで、設営隊が出され露営地の設営がなされました。

この後、本体はこのプノンペンの地を徒歩或いはトラック、船で去って行き、こゝに日本軍の
サイゴン又はサンジャックに向かっての大移動作戦が開始されました。私はたまたま出発の
日に、胃ケイレンに苦しんでおりましたので、遂に本隊からは置き去りになり、数日後、患者
隊を編成してトラックにより本隊を追求する事になりました。

メコン河を渡る時などはトラックをイカダに乗せたりもしましたが道路面は大体良好で快適な
自動車行進が続きました。又、ある部落では支那軍の小部隊と出会いました。彼等の装備
は大変悪く兵員も疲れている様でした。この部隊は何処からやって来たのか分かりません
が、戦争も既に終わりましたので日本軍も支那軍もありません。我々はトラックの上からお
互いにニヤーと笑って別れて来た記憶もあります。

サイゴン附近までたどり着きますと本日は日本軍の降伏式を行い、武装解除をすると言う英
印軍の命令が出されておりました。我々通過部隊もその命令に従う事になり、その降伏式
場に行きました。

グルカ兵が自動小銃を持って我々を背後から警戒しております。式場中央のテーブルには
ユニオンジャックの旗が置かれております。日本軍は先任順に英印軍中佐の前に進み軍刀
をテーブルの上に置き敬礼をして降伏の印を示しました。

誠にこの時は、敗戦の実感を身を以って味合いました。
然し、英印軍中佐は次の様なことも言っておりました。「貴官等の日本刀の中に名刀があれ
ば、その刀の作者名と由来等を添付して頂きたい。英本国に持ち帰って大事に保管するで
あらう」・・・・・数振りの名刀も有った様でした。


110 :33:2008/04/09(水) 19:58:51 ID:YIiefoix
さて、丸腰になった我々は途中の中継地でやっと本体と合流する事が出来ましたが、この中
継地は先発した設営隊の努力で宿舎が出来ておりました。こゝが又大変な所で30センチ位
のムカデ等が出現する南方の秘処と行った所、サソリ、蛇、ムカデ、トカゲとの同居が続きま
した。

サンジャックと言う町は、サイゴンから南に下った所に在る、小型ながら綺麗な港町です。町
の前面が南支那海、後方には小山が横たわっております。家々はフランス風の石造りで、
割合暑さが少ない所でした。

我々の属する飛行場大隊の外にも各種部隊が沢山集結しておりましたが、一応こゝに駐屯
軍司令部を開設し復員までの間、我々はこの駐屯軍として移駐して来たのであり、決して捕
虜の扱いは受けておりませんでした。戦後の話しでシンガポールにおいては収容所に入れ
られ不当な扱いを受けた等があったそうですが、我々は使役程度の作業は命ぜられる事は
あっても、毎日の作業は全くありませんでした。

今でも記憶しております。最初にして最後の駐屯軍司令官は長久少将と言う可也りご年配
の閣下でありました。やや小太りな非常に温厚な方でした。
さて、司令官は決まったが、後の部員は之から決めると言う事で、先ずサイゴンの南方総軍
から来られた白川少佐を高級参謀にして各部隊から夫々の部員を集めた様でした。

ところで、時節柄司令官の副官にはプロよりもノンプロの方が之からは良かろうと言う事で、
我が特別小隊のT中尉(幹候)が選ばれました。T中尉は元教員をしていた事とて博学の誉
れ高く、後の日本軍の行動に大変良い影響を与えた様に思われます。

ある日、このT中尉が飛大にやって来て、今度英印軍との接渉の為め、司令部内に渉外班
を作る事になった。既にその班長には上智大学出身の大尉さんが承諾されたが、通訳(軍
属)を指揮する少尉2名を募集に来た。特操の中からこの際、皆の為めにやって呉れる者は
居ないだろうかとの話し。


111 :33:2008/04/09(水) 20:03:43 ID:YIiefoix
私はこの時、特別中隊で毎日ブラブラして居る事に飽き飽きしておりましたので、通訳は出
来ないが通訳を連れて相手の言う事を聞くこと位なら何とか出来るだろう、一つその渉外班
とやらに努めてみようと一番先に名乗りを上げました。もう一人は計らずも同期のI少尉であ
りました。

「貴様、英印軍の司令部等に行ったら、いじめられるに違いないぞ。止めにした方が良いん
じゃないか」と同期の者達が言っておりましたが「何に、今まで軍隊に入っていても、お手伝
い位しかしなかったから、之からは少し苦労もしてみるんだ」と翌日、私物をまとめてさっさと
渉外班に行って仕舞いました。

海岸に近い所にある司令部に行ってみますと、道の向かい側にユニオンジャック旗を立てた
英印軍司令部があります。前記の長久少将に申告を済ませますと「ご苦労だが毎日の定時
命令受領をやってもらいたい」との事です。

又、班長さんに挨拶を済ませ、二名一部屋の居室に落ち付きますと、食事係の当番さんが
大阪出身の人で、ありあわせの材料で天ぷらだとか、得体の知れない刺身を作って呉れて
大変お世話になりました。矢張り司令部ともなると、本物の板前さんが居るものだと感心さ
せられました。

さて、翌日から早速仕事です。渉外班通訳係等と言うと聞こえは良い様ですが、実際に仕事
をして見て驚きました。さしずめ、高等小使の如きものです。毎朝八時、英印軍司令部の連
絡将校の部屋に行き、日本軍への命令受領が第一の仕事でした。

そして、連絡将校は純英国人のウォーリー中尉・・・・この人は全く英国士官学校のバリバリ
と言った感じで、真面目一点張りの紳士・・・・彼の前に私と通訳とが並び「グッド モーニン
グ サー」とやりますと、彼(煙草好き)はマドロスパイプを口にしたまま、英国の何処かの方
言らしきもので、ブツブツと話します。通訳(大体新聞社の特派員)に、「ヤツは何んて言って
るのか」と聞くと、「さー」と首を振り、「ワンス モアー プリーズ サー」と、もう一度ゆっくりや
ってもらはないと、理解に苦しむ状態でした。


112 :33:2008/04/09(水) 20:05:29 ID:YIiefoix
その命令も、「本日は道路補修の為め、日本兵300名をどこそこへ、荷揚げの為め100名を
岸壁へ出せ」等と言ったものから、時々無理難題を言う事もありました。例へば、「今日午後
5時までにベッド100台持って来い」とか、「黒いクツズミを500個とどけろ」・・・・・こちらも仕
様がないので、「まあ、やって見ましょう」等と答へておいて、日本軍司令部に帰り参謀殿に
之々しかじかの命令でありますと伝えますと、参謀殿は「クツズミなんかとてもこの町には売
っていない」どうしたものかと困って仕舞います。「仕方がないから、各部隊に聞いてみよう」
と言う事になり、その方の担当者が走り廻る次第です。

結局、英印軍は日本軍をこのまま黙って帰国させるのは面白くないから、いじめてやらうと
言う魂胆です。時々このウォーリー中尉の代りに、○○シンと言う印度人の中尉が出る時は、
大変親日的で「ビルマで戦った日本軍は驚く程強かった」等お世辞を言って呉れました。彼
等には、矢張り印度独立の考へが有って、日本軍を直接困らす事はしなかった様です。

南方総司令官の寺内元帥が、英軍マウントバツテン大将の所へ行かれたのも、このサンジ
ャックの丘から、その乗艦を見る事が出来ました。ある人が、「寺内元帥を送る歌」を作り、
我々の合唱で元帥を見送った事もありました。

21年の正月を迎え、各部隊も落ち付きを見せ、漁ろう班、農耕班、製塩班等を作り、自活の
道を歩み始めました。主食の米は、まあなんとか有りましたが、副食は自活で取るより外に
方法が有りません。ある隊では試食班なるものを作りました。班員は皆健康な者からなり、
彼等の任務は樹からぶら下がっている特大豆とか、名も知らぬ雑草を狩り、炊いたり、煮た
りして先ず一番目に試食する事です。そして彼等が中毒にならなければ、その雑草類は副
食として合格です。然し、誠に生命がけの仕事でした。
一方、漁ろう班の方でも、海蛇の如き大魚を捕獲したり、農耕班では大根を立派に作り、そ
の中に豆腐屋、酒屋等も出現しました。
(つづく)


113 :マンセー名無しさん:2008/04/11(金) 20:51:51 ID:ZoszpBdN
良スレ支援です

114 :33:2008/04/12(土) 17:34:26 ID:0Wbtfps2
2月のある日、町を歩いていると、ベトナムの男が近寄って来て「アナタ コンヤ ワタシウチ
 クル シヨウガツ ゴチソウ タクサン」と呼びかけて来ました。その晩、彼の家に行きます
と六、七人の男女が待っていて、珍しいベトナム料理に感激しましたが、帰る時、その中の
一人の男が「アナタ ニホン カエラナイ ノコル アナタ キリコミ オシエル オカネ タクサ
ン オンナアゲル」

要するに、私が彼等に切り込み訓練をやって呉れればゴホウビをやると言う事です。御世話
になって申し訳ないが、私は飛行機の方なので切り込みは出来ないと断りますと「ワカツタ
 ニホンジン ダレデモ キリコミ デキルト オモツテタ」と笑って呉れましたので、ゲリラに引
ぱり込まれず、やれやれと思いました。
 
4月になりますといよいよ日本からの復員船が港に入って来ました。もうこの時点では渉外
班も解散になって原隊に帰っておりました。
4月末ごろ、乗船地の海岸に集合、ここで仏軍の持ち物検査を受けました。彼等は我々を並
べておいて不規則にカバン等を取り上げて仕舞います。私の立っているところで丁度止った
フランス兵がいきなりカバン(しいがポールで購入)を取ろうとしましたので「ノウノウ アイム 
リーゾン オフィサー(私は連絡将校である)」とどなりますと、その剣幕に驚いたのでしょう、
黙って行って仕舞いました。

いよいよ、サンジャック、否、南方と別れる時が来ました。
昭和21年5月1日、我々マラン第26錬飛からの転属者等四千名を乗せたリバティ船は静
かにサンジャックを離れて行きました。遠去かって行く仏印の山々丈けが我々を見送って呉
れました。マランと別れたのとは、どこか感じが違っておりました。「さらば!南方よ!」と
我々の眼はこの南の大空と大海原をじっと見つめておりました。
走馬灯の様にあの戦中の色々な想い出が現れては消えて行き、船は一路懐かしの日本に
向って進んで行きました。
(おわり)


115 :33:2008/04/12(土) 17:47:42 ID:0Wbtfps2
特別攻撃隊(七生昭久隊)始末記

松 尾  周 作

皆さん御承知の通り、我が二十六練成飛行隊は、マラン基地に於て任務を続けて居りまし
たが、昭和二十年に入りますと、各地の戦線は日に日に劣勢の情況を増して行きました。即
ち聯合軍の主攻撃経路であったニューギニアーフィリッピンー沖縄は遂次敵の手中の陥り、
七生昭久隊が編成されました七月は、本土上陸を目指して各地に猛空襲を加えて居りまし
た。ビルマ方面ではラングーンも陥落して居りまして、我々は敵中に取り残された状況でし
た。

航空要員教育も、特別操縦見習仕官二期、少年飛行兵十五期の教育が終って、その人達
を送り出して、次の教育要員は到着しません、部隊の航空機には逐次爆装が施されて居り、
何れ我が部隊は特攻隊に改編されるものと覚悟して、専ら超低空爆撃訓練に励んで居りま
した。私たちの部隊は何の方面に転用されるかが、一つの関心事でありました。

村上君の記録によりますと、昭和二十年七月二十六日に攻撃隊編成が下令され、北部スマ
トラ島メダン市近郊クワラ飛行場に転進が命令されて居ります。私は部隊長編隊に続いて
第二梯団として七月二十九日、約一年三ヶ月駐屯して居りました懐かしのマランを出発しま
した。清水(現小谷野氏)曹長、小池曹長、和田軍曹、寺地軍曹、多田伍長、以下五名と行
を共にしました。

経路は、マランーバンドンーパンカルピナンーシンガポールークアラルンプールと転進した
様に記憶して居ります。当時の思い出の一つとして、確かクアラルンプール飛行場に到着し
ました時、飛行場大隊長の某少佐が、礼装して出迎えて下さり、先方から先に敬礼されたの
には一寸とまどいました。先方は既に我々の任務を理解され、我々を英霊として遇されたの
でしょうか、恐縮しつつも何か複雑な気分がしました。


116 :33:2008/04/12(土) 17:49:08 ID:0Wbtfps2
クワラ飛行場に到着しますと、当地は整備補給の為の基地で更に北方のロクセマウエ飛行
場に前進するよう命ぜられました。
ロクエマウエ飛行場は全くの前線飛行場で何の設備もない草原でした。ニッパ椰子で造られ
た兵舎は屋根から月の光が指し込んで来ます。あゝこれで我々は年貢の収め時に到着した
のだな、と考えると感無量なるものがありました。

後年私が調べました戦史によりますと、此の附近から、第三航空軍隷下で七生昭道飛行隊
が、七月二十六日マレー半島の北西部プーケット島沖合いに侵入して来た英海軍機動部隊
に三機突入して居ります。

七生昭久飛行隊の任務は、現在のスリランカ、当時のセイロン島北部の軍港ツリンコマリー
からシンガポールに来襲する、英海軍機動部隊を体当り阻止する事でありました。

ロクセマウエ飛行場に待機中、何らかの作戦指導があるものと期待して居りましたが、特別
その気配もありません、その都度上級司令部から、期日、目標、機数が指示されて突入す
るのでせうか?

私は八代部隊長と、出撃順序等について相談しました思い出があります。また私達は未だ、
二式単高練で二百五十瓩爆弾を吊って離陸した事もありません。私は部隊長に願い出まし
て一回テスト飛行をして見ました。その状況は次の通りでした。

先づ爆装して離陸距離を出来る丈け取る為に、地上滑走に移りましたが、爆弾の重さで円
滑な地上滑走が出来ません。それに胴体が何だか破れそうな異音がするのです。これでは
いかんと、先づ爆弾を出発地点に運んで貰って装着と同時に離陸する事にしました。
(つづく)


117 :マンセー名無しさん:2008/04/12(土) 23:42:56 ID:MErOZ1qN
乙です。

118 :マンセー名無しさん:2008/04/13(日) 01:15:25 ID:Q52Cr9kS
乙であります

119 :33:2008/04/13(日) 22:53:28 ID:VAU27/TQ
飛行機は通常の離陸距離の倍近く滑走して喘ぐ様に浮場しました。適当な高度に達した時
に高ピッチにプロペラを切り替えたところ、却って高度が取れず沈み始めました。あわててま
た低ピッチにして前方の小高い丘をやっと越えてマラッカ海上に出ました。上昇速度も通常
の半分位だったと記憶して居ります

やっと二千五百米位の高度を取った後、水平飛行に移って操縦性能を試しました。一寸急
な操作をすると高度沈下が甚だしいのです。急降下に移りますと猛烈な加速振りで空中分
解しそうです、そのまゝ着陸はとても無理です。私は爆弾を海上に投棄する決心をしました。
投棄ボタンを操作しましたがうまく作動しないので、あわてて非常索を使って投棄しました。
飛行機はやっといつもの軽快な操縦性を取りもどして着陸しました。

試験飛行の結果、私の感じました所見は次の通りでした。
出撃に当っては決して千米以上の高度を取ってはいけない。敵艦載戦斗機の餌食になるば
かりです。超低空で敵の電探を避けて突入する丈けです。恐らく当時の状況では我が軍の
戦斗機の直接掩護は期待出来ないでせう。

私は許されるなら攻撃隊を二手に分けて、一隊は爆弾を装着しないで或る程度の高度を取
って敵艦に向い敵戦斗機及び艦の火網を吸収させ、その隙に超低空で他の一隊が突入す
れば或いは戦果を期待出来るのではないか、作戦指導の参謀が来たら是非進言し度いと
思って居りました


120 :33:2008/04/13(日) 22:55:15 ID:VAU27/TQ
何時出撃する事やら、こんな状況を礫付特攻と云うんだなと自分に云い聞かせて居た時で
す。八月十四日、急遽クワラ飛行場に出頭する様命ぜられました、クワラに着いて見ると、
八月十五日に天皇陛下の放送があるとの事です。

翌十五日部隊長とメダンの地区司令部に出頭しました。当時陛下の直接放送等は前代未
聞の事です。恐らく更に戦意を昂揚して難局を打開せよとの御趣旨だろうと察して居りまし
た。御放送は雑音が激しくよく聞き取れませんでしたが、何となく異様な雰囲気でありました、
即ち御承知の様に無条件降伏の発表だった訳です。

私は直ちにロクセマウエに帰って現態勢を維持し乍ら次の指示を待ちました。次々と聞く情
報は陛下の御放送を裏打ちするものばかりでした。ロクセマウエを引払ってクワラに全員集
結しましたが、部隊長以下空中勤務者の大部分と、石橋中尉以下一部の整備員と少数の
本部要員丈けです。植田整備隊長以下の支援本隊はジャワ本島を離れて部隊に追及の途
中だった訳で、御承知の様に我が部隊は、マラン残留隊と植田隊とメダン部隊と南北に三
分されて終戦を迎え夫々の経路を辿って復員しました。

死を目前にしたロクセマウエ飛行場待機中と終戦と云う運命の激変の当時を振り返ると誠
に感無量なものがあります。次第に私は生き残ったのだなと云う実感が湧いて来ました。人
間の生きる事への執着の強さをまざまざと感じました。

即ち、ロクセマウエ待機中の約二週間は夫々一機一艦必殺の意気に燃えて居まして、死の
断崖に立たされて居た緊張感、それに続く敗戦に依る虚脱感を経た後の生の実感は鉛の
重苦しい帽子を被って居たのが急に脱がされた感じ、或は私が二百五十瓩爆弾を装着して
飛び上った後、これを投棄した後に得たあの軽快な操縦性。
これが私の偽わらない実感でした。
併し、これから戦勝者の管理下に入った私達敗戦者の辿った思い出はまた尽きません。
(おわり)


121 :33:2008/04/16(水) 20:33:20 ID:JJVAMmZq
殉難烈士之碑

石 橋  慎 三

シンガポールの日本人墓地に殉難烈士の碑があることを知ってゐる人が意外に少ない様な
気がするので、この機会に古い記憶を呼び覚ましながら若干の私見を加えて書いてみよう
と思います。

シンガポールの北東部セラングンロードを西に岐れて間もなく日本人墓地がある。当時は畑
の中にあった様に思われるが、現在は近くに住宅及び商店街もあり昔日の面影はない。然
し入口より一歩内に足を踏み入れれば当時を思い起すに充分である。

正面に倒壊寸前の昔のまゝと思われるお堂がある。火葬場もあった様な記憶もあるが今は
ない。左手の奥に自然石を刻んだ三つの碑がある。左より作業隊殉職者之碑、中央が陸海
軍人軍属留魂之碑、右側が殉難烈士之碑である。
昭和四十五年に訪れた時は草茫々で荒れ果ててゐたが、今回訪れた時は草は刈り取られ
綺麗に掃除も行き届いてゐた。支那人の墓守りが差し出す線香を手向け花を供へ、戸塚芳
賢師の読経にて参拝を終へた。

この三つの碑は昭和二十二年四月に我々作業隊員の手で建立された。作業隊殉職者之碑
及陸海軍人軍属留魂之碑は銘の示す如く我々同胞の此の地に果てた溜魂の碑である。殉
難烈士之碑は終戦後シンガポール軍事法廷で戦争犯罪人として、チアンギー刑務所で死
刑になった人達百四十三名の碑である。碑の後に墓標があり殉難者納骨百四十三柱と刻
まれてゐる。陸海軍人軍属留魂之碑の後には納骨一万余体と書かれた墓標がある。

戦後一年半を経過して次第に気持ちも落ち着き、我々生き残りの作業隊にも内地帰還の希
望が芽生え、便船毎に少数ながら内地帰還が実現し始めた。その頃この碑の建立の計画
が立てられた。然し我々作業隊の生活は生きてゆく為の最小限度ぎりぎりの状態であった。
食料は英軍の一食分が我々の二食分であり床はアンペラ一枚に毛布一枚、食器は空缶且
つ英軍の銃剣の下に監視されてゐる状況下で碑の建立など全く困難なことであった。


122 :33:2008/04/16(水) 20:37:51 ID:JJVAMmZq
石材はなし道具はなし止むなく作業隊司令部は公式に英軍司令部へ碑建立の許可を願い
出たが、以ての外の一言の下に却下された由である。然し時の経過と共に報復的感情も次
第に薄くなって来たのか許可ではなく黙認と云う形でこの碑建立が決定された。

作業隊の中より選抜された人達の手で昭和二十二年四月に完成した。南方総司令官寺内
元帥の墓も同時に立てられた。
戦犯処刑者の碑建立など許可される筈もないのでその碑銘を如何にすべきか種々熟考を
重ね「殉難烈士之碑」と決定された。

戦犯容疑者の容疑内容は全く問題になる様なものでなく戦斗後の報復以外の何ものでもな
かった。チヤンギーゼールに収容された容疑者の多数の若い日本の兵隊達が不充分極り
ない一方的型式だけの裁判の結果、絞首刑となりチアンギー刑務所の刑場の露と消えてい
った。

身に覚えのない理由で、若き身で、こゝ南国の果てに散って行った人達は実にあわれでなら
ない。戦い終って祖国帰還を身近に感じ始めた時、父母、妻子を残してと云うことを思う時そ
の感を一層深くするものである。これ等の人々は正に難に殉じた烈士である。

こゝにその実態を示す資料があるので、その一部を原文のまゝ、人名は本名のまゝ記載して
みたいと思う。これは当時シンガポールに居られ現在沼津在住の渡辺実元少尉が持って居
られるものである。刑務所に収容されてゐる人達に、辯護士、教誨師、其の他が限られた面
会の際に本人が紙屑に書き留め丸めて棄てる、それを拾って看守の目をかすめて持ち帰っ
たものである。渡辺氏はその紙屑のしわを伸し、キャンプの灯の下で書き直し、帰国時はリ
ックの負い紐の中に縫い込んで持ち帰られた。

従って今あるものは本人の直筆ではないが内容に変わりはない。


123 :33:2008/04/16(水) 20:39:36 ID:JJVAMmZq
其の一 所属 鉄五聯隊第六中隊小隊長

陸軍中尉  阿 部  宏

関連事件 馬来俘虜収容所第四分所長坂野(ハンノ)中佐の事件
起訴内容は不明なるも恐らく阿部中尉が泰面鉄道建設当時昭和十八年夏頃泰面線「ソンク
ライ」に於て坂野中佐所属の白人不慮を使用し、鉄道建設に従事せし際酷使せるものとして
処刑せられたるものならん。

尚馬来不慮は大本営命令に依る泰面工期短縮の為増加応援せられたるものにして、其の
当時雨期にして到着迄雨中行軍其の他に依り相当疲労甚しく体力的に相当消耗しあり病人
続出せる状況なり。

阿部中尉は小隊長として命令に猛進せるものにして協力俘虜収容所に作業俘虜の多数供
出を依頼せしものと考へられるも日常の性質より判断するに病人を無理に作業に出場せし
めたり又個人的酷使其の他非行をなせしものとは考へられず、特に俘虜収容所側管理責
任者は彼より先任の将校居りたる筈故、かゝることはなしと考へられる。

附記
聞くところに依れば本件調査に関し、阿部中尉は戦斗中戦死せるものと判断(現在手榴弾
創に依り左脚機能障碍重傷)せる俘虜収容所責任者側が取調べを受くるに際し、阿部中尉
に対し相当の悪条件を押し付けたる由、因に俘虜収容所責任者は三年の刑宣告、阿部中
尉は死刑を宣告されたり。


124 :33:2008/04/16(水) 20:49:54 ID:JJVAMmZq
以下 阿部中尉手記 「或る手記」

悪は益々栄え、善は屍と共に滅んでゆくとか、最近好転しつゝある様に思はれた情勢も急に
昨十九日、今二十日二日間に亘り合計九名死刑執行確定致し、今日明日に大量執行が行
はれる予定です。又皮肉なることに減刑になったものもゐて、実に深刻な悲喜風景です。

あまりにも残酷なやり方です。御想像下さい。減刑になった者が泣きながら刑を受ける人の
肩を叩いてすまぬと詫びてゐる姿、笑ひながらきっと仇を討って呉れと返って激励してゐる
姿、凄壮の気漲って涙なしでは居られません。

今此処で死刑確定せる人二人と同室して麻雀をやってゐますが、朗らかに歌ひながら阿部
さんが来る時は天国で乳母車を用意しておくと冗談をとばしてゐます。小生戦傷の為、多大
の同情をうけてゐます。

死を目前にした人の何と浄らかなことよ。美しさよ。"人はすべて死によって或は其の瞬間よ
り遙か以前に神となり仏となり得る否必ずなるものなり"と云う事を此の目ではっきり見て大
安心してゐます、私もこの人々と同様にならなければいけないと改めて自分に云ひきかせて
ゐます。万一の僥倖をたのむと云ふ事が如何に心を弱くすることか分りました。今はもうすっ
かり諦めて最后の日に備へたいと思ひます。

こんな気持は娑婆にゐては到底考へられぬことでせう。皆さんに激励の言葉を戴いて感謝
して居りますが、さっぱり諦めて天命を待つよりこちらも途がありません。然し本当の気持は
と云へば勿論死に度くはない、誰もが持ってゐる共通の気持です。親鸞上人だって臨終の
時斯う云はれた。先に死んで行った人が天皇陛下万才を叫んだのも本質的に何の変りがあ
るませう。"死にたくない"気持と万才を叫ぶ気持が両方とも強くて身体中が均衡がとれずぐ
らぐらしてゐます。

そう云う無形のあらゆるものにすがりつこうとしてゐます。此処に宗教の意義も亦つくづく感
ぜられます。左に死刑確定せる人の心境を聞いて書いてみました。
(つづく)


125 :33:2008/04/20(日) 16:56:48 ID:jvByaryA
1.云い渡された瞬間死の刹那の苦しみを少なくする何かの目標が欲しいと思った。(宗教)
2.この雨のびしょびしょ降る土地でシャツ一枚の薄着で埋められたら寒いだろうから、暖か
いものを着せて貰い度いなあ。
3.早く逝って天国への道をふさいで後から誰も来ないようにしたい。
4.何とか夢でも母に会い度い。妻に会いたい。私が死んだらどんな知らせがあるだろうか。

等々、右の言葉をよく味って下さい。1.の気持は私も判決を受けた時味った気持です。とに
角これ等の言葉には全く憎悪の念をはなれ、全く一個の人間に立ち返った純粋な魂の叫び
を聞くことが出来ます。親鸞上人が残した言葉と何の異る処がありません。

考えて見れば斯くあるのが自然(法=真理)であり、思わず目をつぶって何かに頼ろうとする
此処に初めて神仏があると云えると思ひます。
絶対絶命の窮地に於てすべて抛り出してすがりつくのでなければ信仰帰依の真の姿とは云
へないのぢゃないか、今迄の宗教は余りにも堕落して居た。仏も神も至る所にあると宗教で
は教へます、確かにその通りでした。人間の誰もが宗教と云ふ一つの型に依らずして真の
信仰を完成してゐます。

私は終戦依頼宗教と云ふものを色々の角度から覗いて見ようと思ひ乏しい本を漁ってみま
した。一寸した御経の中に深遠な仏哲が説かれ、聖書がいつも丁寧に神の存在を教へて呉
れます。

然しそこに感ぜられる仏も神も何かある膜を隔てて感ぜられ、殊にキリスト教の説く神はとも
すると吾等手の及ばぬ此の世で仰ぐことの出来ぬ偶像的なものになってしまう。本来のキリ
スト教はそうではないんだらうけれど、牧師の説く神なるものは現在不定の土で仰ぐ雲の上
にある偶像の様な感がします。こんなもので無条件に有難がって耐えるものかと云ふ反抗
心が強く起って仕方がありませんでした。


126 :33:2008/04/20(日) 16:58:42 ID:jvByaryA
仏教の方はそうでもありません。と云ふよりは未だそこまで行けぬと云ふのが本当です。然
し今はっきり神の仏の真実性(実在)信仰の本来的の姿を見て大いなる安心と愉快にひたさ
れてゐます。これなどは今后の宗教革命の一方面ではないでせうか。

話が横道にそれました。私が若し確定した時、果して冷静な気持で遺言の一つも書く事が出
来るかどうか甚だ疑問でありますので、同期生宛にぼつぼつ書くことのすべての遺言と思っ
て下されば結構です。

今二十三日午后五時です。明日死ぬ人達が最後の宴会で存分に飲み喰ひ歌い吸って此の
夜の名残りを惜しんでゐます。之がやがて私にも来る運命です。賑かな彼等の歌声を聞き
ながら、今夜は最も何か書けそうなので鉛筆を握って見ました。

いくら惜しんでも足りぬ程の名残りを唯口から出るまゝに歌ふ彼等の姿、彼等の心はかって
の楽しき想出を呼び起し、又懐しの故郷にとんで現在の悲境を歎いてゐるものは一人も居
ません。無限の怨を固く胸に秘めて唯笑ってゐます。

之丈申し上げれば彼等の気持は察して頂けると思ひます。送る私達は唯涙あるのみ、だん
だん夜が更けて時を告げる鐘、否命を刻む鐘の音が実に陰惨な響きを伝へて参ります。あ
と十二時間ばかりが彼等の最後の時間です。皆夫々の独房に入り最後の夢を結ばんとして
ゐますが果してよく眠れるでせうか。恐らく尽きぬ想が胸中を去来してゐることでせう。何の
罪もないものを可愛想に。いつのまにか眠って朝が来ました。

吾々残される者は外へ出して呉れません。彼等丈が朗らかな顔をしてとび出しました。吾々
の房に朝食が配られました。昨日の彼等の御馳走の相伴で美味しいものがたっぷりありま
す。


127 :33:2008/04/20(日) 17:01:41 ID:jvByaryA
実に複雑な気持で食事が終ると間もなく坊さんの読経の声が聞えて参りました。私は房の
中で合掌して彼等の門出を祈ってゐるばかりです。突然、「海征かば」「君が代」「蛍の光」が
歌はれ、続いて万才の叫びがあちこちの房から起りました。でも未だ時間は少々ある様です。
しばらく静かな時が続きます。扉の丸い小さな穴は外からふさがれてゐて外の様子は全く判
りません。

全神経を耳にあつめて私は注意してゐます。警戒兵の靴音と逝く人達がお互に別々の房か
ら大声で話をしてゐます「オイ準備はOKか」「ウン良いぞ先にいくぞ」聞くだけでもいやな刑
がこゝからすぐ近くの(十米もはなれぬ所の)刑台で行はれる様な気が全々しません、不思
議な気持ちです。

彼等が拍子をとって白頭山炭坑節を歌ひ出しました。あとからあとから歌声が起り、誰か和
するともなくそれに続いて朗らかな歌が又起ります。刑台の準備をするらしい忙しい靴音が
入り乱れてそれを消す様に歌声、どちらが幸福か分らなくなって来ました「ヤットナーソレヨイ
ヨイヨイ」まだ続いてゐます、串本節も出て来た。

突然「ゆくぞ」と声がしました。又「何も云い残す事はありません」と云う低い声がきこえます。
「元気でゆけ」と応へると万才の絶叫、三人連れ出された様であります。刑台上で絶叫する
万才の声が消えかゝるローソクの炎の如き感じを以て聞えます。一瞬あの吾々がよく耳にせ
る転轍器を反す様な音、とたんに万才の声が途絶えました、行はれたのです。

先づ最初の三人が昇天されたのです。一度にホール内が静寂になりました。するとその静
寂を破る様にあと六人が唄ひ出しました。最初の「ゆくぞ」の声が聞えてからここまでに三十
秒位だったでせう。約三十分迄の間隔をとって次々と昇天されました、私は初めての刑の執
行なのでその瞬間々々のたまらなぬ気持はとてもよく書き表すことは出来ません。そして恰
も吾々の目前でやって見せる様なあくどい精神的虐待に対し英国に対する深い憎悪の念が
沸いて来ます。


128 :33:2008/04/20(日) 17:06:22 ID:jvByaryA
宗教も何も超越した憤りです、こんなひどいやり方が何処にあるでせう、これだけは全世界
に向って知らせてやり度い事実です。然し吾々はこれには負けません。十一時十分頃第三
回目を終ってやっと重苦しい気持が去りました。

歯が抜けた様な空漠たる気持が中庭を包んでいました。執行と減刑で十五名も二日間で減
ったのですからたまりません。一番あとに残る者の淋しさ(必ずあり得ることです)が一人思
いやられるものがあります。味気ない昼食を食べてゐる時、彼等九名が最後の一夜を過し
た室を開けて見せて呉れました。

驚くべしそこに何が見られたでせうか、各房とも塵一つ止めぬ清潔さ、その中に寝台の上に
きちんと整頓された遺書と苦心して作った位牌と十字架。ドアを開けて入らんとした警戒兵
が思わず息をのんで後ずさりしました。彼等もその跡のあまりにも見事なものが分ったもの
と見えます。吾々も思はず驚歎の声を挙げ、そして「よかったなあ」と話し合ひました。

何か美しいものたった今悲しげに去って行った美しいものを追ふ様な目付で彼等の残りを発
見しようと中庭のあちこちをきょろきょろしながら歩きました。「あゝ善は屍と共に滅びぬ」あゝ
誰かこの事を告げん。九人の人々があまりにも見事な最期だったので、途中の悲惨な光景
をそのまゝ記録して誰彼となく話すつもりで認めました。

註 此の手記は、自らも死の判決をうけた阿部中尉が同室の友の逝く姿をまざまざと書き
記したものである。
(つづく)


129 :マンセー名無しさん:2008/04/21(月) 09:33:23 ID:2r6KzmLJ
つC

130 :マンセー名無しさん:2008/04/21(月) 10:05:11 ID:N/WTL4Sp
乙です。

感想の書きようがない。

131 :マンセー名無しさん:2008/04/21(月) 15:22:59 ID:NEhW901I
ありがとうございます。


132 :33:2008/04/26(土) 16:21:17 ID:qUqwuuDW
其の二
石川県珠州郡西海村字馬緤二〇
陸軍憲兵曹長   新  重 俊
(昭南憲兵隊本部)
昭和二十一年三月二十三日   絞首刑
遺言  母上様御健在なることを遥かに御推察致します。詳細は別途自筆を以てお知らせ
致します。其の後事情により三月二十三日此の世を旅立つ事になりました。しかし護国の
為の礎になるのでありましてお伴の方平沢准尉と一緒でありますので御心配はありません。
重俊は生前は真に色々と御心配をかけ何等の御恩も返すことなく先立つことは誠に申し訳
なく残念に思ひます。今日限り許して下さい。
弟秀俊は健在なる事と信じてゐます。重俊の分も共にして弟秀俊を可愛がってやって下さ
い。母上様の御多幸を祈りつつお別れ致します。

春待たで何をか惜しからん
君に奉げし命なりせば
風薫る祖国の春を夢見て
我星州の花と散るらん

其の三
鹿児島県囎唹郡末吉町大字深川
陸軍主計曹長       栄 島  信 雄
(泰俘虜収容所)
昭和二十一年三月十四日   絞首刑
遺言 父母宛 九才の時より三十五才の今日迄僅か十日しか一緒に暮す事の出来なかっ
た誠に不幸な子であります。別に悪い事をした事なく此の度は国の為に従容として死んで
ゆきます。破廉恥罪を犯したのではない事を御承知下さい。父上よりの愛情を深く感謝しま
す。
弟妹宛 弟一則及弘信よ 兄に代って親を大切にする様遺言書(教誨師にあらず)は別に調
製してあります。妹文子よ お前の主人は出征中に多分戦死したと覚えるが力を落さず元
気を出して育児に努めよ。祖父母へも宜しく伝えて呉れ、何卒仏様の各号を共々に称えて
下さい。


133 :33:2008/04/26(土) 16:28:51 ID:qUqwuuDW
其の四
岩手県盛岡市大通り一丁目
陸軍大尉   駒 井  光 雄
(泰俘虜収容所)
昭和二十一年三月十四日   絞首刑
遺言 兄宛 常に親の代りとなり妻八重子、子供等の面倒を見て下さる様呉々もお願ひしま
す。
妻宛 子供を愛撫し立派に教育をして呉れ、家事に関しては遺言書に記入してあればその
通りに実行して呉れ。

其の五
高知県香美郡横山村大栃一一二八
海軍中尉  柳 本  静 一
(第十二特別根拠地隊水警隊)
遺言 今度思ひがけなく戦犯人として新嘉波で死なねばならぬ事となりました。何れ帰れな
いとは思って居りましたがこんな事になって父上母上に御嘆きをさせようとは夢にも思ひま
せんでした。詳しい事は自筆の遺言により御伝え致しますが静一は最後迄柳本家の正統と
して決して恥かしくない態度を持ち続けます。決して自分が悪いことをしてかゝる事になった
のではなく只一途に国の為を思って為した事で、私が残虐なことの出来る子ではないことは
父上、母上が一番よく知って居て下さると思ひます。
判決を受けてから考へる事は唯父上母上をしっかり抱きしめて死んでゆきます。唯心残りの
事は父上母上房江の事だけです。皆さん御元気で天寿を全うされんことを御願ひします。柳
本房吉氏にも宜しく付言され度。


134 :33:2008/04/26(土) 16:32:01 ID:qUqwuuDW
其の六
山口県防府市大字植松八河田一一九一
原田千松方 原田イカ
海軍中尉  原 田  国 市
昭和二十一年四月六日   絞首刑
遺言 生前の御鴻恩を謝します何等の御恩返しをすることなく先に死する事を御許し下さい。
何れ詳細は判明する事と思ひますが戦犯者としてシンガポールチアンギー刑務所で露と消
えて行きます。併し何等恥ずることはありません決して悲しんだり嘆いたりしないで下さい。
現在の私は只日本軍人として立派に死する事を念頭として居ります。只自然に化すると云
ふ気持だけです。皆さんは天寿のある限り人生を幸福にお暮し下さる様切に祈って居ります。
現在の身になって吉田松陰の辞世の歌が骨身にしみます。何卒身寄りなき母の後を御世
話下さる様お願ひ致します。

父母の慈愛も水の泡として
仇し散りゆく我身はつらし
朽ちる身の恥づる所はなけれども
親見る夜の月何と語らん
言の葉に生死一如と知りつれど
迷ひの門に我は迷ひつ
南無阿弥陀仏からりと晴れし迷ひから
いざ旅立たん湟槃の境
(つづく)


135 :マンセー名無しさん:2008/05/01(木) 13:34:34 ID:T0i/IfhF
保守

136 :33:2008/05/01(木) 20:11:05 ID:wK1XVJut
其の七
部隊名、住所不明
陸軍上等兵   木 村  久 夫
昭和二十一年五月二十三日   絞首刑

雨音に鳴く夏虫の声きけば
母とも思ひ夜半に目?めつ
悲しみも涙も怒りも尽き果てて
此の佗しさを持ちて死なまし
みんなみの露と消えゆく生命もて
朝粥すゝる心悲しき
朝粥をすゝりつつ思ふ故里の
母よなげくな父よゆるせよ
友のゆく読経の声をききながら
己がゆく日を指折りて待つ
おののきも悲しみもなし絞首台
母の笑顔を抱きてゆかなん
明日の日に如何なる郷に行くならん
極楽と云ひ地獄と云ふも
夜は更けぬしんしんとして降る雨に
仏のお召しをかしこみて聴く
つくづくと幾起き臥しついや果ての
此の身悲しき夜半に目覚めつ
風も凪ぎ雨もやみたり爽かに
朝日を浴びて明日は出なん


137 :33:2008/05/01(木) 20:12:46 ID:wK1XVJut
以上引用した文章が相当長いものになって了ったが、この中から当時の状況の一端を汲み
取って頂ければと思う。
文章も判然としない所が多いけれど、それがかへって房内のいらいらして落ち着かない実
情を表してゐる様にも思はれる。辞世も出来がよいとは云へないけれど、机上でたゝ考えて
出来るものではないことは確かである。

此の外に、真杉参謀の日記、杉田市次郎大佐の英軍ワトソン少佐に対する抗議、真杉中佐
より総軍司令部シンガポール渉外部上杉参謀宛の報告の形で書き残されたものもあるが
こゝでは省略することにする。
唯真杉参謀の日記の中に「死刑を受けた者は戦死者として取扱ってくれると聞いてゐる」と
云う一文がある。誰が何所でどんな形式で云ったのか或は公文書中に書かれてあったのか
は不明だけれども参謀と云う立場にあった人の書いたものだけに全く根も葉もない事とは考
え難い。何れにしろ現在どの様な取扱いを受けてゐるのか私は知らない。

昭和四十五年の二月にシンガポールを訪れた際、現地の案内人に日本人墓地に生き度い
と云った所その場所を知らなかった。私の記憶でやっと捜し当てた。その時は一面草茫々で
あったことは前に記したが、ガイド自身がその存在を知らず、まして非常に多数の日本人観
光客の内こゝを訪れる人は皆無に近いのは今日も変りがない。唯シンガポールの案内書に
最近二、三行ではあるが日本人墓地ありと書いてあり、地図上にも所在が黒点で記してあ
る。然し二葉亭四迷の墓ありとは書いてあっても、これ等三つの碑のことについて何もふれ
てゐないのは甚だ残念である。
シンガポールを訪れる日本人は是非こゝに立寄り線香の一本、花一本でも供えて異郷にて
果てた人達を偲んでその霊を慰めて貰い度い。


138 :33:2008/05/01(木) 20:13:32 ID:wK1XVJut
最後に心暖まる思い出があるのでそれを記して終りにしたい。
御記憶の方もあろうかと思うが昭和二十二年の五、六月頃と思うが月は判然としない。近い
内に内地に帰還出来ることがハッキリとして来た頃、作業隊の代表の人達でこの日本人墓
地清掃に行ったことがある、吾々日本人が帰還してしまへばあとは訪れる人もなく荒れ果て
るであろう、最後の墓参りをしようと云うことであった。
一日トラック二、三台で墓地を訪れた。支那人の墓守りが色々と世話をして呉れた、一人の
男の子供がゐたが現在墓守りをしてゐるのはこの子供ではないかと思う。

我々の清掃も終りかけた頃この墓地に入って来た数台の乗用車があった。この自動車は間
もなく墓地に入って来た。車から五十才を過ぎたと思われる支那服を着た婦人を中心に十
数名の子供を交えた男女が降りて我々の方へやって来た。手に線香と花束を持ってゐる。
この中年の婦人は我々に日本語で話しかけて来た。

「私は日本人です」、我々はビックリした。「此処に来た者は皆日本人の血を引く者です。今
日皆さんが墓参りに来られるのを知り、お花もお線香も御不自由と思い持って来ました。ど
うぞ供えて上げて下さい」。又立派な若者を指差して「私の息子で裁判所で判事をしてゐま
す。又シンガポールには私達の様な日本人がたくさんゐます。皆がここに来る事が出来ま
せんので、今日は私達が代表で来ました。このお花、お線香は皆んなで出し合ったお金で
求めたものです。どうぞお役に立てて下さい」

又煙草が御不自由だと思ったので持ってきましたと云いながら我々の清掃の手伝いをして
共にお参りをして呉れた。予期しなかった来訪者に我々は非常な感激を覚え、涙が出る程う
れしかったのを昨日の様に憶えてゐる。
そのお花お線香を供え皆で煙草を頂戴した次第、これ等かくれた日系人ありと心強く感ずる
と共にこの人達の気持の一端をかいま見た様な複雑な感情におそわれた。
何れにしても三十数年の昔になってしまった。
(終り)


139 :マンセー名無しさん:2008/05/02(金) 05:13:33 ID:wBqT8Qc6
シンガポールの日本人に感動した

。・゚・(ノД`)・゚・。 ウエーン

140 :マンセー名無しさん:2008/05/02(金) 20:25:14 ID:pUXu7J8s
つくづく思う。
最近、涙もろくなったよな。。。

141 :マンセー名無しさん:2008/05/02(金) 22:54:33 ID:CMBeBNfu
今年2月にシンガポール行ったのに…。
知っていれば日本人墓地に参ってきたのになあ。

申し訳ない>現地に眠る方々

142 :マンセー名無しさん:2008/05/03(土) 03:50:13 ID:GmtwS1My
■理性を維持するにはどうしたらいいか

 毎日生きていると、思った通りに行かない事の連続で、イライラしたり、怒ったり、カチンときたりして、感情を乱すことがあります。
 人間関係、仕事、投資、勉強、目標達成、夢、子育て、教育…、
 「うまくいっている人」は、この「感情」とうまく付き合い「感情コントロール」ができているのです。
 :
 まず、理性はすぐに回復しないものであるということを頭に置いてください。
 恨の裏には怒りや悲しみといった感情があります。この感情自体は変えることができませんが、解消する
ことはできます。そのためには「行動」と「思考」の両面からのアプローチが有効です。
【泣きたいときは思いきり泣くのが良い】
 一番手っ取り早いのが、「行動」です。簡単なのが新聞紙を丸めて、いすの座面などを思いっきりたたきます。
このとき「この野郎!」「バカヤロー!」と大声で叫ぶとよりすっきりします。泣きたいときは、声を出して思いっ
きり泣いてください。良識ある大人ほど感情を抑えがちですが、そうすると恨が尾を引くので要注意。感情
は何かにぶつけて発散させた方がいいのです。
 次に「思考」。徹底的に自分を肯定します。「辛いのだから、泣く(怒る)のは当然だ」と、自分の行動を肯定し、
「自分は正しい」と自分を認めます。「あのときこうしていれば」といったように過去の自分を責めるのはナンセ
ンス。まずは自分を肯定することに徹してください。
 感情が沈静化したら、次に自分の現在の感情の種類を「理解」します。自分が今なぜ激昂しているのかが
わかると、今後なすべきことが見えてくるはずです。

(2002.4.18 民団新聞コラム<布帳馬車>より抜粋)

143 :マンセー名無しさん:2008/05/03(土) 07:29:32 ID:FG2O5lHz
行動→放火、強姦
思考→ウリは悪くない。ヒデヨシと日帝のせい

144 :マンセー名無しさん:2008/05/09(金) 21:24:00 ID:nkXgx0o3
ほっしゅぅぅぅ〜
 ノ"′∧∧∧∧、ヽ、
((と(゚Д゚三゚Д゚)つ))
 \ヽミ 三 彡 ソ
   )ミ 、_ 彡ノ
  (ミ∪三∪彡
   \ヾ丿ノ
    ヽ ノ
    )ノ
    ((

145 :33:2008/05/10(土) 17:50:33 ID:BmBVcMMo
抑留生活の前夜
池 部  政 行

終戦後の十月、マラン残留隊はジャワ、ケデリー州の山の中腹で自活生活をしてゐた。
ある日の薄暮、私達牧畜班の七名はその日も九十数頭の牛の放牧を終えて、昼間炊
事へ提供した一頭の犠牲牛により夕べの御馳走にありつかんとした時であった。一人
が附近の林の中で遅く迄現地人が働いてゐるようだという。

みれば草むら中にあちこち人影が見える。今日は特別何かあるのかな位に思ってゐた
が、それから三分五分と経つ頃、その人数が急に増えてきた。しかも山麓の道を遥かに
見ればトラックが人員を満載して何台も何台も続いて登ってくる。

終戦後の今更と思ったが、これはと感じ急いで伝令一人を出したが、その時敵もこちら
の動きに気がついたのか堂々と多数が姿を現し、急にわが牛舎、休憩所等を包囲した。
敵は手に手に銃、日本刀、槍、鎌等を持っている。こちらは六名しかも素手である。如
何ともし難し、数百米耕地を隔てた兵舎の方を見ればまだ何事もない。

「竝んで下さい」との日本刀を持った敵の指揮者の言に従った。言葉は丁寧だが、するこ
とは厳しい。先づ身体検査して所持品(特に貴重品)をとりあげ一列横隊の前と後ろか
ら一人一人に銃口を向けた。私は一番右に竝んだので右からと三方から銃口をつきつ
けられた。みな安全装置をハヅし引鉄に指がかゝっている。


146 :33:2008/05/10(土) 17:52:33 ID:BmBVcMMo
もうあと数分の生命かと覚悟した、おさらばである。終戦後日本はどうなってゐるか解ら
ぬまゝだが、やはり父母の顔が目に浮んだ、さよならと思った。
それで少し心が落付き前方を見れば、わが兵舎から戦友達が木銃らしきものを持って
散兵を展開しつつある。(あとで聞いたら池辺達がやられるとて、わが隊は先を争って
駆けつけてくれたとのこと)敵もこちらで大きく日本流に散兵を敷いている。そのときどこ
かでわっと一声あれば私達六名は今日生きていなかったろう。

しかし敵も慎重である。私のそばの指揮官は、盛んにテダパサンテダパサン(撃つな撃
つな)と散兵に怒鳴っている。なるべく血を流したくないらしい。こうして私達は最前線に
位置してゐて彼等の人質になっていたのだ。

その頃である側方の道路の方を見れば薄暗い木の間に友軍の方へ向う白旗らしきも
のが見えた。両軍の散兵は殆んど動かない、それからどれ位時間が経ったのか、兵舎
へ帰るように云われた。本隊に復帰してみると部隊長の言葉として「今戦えば一応負け
ないが、今一人でも犬死するときではないから命を私に預けてくれ」との訓示があった
そうである。彼等の目的はこちらが保存していた数年分の被服、食糧、兵器等を独立運
動にほしいとのことらしかった。

それから、彼等の誘導により全員下山することになった。私達はそれからが飲まず食わ
ずの収容所生活が始まった、その内容は実に惨憺たるもので、自分の腰の汗臭いバン
ドでも牛皮として煎じて飲んでみる程であった。栄養失調で生身の極限と戦ったのだ。
その細部は多くの戦友達の体験談におゆづりして、唯一つだけ深く印象に残っているこ
とは、その希望のない殺伐たるどん底のある日、収容所の木蔭に一人の将校の方(お
名前は忘れました)と一座したことがあった。


147 :33:2008/05/10(土) 17:56:21 ID:BmBVcMMo
その方は「日本は必ず立直る」と話された。米軍が上陸しているであろうが内地の状況
も不明のまゝだし、戦争に負けて、そんな世の中がくる筈がないと私達はその言葉を信
じることは出来なかった。しかしその反面、その将校の一言が心の隅にいつも希望とな
りて心のさゝえとなって軽挙を慎むことが出来た。今日になってその方の達観に改めて
敬意を表する。
以上が抑留生活の始まりとその一部であります。

 マランでの回想録
1.マラン空襲の際、掩体壕の中で反撃に飛んでもらうべく整備してゐて直撃弾を受け、
機もろとも田代勝明氏(高知出身)は戦死され、中村浅次郎氏(埼玉出身)は負傷され
ました。私と田代氏は機の右と左に散ったのが運命を左右したのでした。

2.第二飛行場にてドラム缶で入浴の際、すぐ足元に毒蛇がゐて大騒ぎしたことがありま
す。

3.整備中、一機を焼き田畑氏(大阪出身)を大火傷させたことは今でも残念で胸が痛む
思いです。
(おわり)


148 :マンセー名無しさん:2008/05/14(水) 22:07:53 ID:xNNiiYED
保守

149 :33:2008/05/17(土) 19:10:47 ID:4sWHieXL
ケデリー糧秣調達奮闘記

松 岡  良 祐

昭和20年8月終戦の大詔喚発後マラン残留部隊は後藤中尉のもとに予想されるオラン
ダ軍を主力とする連合軍のジャワ島上陸ならびにこれら連合軍と残留日本軍との衝突を
さけるべく、ケデリー州の山奥深く潜入し、この地において自活態勢を整えて、日本への
送還船の配船ある迄全員が健康を維持し、祖国日本で待つ親兄弟のもとへ無事に復員し
なければならない。

この為に長期にわたる生活を考えて、兵舎の建設、家畜の飼育や野菜の栽培と不馴れな
作業に全員で当る事となり、鶏やアヒルも少量ながら卵をうみはじめ、野菜も育ち始めた
が、全員の副食としてはとるに足らぬ分量で、これでは栄養面で不安があり急遽中谷中
尉(特T)を指揮官に松岡及び自動車手2名の計4名による糧秣調達班を編成し、日本軍
票がかなりの程度通用する現在、この軍票による副食果物の調達が下令され上記4名は
山中を下山、ゲデリー市の大和ホテルに一泊し、翌日より食料調達の任務につく事となり
ました。

市内に着きますと各交叉点の要所には小銃を持つインドネシアの武装警官が交通整理に
あたり、重・軽機自動小銃、歩兵銃で武装したインドネシア独立義勇軍やRKI(インドネシ
ア共産党)さらに上記団体の呼びかけに応じた民兵多数が竹槍や伝家の宝刀のウルスを
腰に赤白のインドネシアの新国旗を手に、目をギラギラさせ乍らムルテガ(独立と自由)を
連呼し乍ら市内を悠々と闊歩し非常に緊迫した状態でマランでは予想もしなかった異様な
状況であり、日本人は一人も見受けなかった。恐らく少数の邦人は家にとじこもり恐れお
ののきながらの生活であったと思われた。


150 :33:2008/05/17(土) 19:12:19 ID:4sWHieXL
ケデリーと云えばインドネシア独立運動の尖鋭分子を多く輩出した過激派の本拠地だった
訳です。このような緊迫した状況下のケデリー市で我々丸腰の兵4名で、果して命令を完
遂し得るだろうかと大きな不安を感じたものです。明日からの食料調達に彼等とのトラブ
ルがなく無事に任務達成できる事を心から願う事、切でありました。一旦彼等との衝突が
起きれば丸腰の我々は彼等の良い射撃訓練の標的となり、蜂の巣のように弾丸を射ちこ
まれて死ぬ事になる。今更生命を惜しむ訳ではないが同じ死ぬのであれば我々も武装し
た状態で連合軍と死力をつくして戦いたかった、それを想定して3年も4年も苦しい訓練に
たえてきたのだから。

今となってはそれも叶えられない、現在の私の任務は食料調達である事、志しと違った任
務で不本意ではあるが命令とあればこれも致しかたない、全力をつくすだけだ。然し山中
の戦友は我々の調達する野菜や果物を唯一の楽しみに不馴れな作業に励みながら毎日
汗を流しているのである。そうだその為にはこの極限の状態に近いケデリーで任務達成
の為に生命ある限り軍隊最後の御奉公と思い頑張るぞ、と誓いを新たにした次第です。

翌日、中谷中尉は糧秣調達の任務を幾分でも容易ならしめる為に市内の有力な在留邦
人及びインドネシアの特権階級との接触をはかるべく単独行動を取られたので、私以下3
名で市場へ買付に出向く事になり、市内に2ヶ所あるパッサル(市場)の大きいほうのパッ
サルの入口で武装したインドネシア10数名に取り囲まれ、我々の自動車2台(半トン貨
車)にインドネシア国旗を取り付けるように要求された。これをつければケデリー州ではス
ダラ(兄弟)とみなし、生命の保障はするとの事だった。

だが、終戦の日を境に我々日本兵の乗る自動車には日の丸の旗をあげる事は許されな
かった。私には日本軍人として自国の日の丸をあげられない状況のもとで、インドネシア
の国旗を日本兵の車輌につける事は絶対に、生命にかえてもできない。従って彼等の要
求をのむことはできず、自分の生命は今日、現在限りであってもそれは致しかたないと覚
悟をきめて断固拒否した。彼等はケデリーに居る限りトアンの生命は保障できないと云っ
て案外あっさりとその日は退去した。


151 :33:2008/05/17(土) 19:17:37 ID:4sWHieXL
彼等の独立運動の進展の状況はどのように進んでいるのであろうか、私も気になるが情
報は一切入らなかった。買付け初日早々より前途多難を思はせる状況下に、その日の調
達を終り車に食料を満載してデコボコ道を走破して山中の本隊へ無事届けることができた。
本隊では比較的のんびりしており、ケデリー市内の状況は知る事もない模様であり、市内
の憲兵隊は情報を山中の日本軍へ通報しないのかと不思議に思った訳ですが、私は時
間の余裕もないまゝ早速下山、ケデリーの宿舎へ急いだ訳でした。

それから何日かは比較的順調に食料調達もできていたが、ある日スタンドに自動車のガ
ソリン補給に立寄ると日本兵である為に、品不足を理由に給油を拒否されたが、さいわい
不足気味のタバコで懐柔して給油する事に成功した。以後は給油のたびに数ヶ所のスタ
ンドを廻らされる破目になりながら、なんとか任務を果たしておりましたがそのうちケデリー
市内もインフレ現象となり、バッサルで我々が軍票で買いまくるのを知ってか、現地人の
我々を見る目が非常にきびしくなってきたのを意識するようになった。

このころから品うすな肉類とか特定の品は軍票では調達困難となりサロン、布地、タバコ
等繊維品を主とした物々交換を要求するようになり、中谷中尉はこれらの調達に巾広い
顔を利用して、これ等の物品を工面して我々3名の買付けを助けて、物資調達の指揮者ら
しくその実力を大いに発揮されたものである。

その点野菜は気候風土の関係もあり、比較的購入が容易であったがキュウリ、ナス各百
本と注文すると、時たま数えると90本前後しかない、市場の責任者に苦情を申し込むと
(キラキラバグス)との返事しかない。100まで数えることはないと云う彼等の云いぶんと、
知能程度の差も大きい事を考えれば彼等との衝突をさける意味に於いても当方が泣き寝
入りとならざるを得ないと諦める。


152 :33:2008/05/17(土) 19:20:49 ID:4sWHieXL
このような日々を続け乍ら、宿泊費の節減に迫られ、戦時中に接収したオランダ人住居に
転居し、バブジョンゴスに食事その他の面倒をみてもらっていたある日、朝目がさめて窓
を開けると竹槍短刀を持ったインドネシア数十名に我々の宿舎は完全に包囲されていま
した。

事態の急悪したのを知り別の要件で他所に出向されていた中谷氏との連絡を取るべく電
話をしたが交換手は取りついでくれない、止むなくケデリー憲兵隊へと電話番号を云った
がこれも駄目、拙劣な私のマレー語はすぐ日本人だと判断され、上部の指令による日本
人同士の電話による連絡はすべて出来なくなった事を覚悟せざるを得なかった。バブは
買物に行く事も彼等は許してくれないと云う、勿論日本兵である我々3名もこの宿舎から
一歩も出る事はできない。愈々極限の状態がきた事を知った。

指揮官不在で連絡もされぬ状況におかれた我々3名は、私は兎にかく自動車手2名はな
んとしても日本へ帰さなければならない。今日一日は模様を見て明日はこの包囲網を突
破してと思う矢先に夕刻より民兵は続々集結し、翌朝には300名となった。食料も無くなっ
た今は強行突破する以外に方法はない。我々の宿舎の約2百メートル先に義勇軍の宿舎
があり、彼等の追撃を覚悟し乍ら3名による強行突破を行う事にし、自動車手に憲兵隊へ
合流する迄、いかなる障害があっても停車してはならない、旨を申し渡した次第です。

宿舎を包囲したインドネシアの抵抗を排除し、追撃してきた義勇軍数名による銃撃を受け
乍ら憲兵隊前迄来ると、ここも多数のインドネシアにより完全に包囲され、合流することは
不可能だと判断しましたが思わぬチャンスに恵まれて一応無事憲兵隊への合流に成功し
た訳です。残留部隊のうち何名かは補助憲としてここに居られ、我々3名の合流を記憶さ
れているものと思います。
(おわり)


153 :マンセー名無しさん:2008/05/21(水) 14:04:57 ID:EnH0qn22
保守

154 :33:2008/05/21(水) 20:31:47 ID:LtFffrTO
思い出の日記より

阿 内  敏 政

昭和十九年八月、シンガポール到着から昭和二十一年五月大竹港に上陸帰国まで、
一年九ヶ月の日記から思い出に残ったページを抜粋したものです。

「シンガポール」
私がはじめてシンガポールに着いたのは昭和十九年八月二十一日、それは内地でも
暑い盛りの午後であった。戦艦「榛名」のエンジンが静かになった。私は上陸の用意を
すませて甲板に出た。むし暑い艦内から一歩甲板へ上がると赤道直下とは思われぬ
程すゞしい風がふいている。

ジョホール水道だ、丁度内地の瀬戸内海のようだ、せまい水道の両側には手がとゞくく
らいに椰子の木が茂り、緑一面に芝生をしいた陸地、椰子林に点在する赤れんがの
建物、それは南国でなくては見られぬ美しさだ。私はしばらくの間涼しい風にふかれな
がら陸地をそして遠くはるかな異国の地をながめた。

いよいよ到着。セレータ軍港だ。
東洋一をほこる浮ドックを左に艦は静かに岸壁へ向う。周囲には木の葉の様なジャン
クが浮ぶ。そのジャンクには黒い本当に黒い現地人達が珍らしそうに私達をながめて
いる。珍しいのは私達の方だ。どちらが背中か前か遠くでは見分けがつかなぬ程だ。
そして歯だけを白くして何か云っているが私には全然わからない。・・・多分「今日
は・・・か・・・馬鹿野郎」ぐらい云っているのだろう。

上陸! 艦がとまるとさすがに南国だ。急に体中から汗が出る。こゝはすでに異国の
地だ。見るもの聞くものすべてがはじめてだ。中国人、インド人、マレイ人、インドネシ
ア人、皆一様に示し合せたように私達をながめてニヤニヤと白い歯をのぞかせてい
る。屋根に腰かけている者、頭にかごを乗せている者、タバコをすっている子供、何や
ら早口に話し合っている者等、すべての視線が私に集っているように感じ思わず寒気
がする。


155 :33:2008/05/21(水) 20:34:33 ID:LtFffrTO
上陸完了後、私達は軍港駅へ行った。駅前で休憩後、十七教(バンドン)、三十五教
(スラカルタ)、四十四教(クアラルンプール)と各隊毎に別れ夕刻車中の人となる。は
じめて乗るシンガポールの汽車、それは本当におそまつなものであった。石炭ではな
く"マキ"をたいて走る、そのため火の粉がとんで蛍の群れのようだ。数十分してシンガ
ポール駅についた。さすがに立派な近代的な造りである。

間もなく迎えの車で私達は宿舎へ向った。車で約一時間、町はづれの小高い丘の上
にある「兵站」それが私達の宿舎であった。小砂利の道をのぼり熱帯植物の花が咲く
庭を通り宿舎に入った。私は先づ入浴へ行った。内地を出てから約一週間の汗とつか
れを流しに、入浴後私は庭へ出て涼んだ。
南国の第一夜三日月がバナナの葉陰で見えかくれしている。内地で見る月、そして今
シンガポールの丘の宿舎で見る月。

「バンドン」 八月二十四日
私達を乗せた九七重はシンガポールのカラン飛行場を離陸し、機首を一路南え。高度
三〇〇〇米赤道直下とは云え寒さが身にしみる。離陸後約一時間半右下に陸地を見
る。南部スマトラだ。一面の樹海その中を流れる川がまるで壁のひびの様に見える。
附近に散在する島々、羅針盤が回る、一路バンドンえ!

離陸後約三時間目的のジャワ島が見えてくる。眼下に広がるジャワ海、刻々と近づき
そして濃さを増すジャワ島、時たま海上に見える漁船、雲にかくれそして現れる・・・降
下・・・美しい緑の島が手に取るように見えてくる・・・やがて陸地え、高度二〇〇〇、一
〇〇〇、前方にバンドンの町を望む。やがて飛行場だ、緑一面の中に切り抜いた様に
はっきりと滑走路が浮ぶ。
着陸! 高度が下がるにつれ、次第に暑さを感じる五〇〇、三〇〇、機内は蒸し風呂
の様だ。


156 :33:2008/05/21(水) 20:53:16 ID:LtFffrTO
全機無事着陸・・・機内より飛出し思わずほっとする。さすがに暑い常夏の国だ。午後
宿舎に入る、静かなところだ。こゝもシンガポールと同じく「兵站」宿舎だ、小さい部屋
だが感じが良い。夕食後、夜の街へ出た。街には昼間の暑さを忘れたように涼しい風
が椰子の並木をそしてパパイヤの木蔭をふいて行く。その並木道をドッカル(馬車)が
"かね"を鳴らして走って行く。空には十字星が輝き、頭にかごをのせた物売が何か呼
びかけている。

「スラカルタ・・・・・ソロ・・・・・」
八月二十六日私達は中部ジャワのスラカルタえ向って夜行列車でバンドンを出発した。
はじめて乗るジャワの汽車。こゝもシンガポールと同じ"マキ"をたいて走っている。列
車が停止するたびに蚊に攻められるので私はホームに降りて歩きまわった。夜汽車
の旅はどこの国でも郷愁の思いのするもの、長く尾をひく汽笛、遠くにかすむ窓の灯、
故郷の思い出が次々に浮ぶ。

それから一昼夜私達は列車で過した。昼間はどこへ行っても変わった景色に気をとら
れ時間のたつのを忘れる。広々とした田畑、その中で働く農民、水牛の群を追う少年、
町が近いのか、物売りに行くらしいインドネシア人が鉄道の沿線を列車を眺めながら
歩いて行く。三角の笠をかぶった農民が水牛のしりに腰掛け煙草をふかしている。
・・・・・のどかな国だ・・・・・。

列車が片田舎の小さな駅に停車した。駅の附近にポツリポツリと民家がある程度、町
とも村ともつかぬような所にも駅がある。汽車のつくのを知っているのだろう、あちらこ
ちらからもこちらからも、どこにいるのかと思うように子供があつまる。そして私たちを
物珍らしそうにながめる。その後からバナナやマンゴー等果物を持った物売りがくる。
私はバナナの味は知っているのでバナナを買った。何年ぶりかのバナナの味。新鮮
味を加えて一層おいしく感じた。こうした汽車の旅を続けた私達は次の日の午後、スラ
カルタ駅に着いた。
(つづく)


157 :八咫烏 ◆cPmkHzc4Fc :2008/05/21(水) 21:22:38 ID:X+HP55zD
乙です!

158 :33:2008/05/25(日) 13:14:12 ID:Q6Y0eovZ
>何年ぶりかのバナナの味

俺の親父は昭和3年生まれの少飛15期。だいたいこの人と同じ経路をたどった。

親父は片田舎の貧乏百姓のせがれでバナナなんか食ったこともなく、ジャワに到着
早々、バナナを腹いっぱい食ったら下痢したそうです。
ほかにもそういう人が何人かいて、みんなで征露丸をもらいに行ったら軍医殿から大
目玉を喰らったそうです。

では、先を続けます。


159 :33:2008/05/25(日) 13:15:09 ID:Q6Y0eovZ
八月二十七日  到着
永いようで短かった十数年の故郷日本をはなれ遠い異国の地え! こゝが私達のこ
れからの住居になるのだ。赤瓦の兵舎、グランド、周囲の椰子林、営内を流れる小川
すべて内地とは違う。兵舎内には私達を待っていたかのように真新しい飛行帽、飛行
服、長靴等が並んでいる。

数日後、後発の同期生を迎え訓練がはじまった。九九高練(直協)による離着陸から
だ。やがて二式高練の訓練もはじまり一人でジャワの空を飛ぶ様になってつかの間、
私達は西部ジャワのパリギー飛行場へ移動することになった。

九月二十七日、私達は再び汽車の旅についた。一ヶ月前にはじめて通った道を再び
西へ・・・・。九月二十九日夜私達は片田舎の小さな町についた、駅名は「セラン」だっ
た。そこから自動車で約三十粁西へ入った。夜道なので周囲の景色や様子はわから
ないが、森の中を走っている様だ、時たま遠くの方に明りが見えるがすぐ消えてしまう。
大分人里を離れているようだ。

十月一日  パリギー飛行場
到着後再び訓練が開始された。ゴム林内の生活は起床は暗いうちだ、まだ外は暗い。
ゴムの梢に星がまたゝく、名の知れぬ虫の声、しっとりとぬれた草の葉、朝食がすむ
頃ゴム林が明るくなる、迎えの車で飛行場へ、やがて一日の訓練が始まる。インド洋
を眺めつゝ。訓練の合間のキャッチボール、さそりとり、カメレオンとり等ゴム林内の生
活も二ヶ月。ドリアンの味、マンゴーパインそしてマンゴスチン等果物の味を覚え、イン
ドネシア語を習い覚えたパリギーとも別れることになった。私達数名は三十六教(マラ
ン)へ転属することになった。


160 :33:2008/05/25(日) 13:17:26 ID:Q6Y0eovZ
十二月四日、私達はゴム林内に残る隊長、教官、同期生等と別れ午前九時自動車で
ジャカルタに向って出発した。営門には見送りの教官、助教、同期生が並んでいた。
元気でな! たゞそれだけが見送りの言葉であった。
ゴム林の兵舎を出て約三時間、私達はジャカルタに到着した。そこから再び汽車で東
部ジャワのマランへ向った。

「マラン」
十二月六日の午後私達はマラン駅に着いた、静かな感じの町だ、丁度スコールの上
がった後だった。駅前にはすでに迎えの車が待っている、やがて隊へ、ゴム林内とは
違ってすばらしい兵舎だ、飛行場も立派だ、周囲に三つの山を控え景色もいい。

十二月○日
マランへ来てはじめて外出が許可された。はじめて出るマランの町へ。町の中央で車
から降りた私達は一斉に"くもの子"を散らすようにどこかへ! 私も同期生数名(多田、
谷、金子、等)とレストランへ! 先ず飲んで食って、そしてバッサル(市場)へ。バッサ
ルに入って驚いたことは果物の多い事だ、何種類あるのか大小色様々の果物の香り
がプンプンとする。一日にどれだけ売れるのか全部が果物屋の様である。

バッサルの裏へ出るとあやしげな子供が出てくる。そして私達の後を野良犬の様につ
いてくる。何の目的なのか?最初は不思議に思ったがそれもやがてわかった。私達の
持っている手拭やタオルを買いたがっているのだった。布がないのかおかげで金に不
自由なく遊べた。

○月○日、マランへ来て何回目かの外出の時であった、隊で訓練中の同期生(覧)
が町はずれの田んぼへ墜落して死んだ。その機体の堕ちるのを何人かの戦友が目
撃した。一瞬の出来事であった。


161 :33:2008/05/25(日) 13:23:48 ID:Q6Y0eovZ
「パシリアン」
私は本隊(マラン)を後に数名の者と一緒にインド洋岸にあるパシリアン飛行場へ訓練
に向った。私達数名は二式高練の空輸のためマランを離陸した。スメル山を越えパシ
リアンへ・・・・・さすがにジャングルを開いて作った飛行場だ周囲一面はジャングルだ。
到着後間もなく私達は空中射撃の訓練がはじまった。訓練はきびしく毎日くたくたであ
った。射撃々々何が何でも命中させることだ。明けともくれて射撃々々。しかし楽しみ
もあった。夕食後の「いのしし射」大きいのが良くとれ食事は毎日いのししの肉ばかり、
また休みにはジャングルへ行った。草原をとおり小鳥(ベニスズメ)の巣をのぞきなが
ら、やぶをぬけ沼地を渡り野鶏を追い、蛇に驚かされ・・・・。
四月二十日  急降下爆撃訓練開始。

「バトウ」   五月十日
マランから約一時間余の高原にある避暑地バトウへ向って、私達を乗せた車(いすゞト
ラック)は出発した。マランの町をとおり森をぬけ丘をこえ一路バトウへ。時間がたつに
つれ涼しくなる。大分のぼった眼前の山すそに白い洋館建が並ぶ。バトウの町だ・・・・
やがて私達は「空中勤務者療養所」と書かれた入口に到着した。

真白な建物、種々の高山植物、芝生、私達は各各部屋がきまった。シャツを着換え外
をながめた。広々としたマランの平野がかすんで見える。どこで鳴らすのか鉄琴の音
が聞える。ジョンゴスが来て食事の時間を知らせてくれた。鉄琴の音が止んで食堂が
開かれた。食事は純日本料理、久し振りに内地の味、夕食後ジョンゴスに町と療養所
の様子を聞いた。温泉は山の方へ約一粁、クラブは一番下の建物等と色々教えてく
れた。
(つづく)


162 :マンセー名無しさん:2008/05/29(木) 15:35:04 ID:Ey9O4BL3
保守

163 :33:2008/05/31(土) 13:17:52 ID:RM4z+QkM
私は部屋へもどった、間接照明のひかりがやわらかい。たばこの煙が壁を這うように
流れて行く。翌日私は金子と温泉へ行った、高原の路をドツカル(馬車)に乗って。常
夏の国でも高原は涼しい、寒いくらいだ。白い花とピンクの花が一面に咲いている坂
のところでドツカルから降りた。

温泉はこの下の谷間にある、急な階段を手すりにつかまって降りた。降りながらピンク
の花がつゝじであることに気がついた。こんな所にも日本と同じつゝじがあるとは?
 「つゝじの湯」と書いた柱が立っている、そこから硫黄くさい谷間にそって少し行くと温
泉だ、誰もいない、静かだ。

聞えるのは谷間を流れる水の音だけ、時たまとおるドツカルの鈴の音。午後町に出た、
静かな町だ。牛車がゆっくりと坂道を登ってくる、その後から古い型の自動車が湯気を
立てゝ走ってくる。夜は霧がかゝる、おぼろにかすんだ月。ふもとの町の灯が霧にかす
んで流れるようだ。

「チレボン」
六月十五日、私は十数名の同期生等とジャワ海の近くの北部ジャワのチレボン(三十
六教)へ転属することになった。楽しかったマラン、パシリアン、バトウの生活もやがて
終りだ。

六月十七日、煙草の町チレボンへついた、私は煙草はだめ、一日二、三本"ふかす"
ぐらい、それでも支給される、私は煙草の処分に困った。町は遠い、周囲にカンポンの
ある様子もない、毎日々々煙草の山を眺めて暮した。酒と煙草それ以外なんの楽しみ
も印象に残るものもないチレボンの生活、それも一ヶ月とは続かなかった。


164 :33:2008/05/31(土) 13:19:51 ID:RM4z+QkM
七月十日、私達は北方圏転用空中勤務者として、すなわち「特攻隊」要員としてバンド
ンの師団司令部へ出頭することになった。

「特攻隊要員」
私達は早朝まだ星が輝いている頃車でチレボンを出発した、車が山道を通る頃東の
空が明るくなってきた。約五時間してバンドンの町へついた。私達が始めてジャワに着
いたのもバンドンであった。

私達は師団長の前に整列して訓示を聞いた。師団長は訓示の最後に「諸君のように
若い者を殺すのは師団長として誠に申訳ない。諸君の父母に対しても申訳ないが、国
のためだ頑張ってくれ・・・・・」師団長はこう云って頭を下げた。そして私達のために乾
杯をしてくれた。・・・・・年老いた師団長・・・・・私はこの最後の言葉によってはじめて
"死"という事を考えた。

今まで考えた事もなかった"死"。一体どう云う事なのか?・・・・・他の戦友は何を考え
ているのだろうか? "国のために死ぬ"今までそう考えていたし又教育もされてきた。
が、しかし、いざその時になると考えも変る、いや変った。出発前一週間、私達は毎日
町へ出た。金は全部つかいつくした。

七月二十四日
楽しかった事、苦しかった事、思い出の多い常夏の国ジャワともお別れだ、滑走路の
端に並ぶ戦友・・・・・やがてその人影も見えなくなる。


165 :33:2008/05/31(土) 13:22:42 ID:RM4z+QkM
「シンガポール」  U
ジャワに別れを告げた私達は、空路再び赤道を越えシンガポールへ着陸した。特攻
要員の私達はこゝでも外出は自由だった。私は翌日から毎日町へ出て遊んだ。宿舎
の前からトロリーに乗って町の中央へ、そして、支那人街へ、インディアンの街へとふ
らつきまわった。

七月二十七日、広場の端に人が集っている、近づいてのぞくと蛇使いの子供?だ。芝
生にすわって前にかごを置き笛を吹いている。周囲がいっぱいになるとそろそろふた
を開ける。中からニューと首を出すコブラ、あまり良い感じではない。
白い綿の様な雲が南の空から飛んでくる、戦場はどこなのか?

七月二十九日、いよいよ最後の集結地カンボチアのプノンペンへ向って出発だ、離陸
後四時間、マレー半島を縦断した九七重はコタパル上空より進路を右へタイランド湾
を一またぎ、アジア大陸の一角、仏印(カンボチア)の上空へ。

「プノンペン」
高度三〇〇〇米から降りた私は暑いのに参った、赤土の飛行場が焼付くように暑い、
滑走路に立つかげろう、こゝもまだまだ南の国だ。飛行場の周囲には椰子林がつゞく
がジャワとは感じが違う、どことなく大陸的だ。飛行場には迎えの車もない、間もなく来
たがそれはガタガタのトラックだった。

飛行場から約十分、蛇のように曲った道を行くとすぐ宿舎だ、ジャワと違って飛行場の
周囲にたくさんの民家がある、宿舎もその部落の中にある、まるで町のアパートのよう
だ、実際は竹と椰子の葉で造った馬小屋のような所だ。
数日後、私達特攻要員は全員集結を終った。
(つづく)


166 :33:2008/05/31(土) 13:53:32 ID:RM4z+QkM
>161の急降下爆撃訓練開始とは特攻訓練のことです。

飛行場に空母くらいの白線を描き、離発着の練習から始めたとのこと。
始まった時は「戦闘機なのになんで急降下爆撃?と思っていたそうですが、軽爆の
空勤者が足りなくなったからだろうくらいに軽く考えていたらしい。
しかし、しばらくすると特攻隊のうわさなんかも耳にしていたので、「もしかしたら」と仲
間内で話をしていたそうです。


167 :マンセー名無しさん:2008/05/31(土) 16:54:09 ID:3p7Ys9o+
乙です

168 :33:2008/06/01(日) 15:23:33 ID:mrOxoiHT
八月五日
集結完了後間もなく出発が開始された。毎日々々出発者の名前が呼ばれるが、残さ
れる者には行先を教えない。又聞くこともなかった。こうした毎日だが私達は相変わら
ずのんきだった。出発の日がくるまではと町へ出て遊んだ。静かな町だ、東にメコン河、
丘に建てられたプノンペン塔、色の白い安南娘、広東姑娘。

八月十日
私達は領事館のはからいによって王宮の見学を許された、王宮の通用門から入り建
物の入口で靴をぬぎ、ピカピカの大理石の廊下を渡り宝物殿へ案内された。各種の
宝物を見学する中に「山田長政」とししゅうのある日本刀があったのには驚いた。

見学後町へ出た。町の中央に円型の大きな市場がある。その市場を中心に商店街が
広がる。どこも同じだがこゝも華僑が多い。商店の七〇%は華僑だろう。そば屋、饅頭
屋、あひるを何羽もぶら下げた肉屋、象牙細工屋、革製品屋どの店も油じみたどぎつ
い造りだ。波止場にはサイゴンからの船だろう、大きな荷物を持ったベトナム人、カン
ボチア人、華僑等が降りてくる。どこに行くのか忙しそうにすぎて行く。

八月十三日
私はすべての準備は終った。夜は早く床に入ったが時々爆音のするような気がして目
が覚める。周囲は真のやみ、カサカサと椰子の葉のゆれる音、野犬の遠吠え、屋根
裏で鳴くトッケの不気味な声、一回二回・・・・十、十一、十二回、地獄の底からの叫び
のような感じだ。やがて不気味な声もやみ、静けさが周囲一面をつゝむ。


169 :33:2008/06/01(日) 15:24:54 ID:mrOxoiHT
八月十四日
私達は出発者を見送りに飛行場に行った。皆元気だ「元気で行くぜ、頑張れよ」口々
にこう云いながら機上の人となる「すぐ行くぞ、頑張れよ」私達も手を振った。やがてエ
ンジンがうなる出発だ!一機、二機、三機、全機離陸・・・・すでに彼らは地上の人では
ない。いつの間にか東の空に姿を消してしまう。

私は静かになった飛行場を後に宿舎へ、たゞ出発を楽しみに。しかし、その楽しみは
一瞬にして打消された。私達の宿舎の先任松尾少尉(特操一期)が蒼白な顔をして宿
舎に入ってきた。「皆集ってくれ」松尾少尉はこう云って中央に立った。

私は直ちに出発か?と思ったがそうではなかった。松尾少尉は皆が集ると静かに口を
開いた、「日本は降伏した」・・・・・私は「降伏」と云う事がその瞬間なんであるかわから
なかった、「?」「?」・・・・誰一人として声を出す者はなかった。

「只今領事館から本部へ連絡があった。明日正午、天皇の放送があるその放送を聞く
のだ」・・・・しばらくの間沈黙が続いた。一人として動く者はない、中ですゝり泣く声が聞
える(十四期茶木)私は信用しなかった「降伏」それは戦争に負けた事だ。私はたゞ狐
につまゝれた様な気持だった。

出発は中止された。私達は皆なにかの間違いだと云って夜も平常の様に床に入った。
しかし頭がさえて眠れない「日本は降伏した」松尾少尉の昼間の言葉が耳について眠
れない。


170 :33:2008/06/01(日) 15:27:07 ID:mrOxoiHT
八月十五日
朝から一機の飛行機も飛ばない。連絡兵が走り回る。私は身中が冷える様に感じた。
正午全員本部前に集った。天皇の放送がはじまったが、ザーザーという雑音に消され
はっきり聞えないが真実の様だ!負けたのだ。降伏したのだ。誰かが声を出して泣き
はじめた。私はたゞつっ立っていた。

夕食後これからどうするか皆で相談がはじまった。意見は色々とあった、最後まで戦う
と云うもの、山中へ逃げなんとか日本へ帰ると云うもの、飛行機でジャワへ戻ると云う
ものなど・・・・。昨日までは"敵"に向って進んでいた私達の気持も今はたゞ敵に捕まり
たくないと云う一つの気持に変っていた。私は山へ逃げる組に加わった。

翌日も又翌日も私達のグループは相談し計画がたてられた。@時期、八月末、月が
無くなってから闇夜に脱出する。A装備は出来るだけ軽くし、地図、磁石、拳銃は必ず
もって行く。B何ヶ月又何年かゝるかわからないので途中落伍した者は置いて行く。私
達は正に"決死的逃走"を計画した。

翌日から毎晩椰子の木を中心に一同車座になって大宴会だ。航空用のブドウ酒、ウ
イスキー、無駄と思われるものはすべて喰ってしまう事にした。一日一日小さくなる月
を眺めながら。椰子の葉が月にかゝった墨絵の様だ。

八月二十二日
決死的逃走の日もいよいよ数日に迫った。準備完了。
午後になって日本軍は「復員せよ」と云う情報が入った。「復員」私はその言葉は生ま
れてはじめての言葉であった。何の意味かわからなかった、「内地から船がくる。それ
まで待機せよ」・・・・迎えにくる?不思議で不思議でたまらなかった。
(つづく)


171 :マンセー名無しさん:2008/06/06(金) 16:38:09 ID:3HMeq03I
保守

172 :33:2008/06/07(土) 16:35:55 ID:Njo+2rYJ
私は今迄、戦争に負けたら捕虜になって働かされ殺される、そう教えられてきた。再び
私達のグループは集った。帰国する?それとも最後まで逃げるか?しかし数名の者
は逃走を断念した。体力に自信がない、どうせ負けたのだ、運を天にまかせることにし
た。結局、皆逃走は不可能と認め中止してしまった。

 「カンボチアからベトナムへ」
八月十五日の終戦を迎え、抑留生活がはじまった、毎日連合軍からの命令がくる。英
仏両国軍の到着までに飛行機及び道路を整備せよ。これが最初の労働であった。

英仏両軍の到着それは四日後である。起床は三時だ。南国とは云え夜風が冷たい。
私達は手に手に鍬、スコップ、つるはし等を持って飛行場へ、最初は飛行機の掩体取
除き作業だ。ランプが点火され作業開始である。私は眠い目を開いて鍬をふるった。

一振り二振り、身体は次第に汗ばんでくる。上着を脱ぐと冷たい風がはだをぬぐって
気持が良い。一時間、二時間、たゞ自動的に動くだけ。休憩になるとスイッチを切られ
た機械の様に動きが止る。そのまゝ腰を下す、とたんに眠くなる。

作業開始!再び機械は動き出す。夜明けが近づくにつれ眠気が増す。まぶたがくっつ
く、いくら開こうとしてもだめ、やがて周囲が明るくなってくる。間もなく朝食だ。ひとまず
引揚げる。朝食がすむと急に眠くなる。何をする気もない。たゞ横になって寝てしまう。
作業準備!と云う声に再び苦力(クーリー)に。


173 :33:2008/06/07(土) 16:44:43 ID:Njo+2rYJ
日中は朝と違って暑いのに参る。滝の様に流れる汗が眼にしみてたまらない。この暑
い昼間の作業を五時まで、早朝三時から夕方五時まで一日十四時間の重労働だ。
こうした私達の作業によって四日目の午後には道路も飛行場も完全に整備され、英仏
両軍が進駐を開始した。毎日々々飛行機が到着する。ロッキード、ダグラス、ビーチク
ラフト等が軽快に離着陸する。

数日後、英仏両軍の進駐は完了した。プノンペンの町には連合軍各国の国旗が揚げ
られ、今迄抑留されていた英、仏人が色とりどりの服装で歩いている。私達は相変ら
ず各種の作業が続く。フランス人の家の修理、壁の塗り替え、メコン河波止場での米
の揚陸、すべてはじめての事であった。

私は朝食後トラックに乗って米の揚陸作業のため波止場へ向った。船には六十K、八
十K、一〇〇Kの米俵が満載されている。私は六十Kの俵はなんとかかつぐ事が出来
たがそれ以上はだめ、六十Kでも骨が折れ身体がつぶれそうに感じた。

一歩二歩まるで亀のようにのろのろと(それ以上早く歩けなかった)船から渡された一
枚の板を通ってトラックまで、一歩進むたびにゆれる板、何度か河に落ちそうになりな
がら何とか転落はまぬがれた。米俵と共にメコン河に転落、皆に助けられた者も数名
いた。こうした苦力の様な生活が数日続いた。

九月二十日、私は十数名の者とベトナムのタイニンへ作業に行くことになった。プノン
ペンからトラックで約四時間東へ百五十粁、こゝに我々の住む小屋を造るために。出
発後約四時間してゴム林内の一軒家に到着した。それはベトナム人の農具小屋であ
った。翌日私達は二、三の者を残して土地を探しに出掛けた、ゴム林をぬけ約一粁の
ところにある空地が選ばれた。


174 :33:2008/06/07(土) 17:14:23 ID:Njo+2rYJ
早速私達は材料集めにかゝった、五名づつ三組に分れ木を集める組、椰子の葉を集
める組、竹を集める組、とそれぞれ分業によってはじめた。材料がそろうと直ちに建築
にかゝった。本職?の指図によって私達は働いた。井戸も出来上りいよいよ完成であ
る。あとは皆の到着を待つばかりだ。
それから数日後私達先遣隊の十五期十名が再びプノンペンへ帰る事になった。

約一ヶ月後に帰った本隊は淋しかった。今までいた同期生その他大部分はサイゴン
へ行って残っているのはほんの一部であった。私達十名は飛行場の裏に宿舎に入っ
た。そこには残された三十名程の者がいた。それに私達十名が加え四十名になった。

何の仕事をするのか知らないが皆昼間からごろごろしていた。そこにきて私は同期の
大貫と久し振りに一緒になった。シンガポールで別れてから一年数ヶ月振りであった。
彼等はグループになってトランプ、麻雀、花札等をしていた。時時、大貫は私を呼んで
グループに入れた。彼等のグループは山陰、三松、坂上、等同期生であった。数日後、
連合軍からの命令がきた。武装解除だ。

「武装解除」
飛行場に整列した私達は一人一人英軍司令官(ヒル中佐)の前へ出て、軍刀、ピスト
ル、銃剣等を英、仏両軍の係兵に手渡した。丸腰になった私は永い間持っていた武器
が無くなるとなんとなく心細い気がした。

武装解除後私達はの隊にわづか十丁の三八式小銃が渡された。これも衛兵用である。
その後も作業は続くが労働はなくなった。主に飛行場の警備である。放牧の牛を追い
払ったり、夜間の警備をしたり、楽だった数日。
(つづく)


175 :33:2008/06/08(日) 13:56:01 ID:hcIw8fWq
その後間もなく私と三松、山陰の三名は飛行場渉外部に勤務することになった。私達
は三名の通訳(特操、西、池谷、西沢)に一人づつ別れて付く事になった。ピストには
通訳、それに私達三名、師団参謀将校が四名、英、仏両軍将校、パイロット等がい
た。

私はフランス語はもちろん英語も話せない。フランス語と英語の必要な会話を五つ位
メモに書いてもらったが通じるはずがない、手まねや身振りである。毎日サイゴンから
くる飛行機は英軍だけではなかった。一般人はほとんどフランス人であった。

私の最初の仕事は電話当番であった。それも日本の電話ではない。連合軍専用の直
通電話である。私は一日中電話機の前にすわっていた。電話が鳴る!相手は英語か
フランス語である。私はメモを読みながら返事をする。そして急いで英仏の係を呼びに
行く。こうした仕事も英仏軍の設備の完了と共に終った。

その後私はピストで記録係になった。毎日離着陸する飛行機の乗客の人員及び総重
量、離着陸時間の記録を行った。これも乗客が兵隊の時は良いが民間人には参った。
彼女等は降りても荷物を持たない、ジャップスリーこう呼ばれ私達三名は赤帽に早替
り、大きなトランクやバックを担いでタラップを降りバスまで汗を流しながらよたよた歩
いた。

私達三名が飛行場へ勤務してから約一ヶ月目残留部隊の大半は飛行場の西約四粁
のところに移動していった。飛行場の近くには十名の衛兵要員と私達三名だけが残さ
れた、この十三名も一緒ではなかった。


176 :33:2008/06/08(日) 13:57:58 ID:hcIw8fWq
私達三名は椰子林の中の一軒家に他の十名の者はそこから少し離れた一軒家であ
った。この三名の生活は朝は何時に起きてもよい、九時から五時迄ピストに勤務する
だけ、まるで三人のキャンプ生活である。野犬狩りをしては「はげわし」の餌にしたり、
熱帯魚のいる沼地で泳いだり、釣をしたり。

「岩塩揚陸作業」
三人のキャンプ?生活も終り私はメコン河の波止場に岩塩の揚陸作業にかり出され
た。それは夜間作業であった、夕方六時から朝の六時までの作業である。私は午後
迎えのトラックに乗って波止場へ向った。波止場はすでに大勢の作業員が集っていた。
私達の到着間もなく作業がはじめられた。アンペラの袋に入った五〇Kの岩塩を船倉
から運ぶのだった。日が沈むと急に涼しい風が吹きはじめる。時間がたつにつれ汗が
出てくるが、メコンの川風が気持よい。

私は次から次へと担いだ。しかしどれだけ積んであるのか、山の様な塩は一向に減ら
ない。夜が更ける。背中がこすれ塩がしみはじめピリピリする。疲れと眠気でたまらな
い。休憩!と同時に甲板の上にゴロリと横になる。夜露にぬれて冷たい甲板が冷やり
として気持が良い、そのまゝ眠ってしまう。・・・・タイ国へ行くのだろうか汽車の汽笛が
遠くに聞える。

作業開始!再び作業に、一時、二時、三時、眠い眠い時々桟橋から落ちそうになって
ははっとして目がさえる・・・・時々聞える水音それは岩塩袋と一緒に河に落ちる者の
音だ。私も何度か仲間に押さえられては墜落をまぬがれた。四時、五時夜明け前とも
なるとくたくた自分で自分のからだが自由にならない・・・・私はトラックの上乗りに変っ
た。トラックで波止場から倉庫へ、たった十五分か二十分の間もトラックの上で眠っ
た。


177 :33:2008/06/08(日) 14:01:06 ID:hcIw8fWq
夜が明ける、朝の町は静かだ。朝の散歩なのかフランス人が一人二人河のふちを歩
いている。時間がたつにつれ人の数も多くなる。仕事に行くのか、遊んでいるのか?
何時の間にか私達の周囲には大勢の見物人が集っている。つい先頃までと打って変
わって私達のあわれな姿を!何と思ってみているのだろう。

十二月十四日
飛行場警備員十名を残し他の者全部に命令がきた。「明日午後乗船地サンジャックに
向って出発せよ」プノンペンからサンジャックこの間は400K余。私は皆と共に出発の
準備をした。装具はできるだけ軽く無駄なものは一切捨てた。400Kこれからどうして歩
くのか?足に自信がない、しかし行かなければならない。

十二月十五日
午後四方に別れていた隊の者が集結した。総員40名。いよいよ出発だ。プノンペンの
飛行場ともお別れだ。私達は各々自分の装備を背負って出発した。今迄毎日通った
飛行場の端を通り池のほとりを歩いて一本道を南へ進んだ。先づプノンペンの仮小屋
で一泊した。
こゝで私達に十名に一丁の銃が渡された。行軍途中の危険防止?からだ。私達には
一丁の銃が重荷となったが捨てることもできず、交代で持つ事にした。

十二月十六日
思いがけない自動車の出迎えに一同大喜び、町を出て約一時間カポックの林を通り
渡河点に到着した。自動車はこゝまでである。渡船に乗って対岸の部落へ。こゝが行
軍開始の地点である。広場に造られた野営地、そこにはすでに方々から各種の部隊
が集っていた。私達の隊もこゝで一応解散した、そして再び新しい行軍の隊が編成さ
れた。総員二百名の部隊となった。私達は最後尾の小隊そして又その最後尾の分隊
となった。


178 :33:2008/06/08(日) 14:02:51 ID:hcIw8fWq
そこはほとんどが同期生であった。分隊長は藤田曹長、それに後藤曹長、兵隊四名、
そして私達十五期生(阿内、大貫、秋本、坂上、大園、池田)であった。私は再び一緒
になった同期生とその日はそこで一泊した。夜半にスコールに会い落着いて寝ること
も出来なかった。そこへ後発で来た十四期の茶木軍曹以下四名が到着した。彼等は
プノンペンから馬を引いて歩いて来たのだ、私達は早速食事を用意して迎えた。そし
て私達の分隊で馬を使うことにした。

十二月十七日 「行軍開始」
起床!と同時に飛び起きる、三時だ、まだ周囲はまっくら。装備は全部馬車に積んだ。
前進!私達はねむい目をこすって歩き出した。私は大貫と並んで歩いた、長い長いど
こまでも続く道を、やがて夜が明け周囲が明るくなる。朝食は昨日作っておいた冷たい
食事だが腹がへっているのでうまい。日がのぼると暑くなる、午前中歩き到着する野
営地それはカンボチアの寺の床下である。池か沼があると水浴だ。食事の水は民家
へもらいに行く。翌朝三時再び出発する、明けてもくれても歩く私達。

十二月二十六日
サイゴンへ向ってホクモンを出発した私達はくたくた。休憩!たった十分でも冷たい道
路にゴロリと寝てしまう。全く不思議なくらい良く眠ってしまう。出発準備!という声がま
るで一粁も二粁も先で呼ぶ様に聞こえる。丁度夜明前「パパーン」「ビューン」と云う小
銃の音、私達は道路の両側のくぼ地に身をかくした。越明党(べトコン)か英、仏警備
隊か、とにかく私達の集団に対する発砲である。幸いにして負傷者はない。私達は思
わぬ休憩となった。

発砲したのは仏軍であった。私達を安南(ベトナム)軍と思って撃ったらしい。サイゴン
の町へ入ったのは八時頃になったが町の中は独立運動が盛んで危険なので休憩が
出来ない、そのまゝ歩き続けて野営地へ。
(つづく)


179 :マンセー名無しさん:2008/06/08(日) 17:16:16 ID:4py7R0G5
おつ!

180 :マンセー名無しさん:2008/06/12(木) 16:26:56 ID:ql3KKlLu
保守

181 :33:2008/06/14(土) 15:45:28 ID:z/CWVB/2
十二月三十一日
プノンペンを出てすでに200K余、バリアに到着した。こゝが一番立派な宿舎である(刑
務所)。こゝにはたくさんの"カタツムリ"がいた。藤田曹長、後藤曹長、坂上伍長等バ
ケツに一ぱいも取ってきた。「正月のご馳走だ、うまいぞ」そう云いながら、からをむき
料理をはじめた。
夕食後、彼等の料理はでき上がった。「うまいぞ、喰ってみろ」坂上はにこにこしながら
食っていた。貝柱のようでおいしかった。

昭和二十一年一月一日
五時起床、元日も休まない。途中山の端からのぼる朝日を拝し新年を祝った。元日の
行軍は距離は短いが日中のためつかれを感じた。

一月十日
正午フーミーに到着した。そこには旧日本軍の飛行場があった、私達はその兵舎の一
部に宿泊する事になった。
しかしこゝでしばらくの間待機せよと云う命令がきた。しばらくの間、何日間か何ヶ月か
わからない。翌日から農耕作業がはじまった。あと50粁余で目的のサンジャックだと
云うのに、こんな所で足止めとは。いもの苗を植え、なすの苗を植えた。

一月二十四日
最後の出発命令がきた、元気が出た。夜明け前の暗い道を野を越え山を越え・・・・・
最後の宿営地についた。明日は目的地の乗船地サンジャックだ。過去一ヶ月の汗とつ
かれを忘れ400K余の行軍が達せられる事を喜んだ。自分自身の身体に自身が持て
た。

一月二十五日
最後の行軍だ、二十五粁たらずである。時間がたつにつれ近づく山、あの向こうがサ
ンジャックだ!!海があるのだ、空気に潮の香りがする。山の切れ目から水平線が見
える。"海"だ、間もなく到着だ。身体は汗でびっしょり、峠を越えると目の前は太平洋、
広々とした果てしない海、宿舎にはすでに先発の者がきていた。サイゴン、タイニン、
一番遠くの私達プノンペン組が集って再びにぎやかになった。


182 :33:2008/06/14(土) 15:49:34 ID:z/CWVB/2
宿舎は海岸の岩場にあった要塞陣地である。海に面した丘の中腹からのながめが美
しい。沖に赤さびた日本の輸送船が船首をさか立てたまゝの姿で沈んでいる。夜の海
は美しい。遠くの岬に光る灯台の灯、波がよせるたびにキラキラ光る夜光虫、遠くに光
る十字星、私達は毎日毎日船を待った。

三月十一日
私達「鷹」部隊の者はロンデンにて待機せよ、と云う命令がきた。ロンデンそれはサン
ジャックから北へ約三十粁のところだ。私達は再び歩いて出発した。
「ロンデン」
そこは一棟の仮小屋があるだけの広場である。翌日から早速小屋造りである。私は
十名の者と共に山に入った。そして木を切り竹を切り、小屋の材料を集めた。

約一ヶ月後山から帰って驚いた。たった一棟だった仮小屋が町の様に増えている。各
地から集った隊で、千名にもなっていた。
四月になって情報が入ってきた。復員船の数、乗船人員、出発時期等々。私達は間
近になった復員を首を長くして待った。

四月十五日
私達の集団の半数(約五百名)が出発した。急に半数になり、私達の出発も間近にに
なった。四月二十三日に最後の大円遊会を開くことになった。大会は各隊毎に準備さ
れた。

四月二十三日
いよいよ大円遊会の開始だ。広場の中央に造られた五重の塔を中心に広場一ぱいに
造られた屋台、お化け屋敷、舞台、等運動会も仮想行列も演芸会もすべて各隊対抗
で技を競った。楽しい一日も終り、あとは船を待つだけ。


183 :33:2008/06/14(土) 15:50:39 ID:z/CWVB/2
四月二十八日
待ちに待った命令がきた。午後六時に迎えの車がくることになった。私達は最後の整
理をした。おしいと思う物でも捨てなければならない。宿舎の前には山の様に長靴、蚊
帳、毛布、等が積まれた。倉庫に積まれた米俵、塩、缶詰等全部がベトナム人への置
土産となった。迎えの車は時間をおくれて日暮れになった。私達が全部乗車し終わっ
た時はもうすっかり暗くなっていた。

いよいよ出発・・・・私達は車の上から楽しく又苦しかった二ヶ月のロンデンの原に別れ
を告げた。もう一人の日本人もいない。たゞ残された品物を運ぶベトナム人が数人い
るだけ。

自動車で約一時間半にして、乗船地の宿営地についた。翌朝から乗船準備がはじま
った。各種の予防注射が行われた。午後中央の広場に整列させられ、英、仏両軍に
装備の検査を受けた。
四月三十日  乗船準備完了

五月一日   「乗船」
私達は十ヶ月の抑留生活の苦しみも忘れ「帰国」と云う希望に燃えて波止場へ向った。
波止場前の広場で、はるか沖の復員船「リバティ」を眺めながら連絡船を待った。間も
なく連絡船がきた。・・・・すでにベトナムの地から離れた。苦しい時、楽しい時、想い出
の多いカンボチア、ベトナムともお別れ。波止場を離れるポンポン船、次第に遠くなる
緑の山々、中腹に並ぶ建物、一時は私達の家であった。白い砂浜・・・・海岸にそゝり
立つ椰子、すべてお別れ。


184 :33:2008/06/14(土) 15:53:10 ID:z/CWVB/2
「帰国」
私達全員が乗船を終ったのは昼であった。船倉に装具を置いて一安心。
夕方いよいよ出港だ。静かにうなり出すエンジン、涼しい風がほゝをなでる。動き出し
ている。次第に速力を増す。夕暮れにつゝまれてゆく緑の山々。出港後一時間日はす
でに没して遠く岬の灯台の灯が光る。ふもとの光はサンジャックの町だろう。

五月二日
前後左右、どこを向いても海!海!大海原。

五月三日〜十一日
イルカをながめ、夜空の星を数える毎日。十字星が遠くなるにしたがって故国が近づく。
十字星が水平線スレスレ台湾をすぎ、沖縄も近い。

五月十二日
出港後十二日目前方に陸を見た。九州だ、日本だ!私達は喜び合った。間もなく瀬戸
内海だ。緑の島々が手に取るように、近くを走る漁船、漁師、それはインドネシア人で
もベトナム人でもない、日本人だ。日本の漁船だった。

大竹港に入港したのは夕方になった。明日は上陸である・・・・私は上陸準備を終え甲
板へ出た。おそらく全員であったろう。夜の町の灯が水に映って美しい。なつかしかっ
た日本・・・・敗戦国日本の様子は知らないが。

目に映る緑の山々、チラホラと見える灯!
海辺を走る汽車の窓の灯。
夢にまでみた、日本。
五月十四日  品川駅着
(おわり)


185 :マンセー名無しさん:2008/06/16(月) 01:53:41 ID:fu9rZuZu
おつ

186 :マンセー名無しさん:2008/06/22(日) 12:38:12 ID:C2zhNOz3
保守

187 :33:2008/06/22(日) 14:21:45 ID:H5l4gPmq
中尾周作氏宛手紙

梅 田  実

元第二十六練成飛行隊  中尾周作隊長宛

拝復懐しい御便りに接し感激して居ります。隊長様には御元気で御活躍の御様子何
よりと御慶び申し上げます。

不肖私も昭久隊の一員として当スマトラ島メダンに不時着してから、早や三十四年に
成ります。其の間紆余曲折何回も死線を越え、インドネシア独立を獲得し子供も沢山
授かりどうやらインドネシアに定着しました。

当時は一旁ならぬ御心配をかけました。当時の気持は若気の至りとも申しましょうか、
事故の多かった何時も心配を掛けた私ですが、昭久隊の一員である自覚のもとに、
最後の御奉公と思って取った行動で、勿論戦死を覚悟と云うよりは目的としてメダンに
残ったわけです。

今思えば自分勝手な考えで皆様の迷惑を考えない一人よがりの行動を取ったと、戦
隊長様をはじめ皆様に御詫び申し上げる次第です。ですけれど、今だに私は初志に
従い、日本のため、インドネシアの為の人生航路です。

現在私は、インドネシアで医者(診療所)を開設して居り、社会事業としてマミアイ孤児
院の孤児達九〇名の無料診断と、日本の天理教日野大教会から毎年応援して頂く孤
児の衣類の寄贈を既に約十年続けて居ります。


188 :33:2008/06/22(日) 14:24:06 ID:H5l4gPmq
其の間五回も日本に帰らせて頂いて居ります。亦今年に入って財団法人日野インドネ
シアを設立し、日本語の教育を始めました、近い将来には、柔道、唐手等スポーツセ
ンター、生花、お茶、等の文化センターに力を入れたいと思っています。隊長様の申さ
れる様に最後迄、昭久隊の名のもとに頑張り七生奉公を誓います。

既に子供は二十七才、日本に留学中はカラーテレビの技術を習得、国家試験に合格
して帰棉、現在テレビ技師として活躍して居ります。
次の三男は天理教本部で教理の勉強を続けています。
今年の三月には長女が日本に留学します。
此の様に梅田家と申しましょうか、私自身が同化をしながら七生御奉公を誓って邁進
して居ります、御安心下さい。

書きたい事は沢山ありますが、今日は此の辺で失礼します。戦隊長殿にはくれぐれも
宜敷くお伝え下さい、戦友の皆々様にも宜敷く、来年は昭久隊の決戦場、メダンにお
越し下さい、充分御案内させて頂きます。
一九七九年二月二十二日       敬具

追伸
パレンバンから命がけで戦隊長殿の処まで共にかけつけた加藤君に宜敷くお伝え下
さい。
同期で尺八の上達であった鴨山君に宜敷くお伝へ下さい。
(おわり)


189 :33:2008/06/22(日) 15:00:46 ID:H5l4gPmq
天国と地獄

中 谷  啓 三 郎

昭和20年8月16日、私はマラリア再発の為入院中の陸軍病院で悲しい敗戦を聞いた。
命拾いして以来今日迄30余年生き永らえている。昭和19年晩夏からフィリッピンの我
が航空基地に対する米空軍の攻撃は熾烈を極めた。私の所属する部隊は第三航軍に
配属替となり、昭南島への転進命令をうけた。

最後搭乗は私と僚機2機の九七戦、勿論丸腰。いよいよ脱出の払暁、数十機の敵襲を
うけ、ペラを廻したまゝの3機は無残花火の様に燃えつきてしまった。悪夢の様な十数
分がすぎた。あちこちで焼けたゞれた友軍機の残骸、逃げ遅れたのか黒焦げの死体や
負傷に苦しむ整備隊の兵達、軍医もまともな医療品もない。特に地獄絵を眼のあたりに
している。悲惨!

我々は幸いに只一機被弾を免れた四航軍の軍偵に頼んでマニラ迄脱出に成功した。代替機などあろう筈もない。本体に合流すべき便を求めて、血まなこの奔走、朝日新聞マ
ニラ支局田中氏(私の先輩)の計らいで、幸にも海軍の輸送機に便乗を許され、ボルネ
オ経由ジャワ島マランへ。

食うや食わず、着の身着のまゝ戦火の真只中フィリッピンから流れ着いた私。その眼に
映った高原の町マランは将に天国!緑と花に囲まれた美しい町並み。親切で友好的な
現地人、魅力的なハーフカースの娘さん、ふんだんにある美味しい食べ物、一体何処で
戦争をしているのかな?という錯覚にとらわれる平和郷であった。


190 :33:2008/06/22(日) 15:02:21 ID:H5l4gPmq
夢心地の幾日かが過ぎてから、バンドンを経て、ジャカルタで本体の一部と合流した。お
互いに連絡のつかぬまゝ約2ヶ月、案じていた戦友の顔を見て無事を喜び合う。日なら
ずして新たに飛行機を受領した後、シンガポール経由、新任地たるスマトラ、メダン郊外
に転出して行った。

翌年2月、思い掛けぬ転属命令で、私の他、光永、亀田両少尉と3名マランに向う。正
直に云って私はこの幸運を天に感謝した。それ程当時のマランは素敵なユートピアであ
った。然しながら、僅か半年后から始まる悲劇の舞台など神ならぬ身の知る由もない。

人の一生とは将に数奇な運命の糸に操られ哀しいメロドラマの様です。
終りに、この忌まわしい戦で散華した多くの友人、戦友の霊よ、永久に安らかれと祈る。
(おわり)


191 :マンセー名無しさん:2008/06/23(月) 16:06:07 ID:gch0bcQT
         ,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
         (.___,,,... -ァァフ|          あ…ありのまま、昨日驚いた事を話すぜ!
          |i i|    }! }} //|       在日三世の友人と話し込んでたら、『北風と太陽』の話に飛んだ
         |l、{   j} /,,ィ//|       で、奴はこう言ったんだ『俺が北風だったら竜巻起こすぜ!』
        i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ        ‥「え?それじゃぁコート脱ぐ以前に死んじゃうだろw」
        |リ u' }  ,ノ _,!V,ハ |        俺は答えた。すると奴はこう言った。
       /´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人         『だからさ、木っ端微塵にすりゃぁ嫌でも脱げんじゃん!』
     /'   ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ        な… 何という思考回路なのか、一瞬めまいを感じたが
    ,゙  / )ヽ iLレ  u' | | ヾlトハ〉        おれも、もう何が正しくて何が間違ってるのか、わからなくなった
     |/_/  ハ !ニ⊇ '/:}  V:::::ヽ        頭がどうにかなりそうだった…
    // 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ
   /'´r -―一ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐  \    朝鮮人ってのは、カニクイザルだとか黒い山葡萄原人だとか
   / //   广¨´  /'   /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ    そんな類人猿の亜種だってのは、間違いねぇ
  ノ ' /  ノ:::::`ー-、___/::::://       ヽ  }
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::...            すっげぇ忌わしいものの片鱗を垣間見たぜ…

<YouTube版>
在日特権断固反対!国民大行進 in 小平市
http://jp.youtube.com/watch?v=5-W-bWZ3ZTg

192 :マンセー名無しさん:2008/06/29(日) 21:46:29 ID:W8YvBzmn
あなたのおじい様の戦争体験を教えて その19
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/army/1214673329/

新スレが立ちました、こちらもよろしく。

193 :マンセー名無しさん:2008/06/30(月) 03:41:23 ID:qdvbPFzF
>>192
乙であります!

194 :マンセー名無しさん:2008/07/05(土) 22:43:31 ID:xrQuBDPa
保守

195 :33:2008/07/06(日) 18:16:30 ID:cLEruDbU
体験談とはちょっと違うけど、他に投下する人いないから、
↓の本から抜粋。

ttp://www.soutokufu.com/up/img/up544.jpg


少年飛行兵かたぎ

日本陸軍に少年飛行兵制度がもうけられたのは昭和九年、その第一期生の試験は昭和八
年八月に行われた。
募集人員は操縦生徒70名、技術生徒100名であった。
しかしなにぶん、少年兵を募集するのは初めてであったし、その宣伝も大して行われな
かったので、応募した者のなかには、陸軍士官学校を受けるつもりで試験に臨んだ者が
いたり、応募者も中国地方、九州地方がほとんどだったりして、まだ全国的に少年飛行
兵制度は普及していなかったようであった。

とにかくこうして合格した者は、所沢の陸軍航空学校に設けられた生徒隊に編入されて
教育を受けることになったのである。
少年飛行兵の応募資格は、当時の尋常高等小学校卒業、または旧制中学校の二年終了の
者で、学力は小学校卒業程度ということになっていた。
試験の内容としてはそれほど程度の高いものではなかったが、身体検査だけは当然のこ
とながら厳しく行われた。

今でいえば満で十四歳、だが、飛行機の操縦という高度の運動神経を必要とするのは、
このくらいの年齢の時に、徹底的に教え込むほうが得策だったのである。
理屈より体で覚えさせるということである。


196 :33:2008/07/06(日) 18:19:11 ID:cLEruDbU
事実、少年飛行兵出身のパイロットは、空戦において、反射神経がすぐれているので圧
倒的に強かったのである。
昭和九年八月になると熊谷陸軍飛行学校、陸軍航空技術学校が創設され、操縦生徒は、
熊谷陸軍飛行学校の生徒隊に、技術生徒は陸軍航空技術学校の生徒隊に編入されて教育
されることになった。

昭和十三年、新しく東京都下の村山に、東京陸軍航空学校が設立され、従来の教育方法
が一変した。
つまり、それまでは、始めから操縦は操縦、技術は技術と分かれて教育されてきたのが、
東京陸軍航空学校では、最初の一年間は、総合的な教育を行い、その間に本人の適性を
調べ、一年後操縦・技術・通信の三つの専門科目に分けて、それぞれのコースに進める
ことにしたのだった。

こうなると本人がいくら望んでも、希望どおりにはいかない場合がでてくる。
しかし、多年の経験を有する教官が判断するのだから、間違いは比較的すくなかったと
いわれる。
操縦科を望むのは誰しもそうであろうが、技術(整備)・通信もまた、航空兵科にとって
は操縦にまさるとも劣らぬ重要科目だったから、本人の希望ばかりきいていたのでは操
縦以外の科目に人が集まらなくなるので、やむを得ない処理であったろう。

この新しい教育方法による募集が行われた昭和十三年には、全国から二万人の少年が応
募し、人気は上々であった。
こうして東京陸軍航空学校で一年、総合教育を受けた後、操縦コースは熊谷の飛行学校
に、通信コースは水戸陸軍飛行学校に、技術コースは所沢の陸軍航空整備学校に編入さ
れるのだった。


197 :33:2008/07/06(日) 18:22:13 ID:cLEruDbU
もっとも、戦争が激しさをまし航空兵科の人員が大量に消耗されるようになると、全国
各地に、少年飛行学校やその分校が誕生し、教育もやや速成の実戦主義で行われるよう
になったのである。

各専門科目に分かれてから二年間の教育を受けて卒業すると伍長勤務上等兵として、各
実戦部隊に配属され六ヶ月後に伍長(下士官)に任官することになっていた。
三つの専門科目のなかで、やはり一番の難関は操縦コースで、たとえ二年目に操縦コー
スに選ばれても、成績がよくないとただちに通信・整備コースに回されるので、油断で
きないのだった。

操縦不適格者として通信コースに回された者については、機上の機関銃手になる戦技を
教育されるのが普通だった。
こうして実戦に参加するようになると、初期のころでも四年から五年の間には、下士官
の最高位である曹長に進級し文字どおり、航空兵科の中堅として活躍することになるの
だった。

少年飛行学校の上級校としては、陸軍航空士官学校があったが、この両校の出身者の違
いは、ただ階級だけではなく、歴然としていた。
士官学校出身者は、始めから下士官、兵を統率・指導するための教育を受けているのに
対し、少年飛行学校出身者は、純粋に航空兵として戦う技術と根性をたたき込まれたの
だった。

航空兵科では地上と違って、空に上がってしまえば、階級がなんだ、自分の身を守るの
は自分の技術しかないんだという、いい意味での個人主義的な色彩が強い。
戦闘の専門家はおれたちなんだという誇りが、時として士官学校出の若い将校に、一種
の威圧感としてのしかかったこともあったろう。


198 :33:2008/07/06(日) 18:23:07 ID:cLEruDbU
航空兵科では地上と違って、空に上がってしまえば、階級がなんだ、自分の身を守るの
は自分の技術しかないんだという、いい意味での個人主義的な色彩が強い。
戦闘の専門家はおれたちなんだという誇りが、時として士官学校出の若い将校に、一種
の威圧感としてのしかかったこともあったろう。

もっとも、少年飛行学校出身者で、下士官になり、さらに試験を受けて航空士官学校に
学び将校となる道を選んだ者もいた。
だが大部分の少年飛行兵はただ飛ぶことのみに生き甲斐を感じ、さらに上級の学校で、
頭の痛い勉強をするのは苦手だと思ったに違いないのである。
ここに少年兵の純粋さがあり、こういう表現は誤解されるかもしれないが、現代でいう
ところのカッコよさがあったのだろう。

ただ、カッコよさの点についていえば海軍の少年飛行兵である予科練におよばないのは
やはり陸軍という色合いのせいであろうか。
ハワイ急襲、マレー沖の戦果、初めての特攻隊、そして太平洋戦争全般を通じての傑作
戦闘機「零戦」の活躍など、航空戦についていえばやはり海軍のほうが派手であり、陸
軍航空隊は主として中国大陸、ビルマ、インドを主戦場としたために、華やかな話題と
いえば、「加藤隼戦闘隊」ぐらいのものであった。


199 :33:2008/07/06(日) 18:23:55 ID:cLEruDbU
われわれの記憶によれば戦後になってしばらく「予科練がえり」というやや乱暴めいた
学生の一団が横行したが、「少年飛行兵がえり」といった言葉はついぞ聞かれなかった。
このあたりに陸軍と海軍の同じ少年兵でありながら教育のやり方に違いがあったのかも
しれない。いわばそれだけ陸軍の少年飛行兵の方が純朴だったのだろう。

それは、同じ年ごろの少年であっても、陸軍幼年学校を受験する者と較べた場合にいっ
そうはっきりするだろう。
幼年学校は将来、士官学校、陸軍大学校へ進む幹部将校を育てるために、中学の二年、
三年を修業した者を入学させて、徹底的なエリート教育をほどこす学校だった。
入試もむずかしく、また、おおむね高級軍人の子弟を中心に入学させていたので、いわ
ゆる庶民の少年を対象にした「少年飛行兵学校」とは、まるっきり教育方針が違ったの
である。
つんとすました幼年学校のエリート少年と農村や町の普通の家庭に育ち、ただ大空に憧
れた少年飛行兵を較べれば、後者の純粋さが痛いほどわかるのである。
(おわり)


200 :マンセー名無しさん:2008/07/07(月) 02:24:43 ID:Mtf1ZwRA
乙であります!

201 :マンセー名無しさん:2008/07/07(月) 22:46:16 ID:+vyOj3H/
感謝でござる。

202 :33:2008/07/12(土) 14:35:19 ID:T/0Wl3Ru
ヒコーキ野郎と陸軍飛行機

少年飛行兵を志願した者はほとんどが操縦希望であり、さらにその大部分は戦闘機乗りを
望んでいた。だが志むなしく整備、通信にまわされても彼らは文句一つ云わず黙々と与え
られた任務を全うした。
一方希望通り操縦コースに進んでも全員が空中戦の花形である戦闘機乗りになれるとは限
らなかった。操縦コースの者のなかで約三分の一にしぼられ、後は偵察機、爆撃機の操縦
者となるのである。

こうした難関を突破して晴れて戦闘機乗りになった者は、特別な戦技、射撃の訓練を受け
た。使用機は、ノモンハンで有名をはせた九七式戦闘機が多かったようで、その後に一式
戦隼、二式戦鐘馗、三式戦飛燕、四式戦疾風へと進んで一人前の戦闘機乗りになるのであ
った。

日本軍の操縦者は下士官以上とされていたので、陸軍では少年飛行兵出身者が文字通り底
辺であり、かつ主戦力となっていた。日本と戦ったアメリカではパイロットはいずれも将
校だったので、少年飛行兵出身の伍長が大空でいちばん若いパイロットだったといえよう。
なお特攻隊に参加して散った少年飛行兵出身の下士官はすべて死後、少尉に進級されるの
が慣わしであった。

操縦者というのは概してそうだが、特に戦闘機乗りは、腕一本でやるといった気持が強か
った。たった一人で飛行機を手足のように使って敵機を撃墜するのが役目だから、どうし
てもそうした名人気質になってくる。
その点、爆撃、偵察となると、まず如何に目的地まで爆弾を運んで落とすか、あるいは、
どんな困難があってもそれを乗り越えて、基地まで報告にたどりつかなければならないと
いった別の目的があるので、戦闘機乗りほど、勝手きままにふるまえない忍耐強さが必要
であった。


203 :33:2008/07/12(土) 14:37:56 ID:T/0Wl3Ru
日本で初めて飛んだパイロットは徳川、日野両大尉でいずれも陸軍の将校であった。明治
四十三年十二月のことである。
こうして大空へは陸軍は海軍より一歩先んじてスタートし、大正三年第一次世界大戦が始
まると、陸軍機は青島のドイツ軍を攻撃した。日本の空軍が実戦に参加したはじめてのケ
ースだった。

やがて航空機の進歩とともに日本では陸軍、海軍それぞれ航空隊を編成しパイロットの養
成にあたった。陸軍では大正八年、フランス陸軍から教官団を招いたが、その時、彼らが
持ってきたニューポール81E2という飛行機を大正十年に甲式一型練習機として採用し、三
菱で国産させた。
80馬力、最高速130キロ、乗員二名といった複葉機で今なら軽自動車に毛を生やした程度
の性能であった。

同じくフランスの教官団が持ってきた、ニューポール83E2というタイプも同時に初等練習
機として採用になり、これは甲式二型と呼ばれ、中島で国産された。
もう一つニューポール24C1という単座の練習機があり、これは甲式三型練習機と呼ばれ、
最高速も160キロ前後出た。このタイプの原型はフランスが第一次世界大戦で使用した軽
快な戦闘機だったので、性能がいいのは当り前だった。これらの練習機は、おおむね大正
の末期まで使用された。

その後、陸軍の練習機としては同じフランス製のサルムソン機が使われた。サルムソンは
もともとフランスの複座高速偵察機で日本でも陸軍が輸入して偵察機として使用していた
ものであった。性能は230馬力、最高速182キロで、少年飛行兵の初期の生徒たちは、こ
のサルムソン練習機できたえられたのだった。


204 :33:2008/07/12(土) 14:38:57 ID:T/0Wl3Ru
「赤トンボ」と呼ばれて親しまれた練習機は九五式一型練習機(キ九)で、これは昭和九
年立川飛行機で作られたものであった。
海軍の「赤トンボ」九三式練習機とともに、傑作練習機といわれ昭和十八年までに2000
機以上製造されたといわれる。350馬力、最高速220キロ、航続時間三・五時間で、少年
飛行兵出身者のほとんどがこの練習機のお世話になっているはずである。

アメリカの戦争映画などを見ると、特攻のシーンでよたよたと日本の複葉機が飛んでくる
ことがあるが、戦争末期には、この練習機まで爆装して特攻に飛び出させたのだった。
この練習機での練習が終わると、さらに高度の操縦技術を身につけるために高等練習機に
乗ることになる。九九式高等練習機という単葉の練習機があった。

これは九八式直接協同偵察機という実戦機をそのまま使用したもので、性能は、510馬力、
最高速348キロ、乗員二名という堂堂たるものであった。
こうした練習機で訓練を受けた操縦者たちは、それぞれ戦闘、偵察、爆撃と分かれて実戦
に参加したのだった。
昭和九年に第一期生として入校した少年飛行兵が、初めて実戦に参加したのは昭和十二年
七月に始った支那事変からだった。

九一式戦闘機、九二式戦闘機、九二式偵察機、九三式単発軽爆、九三式双発軽爆、九三式
重爆などを駆って紅顔の若武者たちは勇躍戦線に赴いたのだった。
だが少年飛行兵出身者が文字通り陸軍航空隊の華と謳われるようになったのは昭和十四年
五月のノモンハン事変以来である。
この戦闘には少年飛行兵の一期、二期、三期、四期の若武者たちが参加し、当時の傑作戦
闘機九七式戦闘機に搭乗し、ソ連のイ15、イ16戦闘機に対し圧倒的な勝利を得たのだっ
た。


205 :33:2008/07/12(土) 14:53:47 ID:T/0Wl3Ru
このノモンハンの戦闘では、陸上軍は、終始、ソ連軍に押されがちであったが、空戦に関
しては、一方的な日本陸軍航空の勝利であった。そのことは、日本軍の戦闘機120機で、
ソ連軍の戦闘機1000機以上を撃墜していることからも分るのである。
九七式戦闘機はいわゆる固定脚であったが、操縦性がいいのでパイロットに愛され、太平
洋戦争の初期まで第一線で活躍した。

このノモンハンでの少年飛行兵の大活躍が報じられるや、少年飛行兵を志願する少年の数
が飛躍的に増加したという。「幼年倶楽部」「少年倶楽部」などの雑誌に少年飛行兵の訓練
風景などがさかんに書かれるようになったのもこの頃からである。

少年たちにとって少年飛行兵は大空への憧れとともに、軍人としての早道でもあった。
国民皆兵の時代、誰でも成人になれば赤紙がきて二等兵になるのだ。
そうした時代に学歴は中学校二年終了か高等小学校卒業程度であればよく、学力は小学校
卒業程度で、合格すれば三年後には伍長勤務上等兵、さらには六ヶ月たてば下士官になれ
るのだから少年たちがきそって少年飛行兵に応募するはずであった。
それだけに競争率は高く、戦争末期の航空要員大量生産の時代をのぞけば、常に五百倍以
上の難関であったといわれる。
(おわり)


206 :マンセー名無しさん:2008/07/14(月) 00:38:25 ID:hEP+2hWM
2011年12月 どさくさまぎれにカバヤが楽天とライブドアを買収。
2012年1月 東京−岡山ノンストップリニアが建設される。
2013年2月 岡山のあまりの都会さに失禁死する人間が続出。社会問題へ。
2013年3月 岡山で2度目の裸ブーム。全裸が合法化され推奨される。
2013年7月 この年から甲子園の行進が全裸になる。
2013年8月 世界一の高さ及び容積を誇る人類最強の建造物ハラシバラシティ新棟建設される。
2014年2月 日本を岡山国に改名。初代総統、水道橋博士。北朝鮮崩壊、大朝鮮国成立。
2014年9月 岡山国、アジア、インドとアフリカを併合。
2014年10月 国連を岡山に移転。
2015年8月 地球を岡山星へ改称。
2015年11月 岡山で原子配列操作技術が完成される。
2016年1月 文部科学省が廃止され、ベネッセが取って代わる。
2016年2月 西大寺会陽が1ヶ月にわたり開催される。参加者が初の1億人突破。半分くらいが死亡。
2016年6月 距離単位の「1海里」を「1ハヤシバラ」に改名。
2016年9月 「ノーベル賞」を「橋龍賞」に改名。
2017年1月 「芥川賞」が「内田百闖ワ」に改名。賞金1億円。
2017年2月 西大寺会陽の「宝木(しんぎ)」に賞金100億円。参加者3億人突破。7割くらいが死亡。
2018年5月 初代総統水道橋博士、食あたりで崩御。
2019年5月 アメリカ大統領選挙で岡山系移民が当選。公約は「岡山国との統一」
2019年7月 岡山国、アメリカを併合。
2020年4月 岡山国、ロシア連邦とEUを併合。
2021年11月 岡山人が国連議席率100%を獲得。
2022年1月 人類の発祥が岡山であることが判明。
2022年6月 火星の人面石が古代岡山人による建築物であることが証明される。
2023年1月 月が岡山人により作られた人口惑星であることが証明される。
2023年2月 西大寺会陽の「宝木(しんぎ)」に賞金1000億円。参加者12億人突破。9割くらいが死亡。
2023年12月 太陽系を岡山星系に改称。
2024年9月 人類を岡山人類と改名。
2024年1月 「平和は裸から」をスローガンに全裸主義が横行。
2024年5月 地球上の全生物を岡山物と改名。
2024年9月 人類全体に謎の奇病が発生する。
2025年 汲み取り式便所から発生する病原体により人類滅亡。

207 :33:2008/07/19(土) 14:02:02 ID:00hSw8f1
生徒生活の一日

先ず五時三十分の起床喇叭がたからかに校庭に響けば、暁の夢まどかな生徒たちはすわや
とばかり飛び起き十分間にて寝具の整理をすまし、五時四十分には既に校庭にて点呼を受
けている。点呼が終われば各個、宮城、大廟、郷里遥拝、保健体育、兵舎内外の清掃、こ
れが終わればいよいよ六時四十分の朝食である。朝食後は七時、勅諭の奉読があり、七時
三十分までの自習時間、七時四十分からは服装検査、御製奉唱などで御製奉唱は雅楽寮制
定のいとも典雅な昔ながらの調べの奉唱である。

八時から十二時までは学科教育で、各学科の教官はそれぞれ国家のために一生懸命に教え、
生徒たちも国恩に酬いるため一生懸命に勉強する。かくて三時間の教育は終わり、待ちに
待ったる昼食となる。昼食は一日中にて一番の御馳走であるから、さなきだに大食漢の猛
者連中、週番指令の食事始めの号令も待遠しく、「戴きます」の挨拶もろともガツガツやり
始める。入校最初こそ兵食にはチョット参った貌であるが、二、三日にしてその本領を遺
憾なく発揮して、与えられたる食事のみにては不十分な有様である。

午後一時より三時十五分までは術科で、終われば六時まで適宜運動時間だ。特に班長指導
のほかは生徒自身色々の運動を行い、嬉々としてその生活に浸っている。六時にはまた楽
しい夕食、七時までは休憩、七時より九時までは自習、九時点呼、九時三十分消燈にて、
ここに至って全員各内務班に帰り一日の疲れを癒すべく安らかな夢路を辿るのである。
(当時の少飛校志望者のための栞より)
(おわり)


208 :33:2008/07/19(土) 14:02:52 ID:00hSw8f1
受験、そして合格     児玉敏光(四期)

試験は厳格な身体検査と二日間にわたる学科試験が行われた。しかも身体検査を通過した
ものだけが学科試験を受ける資格が出来るので、まず何よりも身体が丈夫でなければなら
ない。だが気にかかることが一つあった。それは身長であった。

体格基準表によれば百四十五センチなければいけないというのに私は百三十八センチしか
ないのだ。いくらなんでもこれでは最初から不合格を宣言されたにも等しい。しかし私は
くじけなかった。受験まであと三ヶ月、その間に出来る限りの努力をした。母校の体育教
師に相談し、鉄棒と体操にやっきに取組んだのだった。その間にも飛行機と空への関心は
日に日につのる一方だった。「少年飛行兵殉職す」という新聞を読んで、それが母の目にふ
れぬようこっそり始末したのもその頃の心情で、いつわらぬ思い出の一コマである。(中略)

そうして暑い夏が過ぎ、南国の秋もようやく深み始めた十月の初旬、ある日外出から帰宅
した私に母が血相を変えて告げた。「憲兵が身元調査にきた」という言葉。「シメタ!」と
私の心は高鳴った。身元調査があれば八割まで合格確定という話を私は前に聞いていたの
だった。「あるいは大丈夫かもしれない」

私は生色を取り戻した、そうするとまた別の不安が頭をもたげはじめた。その頃、夜店で
十銭の小遣いを奮発して手相を見てもらったのも、そうした心のあらわれであったろう。
易者は言ったものだ。「合格おめでとう。おまけにあなたの手相には二重生命線がある。飛
行機に乗っても絶対に死ぬようなことはありません。」

私はそれを信じた。信じることが生きること、ただそれだけの気持ちだったのだ。
易者の言葉は本当であった。「少年飛行兵として入校を許可する」その嬉しい合格通知はそ
の年もおしせまった十二月二十七日に私の手もとに届いた。まるで夢のようであった。神
棚の父への報告、家族一同の心づくしのお祝い、親戚、学友、恩師へのあいさつ、こうし
てあわただしくその年も暮れた。
(おわり)


209 :33:2008/07/19(土) 14:05:44 ID:00hSw8f1
初飛行の便りを母へ    山中安和(十期)

全精力を傾けての基本訓練が終るといよいよ「赤トンボ」とよばれる初級練習機により本
格的な飛行演習がはじまるのだ。初飛行に胸を躍らせ、朝露に濡れた飛行場の草を私たち
の隊伍は元気よく蹴散らして行く。空は澄みわたり、そよ風の飛行日和だ。

ピスト(空中勤務者控所)の前に整列した私たちに、教官、牧野中尉は
「人間は必ず一度は死ぬ。また地球に引力のある以上、物体は落ちることに決まっている。自明の理である。これからの訓練で誰が先に死ぬか、ただいまから死の競争をはじめる」・・・・(中略)
おりから練習機は一斉にエンジンの始動を開始した。私は第一回の搭乗組だ、教官への報
告が終ると、一目散に愛機目がけて駆け出した。

助教はすでに半身を座席から乗り出して私の到着を待っている。
「山中生徒第八号機同乗、課目、場周飛行」
爆音に負けじと、どなるように報告すると、前席にとび乗った。
安全バンドを締め、落下傘の金具を装着すると、機はもう発進線に着いている。

"発進よし"の白旗がサッと上る。同時に「出発!」と助教のするどい声が伝声管から伝
わる。私は復唱して、操縦桿を前に倒し、レバーをぐっと開くと機は力強い爆音とともに
尾部を上げて地上滑走に移った。やがて速度がつくころ、桿を手前に軽く引いたかと思う
といつのまにかフワリと浮き、そのまま緩やかな上昇姿勢で高度を上げてゆく。
第一旋回を終り水平直線飛行をつづけると、「力を抜け!」と怒鳴られる。しまったッ。桿
を握る右手は生卵を握る要領、両足は軽く踏棒に副えなければならないことは耳にタコが
できるほど教えられた基本動作なのだ。「桿を離せ」


210 :33:2008/07/19(土) 14:42:00 ID:00hSw8f1
機は早くも着陸コースに入り、高度を下げてゆく。広い飛行場の草がぐんぐん眼前に迫っ
たかと思うと、ゴツン、ガタガタと、ゆるい振動を残して接地した。準備線に戻り、次の搭乗者と交替。
「山中生徒、第八号機同乗終り、異常なし」
あまりに短い飛行で物足りない。ピストの記録版を見ると、なんと飛行時間は十六分と記
されてあった。私はその夜はじめて空を飛んだ感想を綴って母に送った。
(おわり)


本をスキャンしみた。興味のある人はどうぞ。
ttp://www.soutokufu.com/up/img/up548.lzh
ttp://www.soutokufu.com/up/img/up549.lzh

需要があれば残りもうpするけど。


211 :マンセー名無しさん:2008/07/20(日) 11:36:44 ID:dj3LoJxD ?2BP(0)
>>210
よろしくお願いします。
ここは書き込みが途切れるのを嫌うROM専が多いと思うので、
普段はまったく反応が無いと思います。

212 :マンセー名無しさん:2008/07/21(月) 01:40:17 ID:fbhRv5tQ
>>210
いただきました。
感謝です。

213 :マンセー名無しさん:2008/07/23(水) 16:07:31 ID:sTEhrLTw
>>210
ありがとう!
アク禁くらっててお礼が遅くなりました。

214 :熱湯 ◆NettobIFhI :2008/07/23(水) 16:12:23 ID:9A+MR+UU
なつかしいスレが上がっていますねw

|-`).。oO( 後一月もすると、前スレのお爺様も三回忌ですな…

215 :33:2008/07/27(日) 14:56:50 ID:lf1mBouS
>>211
どうもです。
了解しました。
一人いれば十分と思っていましたが、4人もいれば言うことありません。

以前と同様黙々とやっていきます。
週一くらいのペースになると思いますが、気長に待っていてください。


216 :33:2008/07/27(日) 14:58:04 ID:lf1mBouS
酷寒の北満  −整備魂−  坂本鶴男

太平洋戦争もいよいよ熾烈の様相を極めてきた昭和十八年二月一日、当時満州国浜江省綏
化を基地として百式重爆撃機をかって日夜酷寒と戦いながら訓練していたわが飛行第五十
八戦隊に、突如、南方出動の命令が下った。だが目的地はどこか、明らかにされなかった。

整備に任じていたわれわれは南方出動の準備にまったく、忙殺された。それまで無理して
使った飛行機の主要部である機体、エンジンの整備は、もちろん、重爆撃機の生命である
爆撃装備、照準眼鏡の調整、無線、武装、それに飛行中枢ともいうべき計器、エンジンの
聴診器の役目を果す各種の計器、また高空飛行に絶対欠くことの出来ない酸素吸入器、そ
の他各種の付属品に至るまで整備関係者はあらゆる角度から点検して、万全を期した。

出動予定日は一日たりといえども、これを延期することは許されない。酷寒零下、三十数
度の中であらゆる困難を克服して整備に当るわれわれの苦労は並大抵ではなかった。格納
庫の中は暖房設備がしてあるとは言え名ばかり、それどころか隙間風はいたるところから
音をたてて吹き込んでくる。だが屋外で作業するより寒風を直接受けないだけに、格納庫
の中がまだましだった。格納庫の中に入れて整備が出来る飛行機はそれでもよい方で、格
納庫の中に入れられない二、三機の機体は野外で整備しなければならない。

北満でも二月はことに寒さがひどく、連日零下三十数度の風は針で肌を刺される思いであ
った。うっかり素手で金属にふれるものなら、たちまち凍傷にかかる。下手をすると凍傷
にかかった部分の指や手を切断しなければならない。整備関係者が特に困ったことは、細
かい部分、手の入れにくい部分であった。皮肉なことには、重要な部分はそんな場所に取
付けられてある。馴れた者でも完全な整備は容易な業ではなかったが、整備員はなんの不
平も洩らさず防寒服でふくれ上がった重い身体を身軽に動かし油まみれになりながら、整
備をいそいだ。


217 :33:2008/07/27(日) 14:59:02 ID:lf1mBouS
いよいよ出動の日がやって来た。先ず雑多な携行品や付属品は爆倉内や胴体内に搭載する
のだが、積み込みには、細心の注意を払わなければならない。というのは、搭載品の積み
込み位置や重量の加減によって、飛行機の安定性にもっとも重要な重心の位置が狂ってき
て危険が伴なうからだ。かつて積み込みの方法や、重量の加減が悪くて、離陸直後に失速
墜落した例はいくらでもある。

搭載品の積載を終ると、一部の残留者を残して、全員機上の人となった。つぎつぎと、エ
ンジンの始動が開始され精魂こめて整備された飛行機は部隊長機を先頭に爆音を寒空に轟
かせて離陸する。
搭載品の重量が重いため、離陸時の長時間のオーバーブースト(ガス・超圧縮)の運転が
気にかかったが、全機二十七機みごと離陸、綏化上空で航行隊形を整えると、機首を一路
南の空に向けた。これで北満の酷寒ともお別れか・・・・・・

途中、燃料補給や整備休養のため北京に立寄る。着陸すると、整備関係者は早速、愛機の
整備や、各部分の点検に取っ組んだ。移動の途中において、一機たりとも、故障機が出れ
ば、全機の行動は阻害される、万一故障機が出たら故障回復のため整備関係者は力を合わ
せ、恢復が遅々として進まないとなれば、交代で徹夜の努力もおしまないのだ。このよう
に整備関係者の旺盛な責任観念、愛機精神があってこそ、大部隊の移動が可能なのだ。
(おわり)


ttp://www.soutokufu.com/up/img/up551.lzh
ttp://www.soutokufu.com/up/img/up552.lzh


218 :33:2008/08/02(土) 15:56:11 ID:JbAuXupU
山下兵団を救った旧式九七戦闘機   衛藤末蔵(四期)

昭和十六年十二月四日午後、第二十五軍(第一、第五、第十八師団が主力)の精鋭を満載
した、三十七隻の輸送船団は、海軍艦艇に護られて、極秘裡に、東支那海の海南島基地を
進発、マライ半島上陸を目指し、偽装のため、進路をタイランド湾に向けて進んでいた。
船団の総指揮官は奇略と豪腹の名将山下泰文中将である。
十二月七日、午前四時三十分、青木飛行団の勇士らは一陣また一陣と船団を求めて薄暗い
基地を飛び立った。

ガソリンがほとんどなくなるまで飛び続け、帰還する先発の編隊交替のため、滑走路に勢
揃いする戦闘機、無電が飛び交い、翼が入り乱れ、大胆不敵のマライ敵前上陸の前日、基
地は補給、整備、通信と不眠不休の目まぐるしい活動が開始されていた。
午後四時、武田部隊は第三回目の出動で(このとき船団上空は岡田部隊)、任務を終えて帰
還中の加藤隼戦闘隊と入替りの出発である。武田部隊の編隊には、佐藤治夫軍曹(少飛五
期生)がいた。
佐藤機は編隊長(藤崎中尉)の二番機として出発。

車輪が滑走路を離れると、行手はもう海だ。武田部隊長を先頭に二十七機の編隊はぐんぐ
んと高度を上げてゆく。眼下に白雲が流れ海をおおいはじめる。
編隊長機がさっと雲に飛び込み、やわらかそうな雲をくぐり抜ける。佐藤機もつづいて巨
大な雲をくぐり、更にはるばると拡がる雲に突入した。あたり一面真白で何も見えない。
後三十分も飛べば船団の推定位置に近づくはずだ。計器をにらんで飛ぶこと七、八分にし
て、やっと、小さな雲の切目に出たとき、佐藤軍曹は「しまった」と叫んだ。すでに編隊
長機の姿も僚機も見えない。いつの間にか編隊からはぐれてしまったのだ。


219 :33:2008/08/02(土) 15:58:04 ID:JbAuXupU
「こいつは困ったことになった」追いつくすべもなく、また雲の中に入った。しばらくし
て今度は雲の上に出てみる。やはり友軍機は見えない。雲の切目をさがして高度を下げて
みた。雲、雲、雲の合い間よりちらッと蒼い水面が見える、視界も次第に拡ってきた。そ
のとき「おやっ」と佐藤軍曹は、小首をかしげ、上半身を座席から乗り出すようにして前
方を注視した。見慣れぬ飛行機が一機、はるか遠い雲間から飛び出したのである。

型が馬鹿でかく、恰好がまるで違っている。巨大な翼を拡げて悠々と飛んでいるようにさ
え見える。佐藤軍曹は、飛行眼鏡をはねのけて、もう一度確かめてみた。
すると巨大な飛行機が出てきたばかりの雲から、今度は、小さな飛行機が飛び出した。大
豆粒と小豆粒くらいの大きさで、くっついたり離れたりしている。
一瞬、佐藤軍曹は頭から冷水を浴びたようなショックを感じた。「敵だ、空中戦をやってい
るな・・・・・」

無意識のうち、エンジンレバーを開いた佐藤軍曹は、敵機へと直進した、近づいてみると、
まさしく空中戦だ。敵機に攻撃をかけているのが、重いフロートをつけた海軍の下駄ばき
機らしい。クルクル旋回しながら、双方必死の攻防戦を展開しているところだ。その頃−
すでに佐藤機は距離千メートル附近に迫っていた。敵機は英空軍の誇る、コンソリデーテ
ッドPBYの飛行艇だった。配布されていた敵機の図型と寸分違いはない。一万五千ポン
ドの巨体に七人の乗員、六門の機関砲、機関銃を搭載、航続距離五千キロという長足に物
いわせて、マライ東岸の海面を哨戒飛行中、わが海軍機に発見されたのだろう。

思いは同じく、必殺の意気に燃える、わが下駄ばき機は、発見と同時に猛然と組ついたも
のと思われる。
敵機にしてみれば、鷲にいどみかかる小雀ぐらいにしか感じまいが−、互いに空中戦には
不利な機体ながら、猛烈な機銃火の応酬を行っている。太平洋戦争の幕が切って落された
のは御存知のように、十二月八日未明というのに、早くも人知らぬ南海の洋上で大戦の砲
火が交されていたのである。


220 :33:2008/08/02(土) 15:59:59 ID:JbAuXupU
「逃がしたら大変だ」佐藤軍曹の全身に緊張がみなぎった。いまごろ、こんなところで空
中戦をやっているところを見るとまだわが輸送船団の姿は発見されていまい。
もし、ここで取逃がしたら、敵機は、ペナンかシンガポールの基地に辿り着くまでに、わ
が船団を発見するかも知れない。無電のキイに指が触れたら、上陸部隊の企図は、たちま
ち敵の掌中のものとなる。是が非でもここで撃墜せねばならない敵機だ。海軍機も秘術を
尽くして奮戦に努めているが、フロートが邪魔とみえて、まだ決定的な一撃を加えていな
い様子だ。

このとき、敵機が佐藤機を発見したらしく機首を下げて、速力を増し逃走をはじめた。
佐藤機は、敵機の進路前方に向って、先ず威嚇の一連射を放った。鼻の先を流れる曳光弾
に驚いた敵は、急に右旋回に切換えながら、トップ銃座から、さかんに応戦してくる。
空中戦に夢中であった下駄ばき機も、来援の友軍機に、やっと気がつき、敵機から離脱し
て大きく翼を振りながら上昇してゆく。

まごまごしている暇はない。佐藤機は、すばやく敵機の後上方に廻ると反転して、ピタリ
と照準を合わせ機首を突っ込んだ。敵の後部銃座、後上方銃座が一せいに火を吐いた。軍
曹はひるまず突進する。敵機がおおいかぶさるように迫る。機銃ボタンを押えて、必殺の
一撃を加えた。ダダダダッと曳光弾が左翼の付根あたりに吸い込まれるように命中した。
佐藤機の肉薄攻撃に、瞬間、敵機は、動揺を示し、同時に白いガソリンの尾を引きはじめ
た。射撃がうまく敵機の翼内タンクを貫いたのだ。ついで徐々に高度を下げはじめた。佐
藤機は、やおら急上昇反転をうつと、再び左翼付根めがけて止めの集中弾を打ち込んだ。
するとチョロ、チョロと真赤な火が見えはじめ、たちまち右翼の方へ、はうように燃え移
り、さしもの巨体も一塊の火だるまとなり、遂に、力つきて海中に失せた。蒼い海面には、
大きな渦巻きと黒い油が、ただよいはじめた。


221 :33:2008/08/02(土) 16:00:58 ID:JbAuXupU
ふと、我に帰った佐藤軍曹は、低空に舞い下り敵機の最後をみつめた。たった二撃で、高
性能を誇る飛行艇を簡単に、撃墜できるとは意外だった。いまだに、南海の洋上で、夢を
みているような気さえするのだ。だが、恐らく海軍の下駄ばき機からも、相当な傷を受け
ていたに違いない。しかし夢ではなかったのだ。その証拠には、佐藤機の鮮かな攻撃振り
に、海軍機が「よかった、よかった」と祝福するかのように、翼と下駄とを思い切り振っ
ているではないか−

もしコンソリーデーテットの通信士が、無電のキイに指を触れたら、太平洋戦争の前日、
わが陸軍の精鋭を満載した、大輸送船団の前途に、いかなる運命が待ちぶせていたことか

佐藤機も、負けずに翼を振って別れを惜しんだ。(佐藤治夫軍曹は、昭和十八年三月、南海
の決戦場、ガダルカナル島の攻撃で惜しくも戦死した。)
(おわり)


222 :33:2008/08/02(土) 16:07:23 ID:JbAuXupU
パレンバンの偵察活動     小林武久(五期)

シンガポール島の南には、ビンタン島、シンチップ島、リンガ群島など大小無数の島があ
るが、いずれもサンゴ礁に囲まれ、岸辺に砕ける白波が何とも云われぬほど美しい。白い
波に青い海、緑の島これが南方固有の景色だが、戦争という現実より離れたら、一句うか
びそうな、のどかな風景だ。私は甘い思いをたち切り、再び視線を海面に移して船影を求
めつつ飛行した。折りしも北上する二隻の船舶を発見した。が、いずれも七千トン級の大
型貨物船である。直上に侵入すると、相手は爆撃機と勘違いしたのか、面舵一ぱい急激に
旋回を開始した。船尾のウェーキが美しく円弧を画く。

パレンバン東北100粁、やがて陸地に入る。雲量は多いが、第一目標である飛行場に進
入すべく羅針方位二一〇度で飛行。ほどなく左前方遥かにムシ河の濁流が見えて来る。私
は燃料コックを胴体に切り換え、高速飛行に移行するためピッチ槓桿とスロットルを開い
て増速した高度計は九〇〇〇米を指している。在空機はないかと飛行場方向の上空を入念
に索敵したが、認められなかった。
「飛行場進入用意! 北より進入、左旋回して製油所に侵入します」と後方席へ怒鳴ると、
「準備よし! 写真機好!」との応答。

やがて積乱雲の間から褐色の滑走路が現われた。私は「進入!」と叫んで直上に進入し、
水平直線飛行に移る。後方席の写真窓が開いたらしく、ゴーゴーという音と共に冷たい風
が吹き込んで来る。点視窓から赤茶色の滑走路が現われ、両側にズラリと小型機が並んで
いるのが見えた。小型機が三機砂塵を上げて北向きに離陸した。在地敵機は小型機約一二〇
、中大型機は三六機が認められた。敵はわれわれの在空を発見し得ないのか対空火器の
射撃もなく無事に南方へ離脱することが出来た。


223 :33:2008/08/02(土) 16:09:39 ID:JbAuXupU
ついで製油上空に進入、写真撮影の上、東南方へ離脱する。進入直前には、飛行場、製油
所共に半分以上は、雲に蔽われているものと判断し、半ばあきらめていたが、幸いにも両
方ともその全容をカメラに収め得た。製油所上空では、進入より離脱まで高射砲陣地を探
したが、大小無数の石油タンクに眩惑されて発見するに至らなかった。製油所の桟橋には
六隻の小型タンカーが横着けされている。敵は平穏そのもので対空火器の射撃はやはり皆
無。

右前方遥か積雲の彼方にスマトラ島西部の山々が見えて来た。タンジュンカラン近し、い
よいよ最後の目標点だ。永い沈黙を破って後方席より「寒いですね、前の酸素は大丈夫で
すか」と金井中尉の声が冷えびえと響いて来る。いままで独りで飛んでいるような錯覚に
陥っていたが、ふと我にかえって、燃料タンクを隔てた後ろにもっとも信頼し、また敬愛
すべき機長のいることを思い出した。
「船空兵操典」には、同一飛行機に搭乗する空中勤務者は死生栄辱を共にし云々の一節が
ある。偵察飛行隊にあっては、まことに当を得たことばだ。

緊張感から、解放されたせいか、不意に寒気が身に迫って来た。高度は依然九千米。ふた
たび後方席より「酸素が一本全然駄目だ、少し足りないよ」との声に、敵地の上空とは云
え、別に隠密行動をする必要もないとの判断から、私は高度低下を決心した。レバーをそ
のままにして機首を下げると、速度が急激に増加し、三百八十粁を指す。高度は八千、七
千、六千と下り、積雲の上際すれすれとなった。指度は五千米だ。


224 :33:2008/08/02(土) 16:11:59 ID:JbAuXupU
水平飛行に移ると日射が強くなるに従い、雲量は増え逐次発達して行くので、地域写真の
撮影は少々困難となったが、南進をつづけた。高度を下げたため、前上方に対しては特に
索敵を厳にする要があった。行手に大きな積乱雲がそびえ立ち前進を阻まれた恰好だ。こ
ういう場合、右旋回すべきか左旋回すべきかは、誰でも迷いがちである。私は思い切って
右側にすなわち山寄りにこれを迂回してみた。果たせるかな、前方は大きく開け、青海原
が見えて来た。目ざすタンジュンカラン飛行場は目と鼻の先だ。情報によれば飛行場は使
用中のはず。だが、目の前にある飛行場は工事半ばではないか。爆音に驚いて飛行場の車
輌が逃げ廻る。予定通り飛行場西側より進入して、水平直線等速飛行に移り、五コースの
地域写真を撮影した。絶えず敵戦闘機の奇襲攻撃を警戒し、またタンジュンカラン港内に
碇泊する船舶を目視偵察した。

遠くジャワの山々が烟霧にけむって見えた。いつの日か、また、あの山々の上を飛ぶこと
もあろうかと思うと胸が高鳴る。左に急旋回して帰途についた。羅針方位三四五度、若干
肩の荷が軽くなったような気がする。しかし過去において多くの先輩や同僚が帰還時に撃
墜された例が多いので、再び同一コースを飛行することの愚を悟り航路をバンカ海峡にと
り、努めて著名目標上空の飛行をさけた。針路上は往航に比べ積雲が著しく発達し、海上
にもところどころに大きな積乱雲がそびえていた。

私はなおも針路を右にひねり、ムントクの南方でバンカ島を横断しジャバ海に出た。クル
ワン離陸後すでに三時間半を経過している。燃料を消費したためか対地速度が増加した。
敵地の制空権外に出たので幾分心の緊張は和らいだ。だが、不測の遭遇を考慮して高度を
下げることをつとめて避けた。依然として高度六千米。北進を続けることしばらくにして、
左前方下方かなたにシンチップ島が見え、リンガ群島が点々と視野に拡がって来た。この
付近の海域で往航に二隻の貨物船を発見したので位置を再確認すべく旋回する。だが雲の
陰にいるのか確認するに至らず若干の心残りもしたが、燃料の残量も少ないので、帰途を
急ぐ。


225 :33:2008/08/02(土) 16:13:06 ID:JbAuXupU
約十五分後右前方を九九双軽三機が南下して行った。艦船の攻撃か、戦闘機の掩護もなし
に勇敢に飛び去って行く。雲上で他の飛行機に遭うことは、われわれ司偵にとってはそれ
が友軍機であろうと敵機であろうと、あまり気持のよいものではない。確認するまでは、
追われる者の心理というか、まったくやりきれない気持だ。任務の性質上止むを得ないこ
とだが、やはり武装したくなる。

翼下は一面の雲となり、いままで見えていた青い海も消え、極めて単調な飛行と変った。
推定位置はビンタン島南方付近だ。シンガポール近し、思い切って積雲の谷間へ突込む。
一瞬、風防は真白になり、機体が烈しく動揺したが、高度千米で雲下に出た。シンガポー
ルの業火が目の前に見える。まだ残存敵機の攻撃も予想されるので、スマトラの海岸寄り
に飛行し帰途を急ぐ。マラッカの海は、今日もまた各所にスコールがあり、天蓋を滝のよ
うな雨が叩きつける。あるときはジャングルの樹上をかすめて飛び遂にクルワン東飛行場
へ滑り込んだ。

着陸後池田中隊長にパレンバン飛行場の状況を詳細に報告した。隊長は地図上に記録しな
がら聞いていたが、
「敵は相当終結しているな。これは戦闘機だけで叩いてもらわなくては駄目だ。今日は御
苦労だった」
と言って、飛行団司令部へ報告に出かける。
(おわり)

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226 :マンセー名無しさん:2008/08/02(土) 19:37:21 ID:65CTtKUn
 
大叔父は若いときに招集されて、中国大陸で戦闘に明け暮れた。
敗戦後、復員し、思い出したように当時のことを話した。

そのひとつ:
 
功を焦って、無謀な作戦を企てる上官がいると、全滅を恐れる部下が密かに始末した。
そこはよくしたもので、たいていどこの部隊本部にもベテランの事務担当がいて、
てなれたやりかたで、「名誉の戦死」 にしたてて、内地へ報告した。
 
「どこそこの部隊で上官が戦死」 といううわさは、展開する各地の部隊にただちに伝わり、
「さては、やられたな」 と兵士同士でささやきあうものだった。
 
軍隊の裏のしきたりをよく知った上官は、無謀な戦闘は極力避けた。
強い敵には、遭遇せぬよう迂回し、
もっぱら、弱い敵だけを襲わせ、後方に戦果を誇大報告した。
 
日中戦争の戦史で 「一部隊全滅(玉砕)」 という事例が少ないのはこういう事情による。


227 :高山兵長の 「名誉の戦死」:2008/08/02(土) 20:10:33 ID:LEQ2d0yb
 
1945年 (昭和20年) 8月9日
 
壕に近づくと、突然、一人の兵士に銃を突きつけられ、「止まれ」 と言われたが、僕は焦っていたので
「伝令! 高山兵長殿」 と叫び通り過ぎようとすると、その兵士は血相を変え 「待て、撃つぞ」 と言いながら、銃を構えたので、
僕はびっくりして馬を止めた。
 
僕に銃を向けた兵士が、しきりに後ろを気にするので、その方向を窺うと,十メートルほど前方に、五、六人の兵士に囲まれ、
顔面を蒼白にした高山兵長の顔がちらっと見えた。
間もなく 「うっ」 という、呻きとも悲鳴ともつかぬ声が聞こえ、一発の銃声が聞こえたかと思うと 「高山班長戦死」 と叫ぶ声が聞こえた。
  
僕に銃を突きつけていた兵士は 「やったか」 と叫びながら、その場に駆け寄って行ったので、僕も一緒に行ってみると、
高山兵長の胸からおびただしい血が流れていた。
腹からも赤黒いペンキを流したような血糊がぬらぬらと流れ出ており、兵長は息果てていた。
僕も彼にはずいぶんしごかれていたが、あまりのことに動転して伝令の任務を忘れてしまい、
伝令用鞄を高山兵長のかたわらに投げ捨て、その場を去った。
 
あの兵士たちは兵長の日頃の酷い制裁やしごきに復讐したのだろうか。
それとも彼の無理な命令を聞いて、むざむざ死にたくはないと話し合って、先手を打ったのだろうか。
一人の兵士が高山兵長の屍に向かって 「やい、弾はな、前から飛んでくるとはかぎらねえぞっ」 と罵声を浴びせていたが、
この言葉が妙に僕の脳裡に刻み込まれ、味方に殺されても 「名誉の戦死か」 と思いながら馬を飛ばして帰った。
 
 山口盈文著 「僕は八路軍の少年兵だった、第一章 満蒙開拓少年義勇軍」 光文社NF文庫 (2006) より 

228 :マンセー名無しさん:2008/08/03(日) 02:06:07 ID:3uZ4v9RC
 
おらの田舎では、集落の寄り合いの後、酒が出ると、日中戦争で出征した爺さまたちがこもごも戦(いくさ)の手柄を語り、
酔いがまわると、「戦地では村人からいかにしてブタやニワトリを略奪したか、いかにして支那女を強姦したか」、
身振り手振りで、自慢そうに若い衆に語って聞かせるものだった。
 

229 :マンセー名無しさん:2008/08/03(日) 03:02:00 ID:PI6ID70I
おじいちゃんがから日本兵の蛮行をよく聞いたよ
体験した者が言う事ははやり重いですね・・・

230 :マンセー名無しさん:2008/08/03(日) 03:57:43 ID:nfPDkQyl
>>229
その日本兵の蛮行をここに書いてみんなに教えてくれ。

231 :慰安所はどこにでもあった:2008/08/03(日) 04:39:58 ID:TIBWsmb0

父の話によると慰安所は皇軍(日本軍)のいるところどこにでもあって朝鮮人の女性が多かったという。
父に聞いた話をまとめると次のようになる。

 1) 慰安所は将校用と下士官・兵卒用に別れていた。
 2) 慰安所では兵卒・下士官は昼間利用し夜の泊まりは厳禁であった。将校は夜利用した。
 3) 兵卒・下士官は朝鮮人女性、将校は日本人女性が相手をした。
 4) 上記から人数は朝鮮人女性が圧倒的に多かった。中国人もいた。
 5) 将校を相手する女性は「プロ」で朝鮮人女性は「素人」が多かった。
 6) 多くは女衒がうまい話をして堅気の朝鮮人女性を騙してつれてきたようだ。
 7) 慰安施設は軍の管理下にあった。
 8) 交通不便な戦場を移動するには軍の保護がなければできない。

http://www.news.janjan.jp/living/0704/0704143711/1.php

232 :マンセー名無しさん:2008/08/03(日) 10:22:51 ID:aZkyhMXE
JANJANソース乙。

233 :マンセー名無しさん:2008/08/03(日) 14:05:36 ID:NkWSTZw+
JANJAN(笑)

234 :マンセー名無しさん:2008/08/04(月) 07:08:49 ID:eipuwC0q
おじいちゃんがから聞いた蛮行マダー?
体験ははやり嘘ニカ?

235 :33:2008/08/09(土) 14:27:19 ID:5zFvFJWO
生と死の間で  椿 恵文(十四期)
---「天剣」特攻隊として出勤して---

ここしばらくP51の来襲もなかった。
中国の青島からほど遠からぬ南泉という小さな部落---その村はづれにあまり広くもない滑
走路と、この滑走路から歩いて約十分ばかり離れた所に建っているレンガ造りの建物、そし
てその隅の方につくられた赤土の掩体の中に転がされているドラム缶の山、これだけがこの
基地の景観を構成しているすべてのものだった。

ここは、第二十八戦闘隊の南泉分遣隊基地で、時は昭和二十年二月、大陸特有のきびしい
寒風に吹きさらされて基地の地面はこちこちに凍りついていた。私はその夜も例のごとく九
十戦隊の名取軍曹のところに遊びに行こうとして立ち上がった。そのときのことだった。廊下
に大股の靴音が近づいて来たかと思うと、部屋の扉が荒々しく開かれ、当直士官の井上少
尉が、緊張した表情で現われた。
部屋にはいってきた井上少尉は、ふるえをまじえた大声で、
「隊長殿よりの御指示、空勤者はそのまま聞け・・・・・。本隊はいよいよ第一回目の特攻隊
編成の命を受けた。諸子はいずれも志願したいことと思う。選抜の関係上、ただ今より各人
五分おきに隊長室に行き、特攻隊、賛否を隊長殿に申告すること。順は、第一中隊より、終
り。」
息もつかずに、一気にそれだけのことを言い終ると、じろりとわれわれの顔を見廻し、くるり
と踵を返して、次の部屋に向かった。

いよいよ来るべきものが来た----私は息のつまりそうな重ぐるしさに襲われた。私たちは比
島戦で、特別攻撃隊が編成され、レイテ湾頭に散ったということを知っていた。しかし、それ
は正直のところ、何か別の世界の出来事のような感じで、現実がこのような形で、同じように
自分の身に迫って来るとはいままで少しも考えていなかった。心のどこかに敵の軍艦に飛行
機もろともおのれの肉体をぶっつけるという自殺行為をやる先輩達の考え方にはとても理解
し難い気持ちが心の隅に残っていた。だが、今それが突如自分自身の問題となったのだ。も
はや冷静な批判などはできなかった。黒い死の手が差し伸べられたような感じであった。私
はどうしていいかわからなかった。


236 :33:2008/08/09(土) 14:33:03 ID:5zFvFJWO
何と隊長殿に答えるか。頭の中は冷静な思考力を失って混乱し、ただ焦るばかりであった。
第一中隊から指示通りすでに戦友たちが順を追って隊長室へと出て行った。私の番が廻っ
て来る時間、それは長いというものでもなくまた短いというものでもなかった。私の本心は
「死にたくない」であった。私も軍人であり、特に飛行機乗りを志願している以上、死を考え、
死を覚悟していることは当然であった。だが私は自殺に似たようなことでは死にたくなかっ
た。

私は戦闘機乗りであるから、敵機と渡り合ってそのために死ぬのは本望である。これまでも
敵機と撃ち合うとき命が惜しいと思ったことはなかった。それに、もう一度内地の土を踏むこ
とができるなら、夢にも忘れられない、なつかしい母のいる内地の上空で、敵機と渡り合い
ながら死にたかった。私はこのまま特攻隊で死ぬのはいやだ。
そこで私は内地の「防空戦隊にまいりたいと思います」と、隊長に言おうとようやく、決心をつ
けた。

するとまたその決心をひるがえすような、考えが頭をもたげてくる。
意気地なし、卑怯者!嘲笑を頭から浴びせかけられそうな気がする。それは恥ずかしい。恐
ろしいことであった。たとえどんなことがあっても、そんな目に会いたくなかった。居ても立っ
てもいられないような焦りに、僅か一時間のことではあるが、身体が目に見えて痩せて行く
思いであった。だが自分の生命にはかえられない。私はふたたび先程の決心を固めた。お
のれの運命をおのれの手できめるということの苦しさを、私は骨身にこたえて知らされた。

この中から一体誰がゆくことになるだろうか。私の身辺の戦友の顔を探るようにそっと見廻し
た。腕を組んでいるもの、机によりかかっているもの、思い思いの姿勢ではあるが、すべて
のものが虚ろなる一点を、じっと睨んでいた。そして誰もが自分の魂を、生と死の間に迷わ
せていた。部屋いっぱいの重苦しい空気は胸苦しかった。私は一刻も早くこの息づまるよう
な圧迫感から解放されたかった。


237 :33:2008/08/09(土) 14:39:45 ID:5zFvFJWO
やがて私の番がまわってきた。私は立ち上がった。さすがに隊長室に向う足は重かった。ノ
ーと、強く決心したつもりであったが心の動揺は隠しようがなかった。
「椿、まいりました」
隊長室にはいった私は、こう言うのがせい一ぱいであった。私の視線は、隊長片山大尉の
鷲のように鋭い視線に合うと、思わず射すくめられたようになった。僅かの沈黙が耐えられ
なかった私は、
「特攻隊、志願したいと思います。」
と言ってしまった。何ということであろう。私は今まで考えてもいなかった言葉が、突然私の
口から反射的に出てしまったことに驚ろいた。私の言わんとしていた正反対の言葉を、私は
言ってしまってから、ハッとした。だがもう万事終ってしまっていたのだ。

片山大尉はうなづいた、そしてやさしい口調で言った。
「貴様は長男であったなあ、兄弟は弟一人だけだというのに良いのか」
「私も戦闘機乗りです。死は覚悟の上です。こうしていても明日はわかりません」
私はご丁寧にも心にもないことをつけ加えたのであった。
隊長はもちろん満足そうな表情だった。
隊長室を出ると、駄目だ!と、私は深い絶望感に襲われた。私の心は以前にもまして重くな
り、身体は逆に空中にでも浮いているような感じであった。二度と取り返しのつかないことを
してしまった。

何ということだろう、意気地無し奴!弱虫! どうして最初心に決めたように言わないのだ。
私は自分をあらゆる形容で罵倒したかった。自室に帰った私はなおも苦悩はつづき平静を
取り戻すことができなかった。


238 :33:2008/08/09(土) 14:41:33 ID:5zFvFJWO
耐え切れなくなった私は、そっと隣の戦友に声をかけた。
「どうした貴様は」
聞いてみても仕方がないことかもしれないが、聞かずにはいられなかった。
「おれか、おれは志願したよ」
彼は吐き捨てるようにそう言った。そのうち方々で同じような話がはじまった。

驚いたことには、一人残らず志願したということがわかった。私は思わず、ホッとした。よかっ
た!私一人が志願しなかったら今頃反対にどんなに心を苦しめているだろう。まさか全部が
特攻隊になることもあるまい。私はいくらか気持ちが楽になり、さき程の深刻な苦悩が馬鹿
らしくさえ感ぜられるのであった。
(おわり)

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239 :マンセー名無しさん:2008/08/12(火) 18:49:07 ID:ihiLNDX1

爆破に成功して永城に戻る途中で別の村に寄ったのですが、中国人の若い女の子が隠れているのを兵隊が見つけまして、
「報道班員殿、どうもこの女、スパイみたいなものでやってしまおうかと思うのですが、報道班員から先にどうですか」
と言うんですね。
「冗談言うな。なんでスパイとわかったんだ」
と言いましたら、携帯用の無線機が隠れている部屋から出てきたんだそうです。
どうもスパイというのは本当らしかったです。
 
娘子軍 (じょうしぐん) というのは聞いていましたが、見たのはそのときが初めてです。
その辺の農家の娘といったかっこうですが、まだ二十歳前だったんじゃないでしょうかね。
とっても美しい子だったんです。
 
「ふてえ女だから僕は強姦します。報道班員はいいですか」
とまた言うもんだから、
「馬鹿者、やめとけ。てめえの妹や恋人がそんな運命にあったらどんな気がする。」
と止めたんですが、別の家に連れ込んで辱めたらしいんですね。
 
しばらくたって、その兵隊が土壁の切れ目から女の子を外の麦畑の方に連れていくのが見えましたので、
土壁の上に上がって見ておりましたら、20 メーターか 30 メーター離れた麦畑の中まで連れていきまして、
兵隊が手を放したら、女の子が畑の中へ逃げようとしまして。
それを後ろから拳銃で射殺しました。
日本軍の拳銃じゃなくてモーゼル銃だったんです。
敵側から鹵(ろ)獲した拳銃だったんだと思いますが、銃身の長い拳銃でした。

  石川保昌、小柳次一「従軍カメラマンの戦争」、新潮社(1993) p.120.

240 :マンセー名無しさん:2008/08/20(水) 00:38:29 ID:Ta7qI11v
保守

241 :マンセー名無しさん:2008/08/27(水) 12:13:22 ID:YzkzDPec
ほしゅ

242 :マンセー名無しさん:2008/09/03(水) 21:07:15 ID:WYz0Csto
あなたのおじい様の戦争体験を教えて その20
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/army/1220201919/
が立ちました。

243 :マンセー名無しさん:2008/09/07(日) 00:16:22 ID:2QhC7IPu
ほしゅ

244 :マンセー名無しさん:2008/09/11(木) 08:51:54 ID:5cklf9E7
ほしゅ

245 :山本六平 ◆bsViUL4o4k :2008/09/11(木) 17:11:29 ID:WC+pCmzQ
明治生まれの私の祖父は、没落士族家計のそのまた分家に生まれました。
貧しくて、まあ当時としては普通のことですが当然に当時の義務教育で
あった小学校しか出ていません。
そんな祖父が生前、私がまだ幼かった頃、新聞(ウチでは朝日と毎日)や
テレビのニュースを見てよく言っていたのが、「こいつら戦争に負けると、
態度をかえやがって」という話でした。

246 :マンセー名無しさん:2008/09/11(木) 17:51:25 ID:KoMfDpsf
六平さん、もっともっと!

247 :33:2008/10/05(日) 16:27:06 ID:3/z/FOow
ひさしぶりだけど、誰かいるかな。
次はこの写真集。これで最後。

ttp://www.soutokufu.com/up/img/up584.jpg


248 :33:2008/10/05(日) 16:34:26 ID:3/z/FOow
「飛翔の青春」発刊によせて     土井 直人

大東亜戦の局面重大であったとき、諸君は忠臣、菊池氏ゆかりの地、太刀洗にあった甘木
生徒隊に殉国の志を抱いて入校された。
私はその隊長として、共に空中戦士への道を励んだわけであるが、今や懐しい思い出とな
りました。

私は、第十五期二千人が巣立ったとき、その戦力が如何に偉大なものであるかを思い、莞
爾として赴く諸君に感銘を深くしたものであります。
その諸君が、心技ともに急速な成長を遂げ、その大部分が成人を迎えるに先立って急迫せ
る戦場に特攻隊員として出撃し、殉国の英霊となられた事は誠に哀惜に堪えません。

国家の総力をあげて戦ったにも拘わらず、不幸にして敗戦に終ったことは痛痕の極みであ
るが、生き残った我々は、英霊に報いるべく、祖国復興のたて、今日まで敵なきたたかい
を戦ってきました。

幸にして日本は、奇蹟的な発展を遂げ、形の上で再び世界の大国の地位をかち得たのは喜
ぶべきことと思う。しかしながら静かにその内容を検討するに、誠に憂うべきものがある。
それは最も大切な日本精神が失われつつあることでしょうか。

諸君は、今や社会の中堅としてその指導的役割を遺憾なく発揮し、各方面に活躍されてい
ることは誠に喜びに堪えないことです。しかしわれわれに課せられている任務は未だ終っ
てはいない。その任務とは失われんとする日本精神をつなぎとめることであり、それが殉
国の英霊に報いる道なのではないでしょうか。


249 :33:2008/10/05(日) 16:36:33 ID:3/z/FOow
このたび太刀飛十五期、第十回大会記念として思い出の写真集、"飛翔への青春"を発刊す
るにあたり、編集者諸氏の労を多とするとともに、この写真集が日本精神振興の支えとな
ることを心から希うものであります。

お互い本業に励みつつ、命ある限りこの道を忘れずに、世界に尊敬される新日本の建設に
励もうではありませんか        (元甘木生徒隊々長・陸軍中佐)

昭和五十一年六月十三日
(おわり)

ttp://kissho2.xii.jp/20/src/2yoshi6575.zip.html

DLKey:shouhi


250 :マンセー名無しさん:2008/10/05(日) 19:14:50 ID:IydhonsC
33氏うpおつです
拝見させて頂きます

251 :マンセー名無しさん:2008/10/05(日) 19:29:32 ID:28s5e7ip
ここにもいるよ〜。ノシ
いただきますね。乙っす。

252 :マンセー名無しさん:2008/10/11(土) 00:49:33 ID:VdY7WzoF
おつ

253 :33:2008/10/12(日) 13:37:51 ID:/5KeMXW7
青春のつばさで翔んだ日

「この血汐で大空を染めさせてください!」

この言葉は、堤隊に配属された某生徒が、ときの航空総監、後宮淳大将に提出した血書志
願書の一節です。弱冠十四、五歳の少年たち、戦局苛酷な昭和十八年に心からなる大空飛
翔の夢たちがたく、ひたすら少年飛行兵の一員たらんと願った切々たる気持、もちろん当
時の甘木生徒隊二千名のひとりひとりの気持を率直に、純粋に表わしたものだったのです。

血書志願の事実は誰いうことなく伝えられ各班内でも、「気持は判る!俺もそうだ。貴様
もそうだろ」と中隊内の訓話時、肩をたたきあって、話しあったものでした。

いつの日だったか、ある晴天の日。土井隊長が本校から九五式初練を駆って、千bもない
甘木の校庭に着陸されたことがあった。その折、同乗飛行に選出されたのは一中隊から添
田・石田の両生徒であった。このように善きにつけ悪しきにつけ、全生徒の模範となるよ
うに叱咤激励された堤大尉の若き雄姿はなにかにつけて思い出される。

精鋭関東軍から少年飛行兵を訓育するため来られた中隊長は、陸士第四十五期生、剣道五
段は片手軍刀術のすばらしい名手、中隊対抗グライダー大会をはじめ、射撃大会、体力検
定、銃剣道大会などすべての競技種目に「敢闘精神と勇猛心をもて」と-----常にその持て
る目標を高くかかげられていた。


254 :33:2008/10/12(日) 13:38:55 ID:/5KeMXW7
同時に脚光を浴び、各中隊から常時競争視されたのが堤中隊であった。だから甘木での基
礎教科は憎らしい程苛酷なものであった。

一例をあげれば、筑後川での滑空訓練、滑空機を肩に担ぎ軍歌を合唱しての駆足往復。ま
た夜を徹しての大宰府、秋月城跡への強行軍や片手軍刀術などの心身練磨の訓練だった。
そんな生徒隊での課程を卒業した直後、休暇もなく知覧教育隊組一〜二区隊は、教官、班
長、本校転属残留組に別れを告げ甘木の校門を出たのであった。

つづきはこちらで↓
ttp://kissho2.xii.jp/20/src/2yoshi6643.zip.html

DLKey:shouhi
(おわり)


255 :33:2008/10/26(日) 12:36:22 ID:sphjxYc6
教育罰則のいろいろ

地上教育、基本操縦教育中に個々で失敗をおかした場合、体罰は個人に対しては、勿論で
あったが、集団に対しても実施された。小銃の分解手入をおこなった後、引鉄をひき忘れ、
銃架に立てたのを、班長が内務班廊下を遍る際、片手でこう捏にふれると、発条の強さで
簡単に外れるので、すぐ所持者がわかるため、慎重に注意された。
靴の手入が悪く、底に土でもついていようものなら、就寝点呼の際、靴を首からかけさせ
られ、各班を廻って報告させられた。

甘木生徒隊では、ビンタは殆どなかった。ところが基本操縦教育隊ではものすごいものだ
った。助教に少飛の先輩八期九期十期十一期の猛者達が居り、若い十期十一期で内務班長
を兼ねていた人達は特に張り切って居た。「ナニー」と言う声より先に、往復でビンタをく
らったものだった。「フラフラするな」今から考えると無理な話だが、当時は一生懸命直立
不動の姿勢をとりつづけたものだった。

飛行演習でミスがあると飛行場一周を命ぜられ、必死で走っていた。ピストから対空眼鏡
で監視されているので、あるく訳にもいかず、フラフラであった。全体的にタルンでいる
と判断されると、演習終了後、教官が立去ったのをみすますと、前支えをさせられた。最
高は三十分位で、しまいには体全体がふるえはじめ、苦しくなって腹をつくと竹刀がとん
だこともあった。また燃料置場までの早駆けもさせられたが、先着何名かはゆるされたが、
それより遅いものはもう一度やらされた。ある程度場数をふんで要領がよくなると、走っ
ていてそろそろもう一度やらされると思われる位置になると速度をゆるめて、そのまゝか
ら逆戻りするようになった。


256 :33:2008/10/26(日) 12:37:05 ID:sphjxYc6
私的制裁は禁止されたと言っても、結構皆で経験したことである。教える立場としては、
精神的、肉体的に自分の限界を知らないと実戦において、とくに空中勤務者として重大な
結果をまねくと言う考え方で徹底的にシゴかれたものだった。事実その後自分で操縦する
時になって、教育中の苦しさに堪えぬいた経験が自分の力を計る尺度となり、危険な場面
に遭遇しても、なんとかしのぐことができたものと思う。

戦後地上部隊、海軍出身者に聞いても、結構体罰はおこなわれたようで「自転車」「ウグイ
スの谷渡り」「蝉」等々、今でこそ笑い話となったが当時うける者としては実に苦しかった
ものである。
(おわり)

ttp://kissho2.xii.jp/20/src/2yoshi6781.zip.html
DLKey:shouhi


257 :33:2008/11/02(日) 13:25:52 ID:e4rWElyR
青春の飛行機雲より

空征く翼の戦士に憧れて、いくつかの難関を突破し操縦分科に選ばれた我々は、明日から
にでも飛行機に乗れる錯覚を抱いて、意気けん昂として甘木生徒隊の営門をくぐったのだ
った。
---これから展開される終戦までの波乱に満ちた人生を、十五・六才の少年の誰が想像し得
たであろうか-。

偶然から我々は三中隊になった。
負けず嫌いの中隊長土屋中尉。温厚なインテリータイプの一区隊長高橋中尉。そして同じ
く二区隊長の辻少尉。どっしり豪傑然としていた三区隊長前田少尉。剣鬼を彷彿させる四
区隊長の西岡少尉。班長は中美軍曹、桐生軍曹、岩脇軍曹、大西軍曹、広瀬軍曹、大町軍
曹という現役の優秀な下士官。その他被服や兵器、人事、文書、などの掛であった高沢曹
長、高橋曹長、中村曹長、佐藤准尉。衛生兵の安藤上等兵に岡崎一等兵。これらの人もみ
な追憶の中にある三中隊の壮々たる面々であった。我々にとっては怖い人達ばかりであっ
た。しかし、飛行兵は一丸となって燃えていた。

六ヶ月という短期間に軍人精神を叩き込むのであるから、幹部も大変なことだったろう。
我々には毎日が追い詰められたような生活の連続であった。朝八時から夕方の四時〜五時
までの教育は、十九年一月から卒業の三月二十一日までの日記を読みかえしてみると、次
の科目が列記される。国語、数学、器材取扱、航空気象学、軍隊教育令、作戦要務令、内
務令、礼式令、航空兵操典、陸軍刑法、三角布救急法、梱包積載、内線策線外線策線、防
空被服、対戦車攻撃、航空戦術、自動車発動機。その他に屋外では激しい航空体操、銃を
担いでの教練、剣術、両築橋での滑空訓練。中隊長の精神訓話。駆足は四六時中。軍歌演
習もずいぶんやった。全く一秒の無駄もない教育計画が組まれていた。あい間あい間に洗
濯や兵器被服の手入、散髪、自習。やれやれと床につくと不寝番があるし、おまけとして
非常呼集に火災呼集である。


258 :33:2008/11/02(日) 13:27:23 ID:e4rWElyR
純真でゴマカシの出来ない---つまり要領の悪い我々は、よく手を抜いて気合いを入れられ
た。虱がわいたり、皮膚病患者がでたりしたのも忙しさの中に時間の余裕を見い出せなか
ったからだ。「貴様らそれでも少年飛行兵か」といわれた時の口惜しさを今でも覚えている。
必死に歯を喰い絞ってやっていたのだが---。
体操競技大会が十九年一月九日にあり、中隊はビリから三番になった。なにせ前日、中隊
全員が田主丸町へ往復六里の駆足をやって疲れきっていた。負けず嫌いの中隊長に叱られ
たな---。「男性美をもて」と。しかし、二月十九日滑空査閲があって、生徒隊で三位になっ
たが、生徒隊長から技術は一位と誉められて大変喜んでくれたっけ。

今は亡き評論家の三宅壮一氏が、県民の性格はその領主に似る---と論文を書いているが、
その意味からすると、三中隊も負けず嫌いの気風が滲透していた筈と思う。
三月二十一日卒業式。即刻、南方と思っていたら眼と鼻の先の目達原教育隊へ。色黒く眼
光鋭い週番士官の細野少尉に、「貴様らのくるのを、首を長くしてまっていた---」の獅子吼
から始まった。個人外出のなかった四ヶ月間の赤トンボユングマンとの生活。
三中隊二○四名のうち、甘木から目達原教育隊を終るまで、淘汰されたもの数名。あとは、
戦闘、爆撃、偵察の各分科に分れ、日本内地には司偵の三名と助教要員、筑波滑空戦隊へ
の若干名を残して、はるばる遠く南方に大陸に別れていった。やがて教育戦隊から、戦局
急を告げる沖縄へ特攻として幾人かは散っていった。


259 :33:2008/11/02(日) 13:28:45 ID:e4rWElyR
先輩からみると、速成教育で質の悪い少年飛行兵であったかも知れない。が、やがて、命
令に臆することなく、敢然と任務に殉じていった。戦争が長びいていたら、今生きている
我々もきっとそうであったろう。

南方の教育戦隊に赴任の途中、輸送船が敵潜水艦の魚雷で沈められ、雄画むなしく船と運
命を共にした戦友。訓練中に事故死した幾多の戦友、その方々の冥福を衷心より祈る。

ttp://kissho2.xii.jp/20/src/2yoshi6856.zip.html
DLKey:shouhi


260 :マンセー名無しさん:2008/11/06(木) 13:54:08 ID:ZK6nFxVK
ほう

261 :33:2008/11/09(日) 16:59:37 ID:Apimbi3o
四中隊の一期一会より

国のため若き生命を散華し靖国の神と祀られし友を偲びつつ思い出をここに記してみよう。
戦雲たけなわの昭和十八年十月、希望に胸を膨らませつつ国の御盾とならんと、少年飛行
兵に志願し採用された第四中隊二百名は、甘木生徒隊、隈之庄教育隊、各練成飛行教育隊
へと北飛南翔したのであった。
教官助教の方々に報いる術は立派に死ぬことであり、生死観はと問われし時は忠の一字を
もって生死観となすなど純心な我々は大空を思う存分飛翔し死して悔を残すことはなかっ
た。その間、気兼なく語り合える知己を得て人生に大きな楽しみをもたらして呉れた。
甘木時代の日誌から抜粋してみると、

○月○日/階上階下班、対抗騎馬戦で階上班が負け川上第三班付怒心頭に達し階上班全員
鍛錬棒で罰ちよく:あゝ情けなや負けられぬ。
○月○日/楽しい滑空機訓練迷パイロット在り河野区隊長にぶっつける区隊長重傷にかか
わらず立上るその気力精神たるや範とすべし:一同その精神力に感嘆。
○月○日/整備教育、寒い寒い実習場、教官の講義長く休憩なし我慢に我慢の小便ついに
爆発:あゝ軍隊は厳しいね。
○月○日/待ちに待った外出喜び勇んで出発、食堂に入るな。映画を見るな。いったい何
したらいいの:丸山公園で日なたぼっこ。
○月○日/非常呼集で大宰府行軍うれしかったね某生徒前日から腹痛あえぎあえぎの行軍
でなんとか完遂夕食モリモリ:若さだね。
○月○日/甘木の部落が家事だ火災呼集先頭の某生徒御真影を奉じて非難:立派だね。
○月○日/軍人勅諭を憶えたか、班長の質問に一同ハーイ、一人一人にいわせたら暗誦し
ているもの皆無班長カンカン全員寝台にダウン:軍隊は迂闊に返事も出来ないね。
(後略)

ttp://kissho2.xii.jp/20/src/2yoshi6931.zip.html


262 :33:2008/11/23(日) 15:36:59 ID:mZ3Kfpve
わが五中・二○四名の奮斗記

われわれ第五中隊の生徒二○四名は、昭和十八九月下旬、一週間前後して東航、大津航よ
り入隊して来た。中隊長殿、前田大尉以下将校団東中尉(中隊付)、第一区隊長清水中尉、
第二区隊長中村中尉、第三区隊長馬場少尉、第四区隊長宮田少尉、内務係吉田准尉。下士
官団は内務班長六名中隊付班付含め計十一名の諸上官はいかめしく且つ温かく迎えてくだ
さった。

以後三月までの六ヶ月間の猛訓練を誓って十月十一日の入校式を迎えた。わが中隊の特徴
は甘木生徒隊の中央部に位置し、戦略的見地からして地の理を得たというか行動半径、何
をなすにも便利至極。即ち「飯缶上げへ」「入浴場へ」「物干場へ」「校庭の速駆け」・・・・
特別な作業時に於いても。学科教育はさておき軍事訓練については特に他中隊に比べて劣
らず激しかったが、今にしてもありありと思い出されるのは丸山公園裏の小山や池の辺、
あるいは秋月城址に近い古戦場の山における山岳戦演習であり、大休止時のおだ上げであ
った。班長殿は特徴ある方々の集りで地方弁丸出しに面白おかしく体験談など兄貴弟分の
間柄で御教授受けたものであった。

次は滑空訓練。特に校歌にもある水清き筑後川河川敷に於ける訓練については分解運搬の
往復苦しく、組立面白く、曳航又苦しく操縦乗組み時、壮快と暑い汗冷たい汗の入りまじ
った一種独特の気分であった。一月の生徒隊内の運動会では五中隊優勝、特に銃剣術と角
力には力が入った。


263 :33:2008/11/23(日) 15:38:11 ID:mZ3Kfpve
梅の香匂う三月十三日大宰府天満宮へ非常呼集による早朝行軍。参拝後帰隊途中、一頭の
赤牛が袴章の「赤たん」を見て興奮したか、猛然と列中に突込まれ中隊長以下列を乱し、
大あわてのあと平然と隊列を組み直し、豆だらけの足に泥まみれの軍靴を引きずりながら
夕もやの甘木へ帰ったものであった。同じ月、三月末、初練が本校より飛来し、土井直人
隊長操縦による校庭よりの離着陸。あのせまい校庭でよく出来たものだ。その排気の匂を
かぎながらやがてあと一ヶ月で、俺達もあの匂の中でやるぞと身を引締めたものであった。

前後して機種、任地の志望の用紙配られ、胸に秘めて任地「南方」機種「戦斗」第一、第
二・・・・・・・など書いて出し卒業証書受領となる。三月二十一日、晴れた甘木生徒隊五中隊の
窓の明け方が整然と美しい。五中の前庭に何と言う樹か根を張って居たな・・・・六ヶ月長い
のか短いのか。とにかく、軍事・学科・整備・滑空・体育と基礎課目は一応修了。卒業証
書「太刀洗陸軍飛行学校長少将近藤兼利?」航空総監賞には程遠く、中隊で二名の戦友の
時計を拝見させていたゞく。過ぎ去りし日の短き事よ。

三月二十六日、甘木駅頭の別れ、中隊長殿以下教官助教殿の見送りを受け、教育飛行隊へ
胸ふくるゝ思いとお世話になった上官殿へ別離の思いで敬礼。生徒隊の甘木、滑空機の甘
木。懐かしい甘木へ別れの敬礼。六ヶ月前丸坊主で飛込んだ少年は今陸軍航空の一員とし
て「赤たん」より脱皮せんと甘木を巣立つ。滑空機より九五練え、甘木より黒石原へ。文
字通り紅顔は蒼空を望みて。懐しの青春の一コマである。

甘木に於ける第五中隊の思い出のあらましは、以上であるが、その後終戦復員迄について
簡単に中隊の戦友達の流れについて記録をたどろう。吾々の操縦訓練は特殊な滑空飛行隊
行き一部を除けば全員熊本の黒石原教育隊に進んだ。三月二十七日より七月十七日の正味
三ヶ月半即ち約百日間である。休日が月四日として差引八十五日。当時濃縮という言葉が
あったかどうか。それがぴたりと当てはまる期間であった。全く濃い内容の操縦訓練であ
ったと思う。


264 :33:2008/11/23(日) 15:39:57 ID:mZ3Kfpve
先づ入隊したとたん甘木では味わった事もない顔がねじ曲る様な鉄拳を頂戴してこりゃ、
この先どうなることかと話し合ったものである。五時間で単独が出た十五時間目に単独!
など単独飛行が最大目標で頑張った。又、飛行場早駆けの思い出もおもしろかった。何か
の間違いで飛行服「冬」の上等を着た奴が夏服の連中と一緒にやらされた時の顔。汗と疲
労で土色だったな。九五練二型操縦訓練。い・ろ・は・に・ほ・へ・と・ち・り・ぬ号機
迄あって毎日菊池平野の真中を片翼に有明の海、片翼に阿蘇山を投視し乍ら夢中で飛んだ。
やがて小さな赤い吹流しを両翼にたなびかせて飛んだ単独飛行の日の感激!

特殊飛行の段階では、熊本の地面と阿蘇の煙が交互するような思いも「失速対応処置」き
りもみ!三ヶ月半の期間に於ける強烈な印象である。甘木に比べあまりにも訓練のみの印
象が九五練通称「赤とんぼ」の姿とだぶって思い出される。桜の咲く時に入隊し夏七月中
旬に終了。

全くあわたゞしく・・・・・・。一部内地。朝鮮へ、あと主力は南方軍マレーとジャワの教育隊
へ配属となる。
途中目達原経由し、佐世保海兵団から軍艦「榛名」で或は空母でシンガポール迄、その後
は、マレーは第四十四教、ジャワは第三十四教から三十七教等で九九高練或は直協などに
よる訓練がつづく。

多少精神的なゆとりも出来て各人それぞれ酒、女などのエピソードをちらほら聞くのはこ
の頃、昭和十九年暮から二十年春にかけてか。四月に例の沖縄特攻要員集合で、マレー、
ジャワの同期がシンガポールで再会の一件があったが、幸か不幸か不発にして原隊復帰。
再度、七月上旬、空輸による内地行が実行された。このあたりから征く者残る者、又征く
途中仏印あたりで足止めを食う者、終戦直前内地着任などあり誠にあわたゞしい七月八月
であった。


265 :33:2008/11/23(日) 15:51:12 ID:mZ3Kfpve
即ち終戦を聞いた五中隊の諸兄は、この頃はもうアジア全地区に展開して居た事である。
終戦・・・・・復員迄の過程は種々様々。例えば南方の連中、作業隊即ち使役に連日出て英軍の
兵舎の掃除、飛行場の整備、又は南の島レンバン島、レンガム島で畠作り、港湾作り、道
路作りで集団のロビンソンクルーソーの体験を一年乃至一年半つゞけた者も居る。
思い出せば一人でも数え切れない体験談の山、ましてや中隊二百余名の甘木を出てからの
復員迄の経路は膨大な記録になることであろう。

特に韓国に北鮮に台湾に帰国した戦友は大変な御苦労がつゞいたことであろう。
以上事実の列挙であったが、年月順に流れを書き出しただけで当時の紅顔が浮び若々しい
軍歌の響が聞えてくる様である。出来るなら歴史を止めて書きつゞりたい・・・・・
熱と意気と若さの青春の一コマである。

ttp://kissho2.xii.jp/20/src/2yoshi7065.zip.html
DLKey:shouhi


266 :33:2008/11/30(日) 13:06:48 ID:i7/iJ1k+
ある班長殿の話

彼は台湾出身で終戦の混乱期、帰郷するところもなく長い間の苦労の後、大阪で立派に
成功している。彼のことばをしばらく聞いていただきたい。

「日本の映画、テレビは軍隊の悪い所を大げさに取扱い、良い所は少しも取り上げない。
確かに悪い下士官、将校も居たが良い人も多勢いたのだから、たまには良い方も取り上
げてもらい度いものだ。」

少飛の試験に合格し、台湾を出発するとき、母が胃散の薬の罐に砂糖を入れてくれて「日
本では冬、雪が降るから雪と一緒に喰べると美味しいよ。」といって荷物の中に忍ばせてく
れた。入隊以来、私物の中に大事にしまって置いたところ、私物検査で班長に見つかり、
「貴様!砂糖をかくし持って居るとは何事だ」と叱られ「実は母親が雪にまぜて・・・・・」と前
記のお袋のいったことを班長に話しをすると、班長は胃散の罐を没収して、下士官室に引
上げてしまった。何か月か過ぎた或る日「下士官室へ出頭せよ」との命令があった。

当時、呼出しがある時は怒られる時が多く、何で叱られるのかとビクビクして下士官室に
入ったところ、班長が「窓から外を見ろ」といった。そういわれなくても、今日は日本に来て
初めて見る雪景色を班内より充分堪能して居たところだった。窓より班長の前にもどると、
「腹をこわすな」といって小さな罐を机の上にポンと置いた。良く見ると見覚えのある胃散
の罐だ。演習、学課等忙しくもうすっかり忘れていたあの胃散の罐である。班長は私の言
葉をおぼえて居てくれて、雪の降る今日迄大事に保管して置いてくれたのである。

外に出て砂糖と雪を一緒に口にほおばった。たしかにうまい。二口目を口にしたとき、お袋
の事、班長の気持が頭の中に交錯し胸一杯になり涙がとめどもなく流れてきた。
三十年前のことであるが彼は昨日のことのように目頭に涙をためて話してくれた。


267 :33:2008/11/30(日) 13:09:02 ID:i7/iJ1k+
私が隈之庄教育隊にいた時、先輩の十期長島伍長に十日程飛行訓練を受けたことがあ
った。いつものように緑川上空に高度を取り垂直旋回を始めた。機体を水平線に垂直に
倒す、操縦桿をぐっと引く、方向舵で調整しながら水平線を切って行く、左垂直旋回を始め
る、一回でうまく行った。長島伍長の「よーし」の声、操縦はいささか得意であった。

続いて右垂直旋回を行った。機体を右に倒す、左と同じである。左の時は水平線を直線に
切れたのに今度は水平線が上になり、足で調節すると下になり鋸切り型なってしまう。助
教が「俺がもう一度やる。良くおぼえろ」見事に水平線が切れる。「判ったか」「はい」伝声
管を通して大きな返事をしたが、何回やっても機首がかすかではあるが地平線を上下す
る。助教の「もう一度やって見ろ」「まだだめか。もう一度やって見ろ」声が涙声である。私も
思わず涙が出て来た。

それからしばらく二人とも泣きながら操縦桿を握り必死になって練習をした。気持ちが一つ
になった様な気がした。やっと何とか出来る様になり飛行場にもどった。予定より十分以上
飛行時間が遅くなって居た。


268 :33:2008/11/30(日) 13:10:00 ID:i7/iJ1k+
昭和十九年六月頃、長島伍長は前線へ飛び立っていった。其の後、戦死との報を耳にし、
がっかりしてしまった。戦後ぜひお墓参りをしたいと思い、色々と人に尋ねたが判らず、や
っと昨年、長島伍長の同期である松川氏に会い住所を聞くことができ、埼玉県比企郡嵐山
町大字越畑のお宅へ訪ねることができた。ご両親もすでに亡く、お兄さんがお墓を守り、
心よく近くのお墓に案内してくださって、いろいろお話しを聞くことができた。

長島伍長は言葉に時々静岡なまりがあったので静岡の出身と思っていたが「隈之庄に行
く前に天竜の飛行場に居たので、時々なまりが出たのでしょう」との事であった。
墓標に故陸軍曹長、長島四郎の墓「浄空院天忠孝道居士」昭和十九年十月十八日アン
ヘレス上空に散る。
三十一年振りに念願が叶い感無量であった。

ttp://kissho2.xii.jp/20/src/2yoshi7137.zip.html
DLKey:shouhi


269 :33:2008/12/07(日) 14:33:41 ID:j0+AMTR3
中 秀夫の遺書より

二〇年四月一日、米軍はついに沖縄に上陸し、戦況は悪化の一途を辿った。
 そして、四月二八日、猛烈な対空砲火の弾幕をかいくぐり、特攻七七振武隊は一機、そ
してまた一機と、敵艦めざして突入していった。七中隊出身の中秀雄、鈴木三男、寺尾正
通の三名は、この中にいた。
 これより一ヶ月前の三月二五日、太平洋の波浪がまともに寄せる、九十九里浜、その中
間に位置する横芝町には、桜の花が美しく咲いていた。この日の三九教飛は早朝から、緊
張感がみなぎり、飛行場の周囲には近在の多数の人々が集まり、人垣が作られた。七七振
武隊が出撃基地に出発する日であった。特操出の須山少尉を隊長として十三期一名、十四
期五名、十五期五名の編成は勇躍飛び立っていく。見送る人々は一斉に日の丸と、桜の小
枝を高く高く力強く振っている。たぶんバンザイの声は言葉にならず、見つめる目は涙に
溢れていただろう、悲しく痛ましい日であった。


270 :33:2008/12/07(日) 14:36:01 ID:j0+AMTR3
中 秀夫の遺書(原文のまま)

秀夫事、此の世に生を受けてより二十年間、可愛さ一念を以て育て下されたる大恩は大空
より高く海より深い物が有ります。
秀夫は、今迄何一ツ不自由なく過し得たる事は、御両親様の大恩に依る外有りません。今
迄大恩を受けるのみで恩返しの一つも出来得ざる事を深くお詫び致します。然し秀夫は今
その万分の一の恩返しを、一命を君国に捧げる事に依って出来得ると思うのであります。
秀夫は決して無駄死をするのでない事を中家一族に依って喜んで下さい。一機一艦を必ず
や轟破し御両親様に満足して戴きたいと思い今迄頑張りました。必ずや日本一の母にし
て見せます。我等同期生早くも一機一艦を轟破したる者が数名居ります。我等振武隊も決
して負けざる如く最後迄頑張って、一命を有意義に捨てる覚悟で有ります。御両親様にも
何卒秀夫の働きを見てほめて下さい。母上には心配の性質ですが、決して取乱して下さら
ぬ様にして隊員の母たる自覚の本に、お身を御大切にして永く兄上方より楽しく過して下
さい。
その他口で述べたる事を実施下され度し、最後に中家の万歳を祝って秀夫は出発いたしま
す。

振武隊員
陸軍伍長 中 秀夫
御両親様へ


271 :33:2008/12/07(日) 14:36:36 ID:j0+AMTR3
石塚中隊長は戦後、病死されたが、現在七中隊出身で、消息の判明している者は、上官を
含めて八五名。外に戦死者一三名、戦後物故者四名である。七中隊は甘木からほぼ全員が
京都教育隊に移り、四ヶ月後には各部隊に散った。四八年五月に入隊三〇年を記念して、
第一回の七中隊会を東京で、第二回を京都で開催し、再会を喜び合った。そして散華した
友の冥福を祈った。

http://kissho2.xii.jp/20/src/2yoshi7203.zip.html
DLKey:shouhi


272 :マンセー名無しさん:2008/12/07(日) 19:04:41 ID:I7sZ4dRr
まいど乙!

273 :33:2008/12/14(日) 15:03:12 ID:wzK+dQ3J
最後の特攻作戦に戦死十四名

殉国の誓いもあらたに、甘木の校門をくぐった昭和十八年10月のあの日から、すでに三二
年余、今日この平和な故国に生き永らえて回顧の筆をとろうとは、思えばまことに感無量
なものがある。
わが第八中隊は、牧山福四郎中隊長のもと四個区隊六個班の編成で、区隊長は第一区隊安
藤中尉、第二区隊熊谷少尉、第三区隊岩瀬少尉、第四区隊朝日少尉、生徒は二○○名であ
った。

ここでわれわれは六ヶ月にわたり、きびしい地上教育をうけたわけである。
本来、少飛の地上教育は一年半以上を費していたもので、それを三分の一の期間で同等の
域まで到達させようというのであるから、訓練の内容もおのずからうかがい知ることがで
きようというものである。まさに体力にものを言わせ能力の限界に挑むかのような毎日で
あった。

そんななかで、今日なお鮮烈な印象となって残るのは、寒風の中での乾布摩擦ならぬ亀の
子タワシ摩擦、筑後河畔の二本ゴム索による爽快な滑空訓練、砂にまみれた空中回転、そ
して前回旋、後回旋、体前倒、蹲踞、体前屈といった長くむずかしい号令の航空体操、回
転焼お目当ての外出等である。

昭和十九年四月、甘木の教育を終え、上等兵となったわれわれは、ここで大刀洗本校組と
木脇教育隊組に二分され、それぞれユングマン、九五式中練によって四ヶ月間の飛行訓練
を受けた。
ここの期間中、特筆すべきできごとは、わが中隊最初の犠牲となった宮本照雄君の殉職で
ある。宮本君は木脇において五月雨のなか、飛行中止命令の一瞬のおくれとエンジン不調
という不運が重なり、壮途なかばに十七歳の生涯を終った。


274 :33:2008/12/14(日) 15:03:50 ID:wzK+dQ3J
いわゆる赤トンボを卒業すれば、いよいよ実用機である。
戦闘、偵察、爆撃と各分科にふるい分けられ悲喜こもごもの中を、助教要員として内地に
残留する少数の仲間をうらやみながら、朝鮮、比島、台湾、マレー等各地に送り出された
のである。そして戦況日を追って悪化する中にあって、消耗品といわれながらも若鷲とし
て成長、索敵に、哨戒に、船団護衛に特攻にと少年の血を燃焼させたのである。

特攻七生昭道隊員としてマレーに散華した大村俊郎君、振武隊員として沖縄の米艦隊群に
立ち向った芦立孝郎、有馬達郎、大橋茂、田中瑛二、山中太郎君など、今日判明している
甘木八中隊出身の戦死者は十四名を数える。

浅薄な時代風潮とはいえ、今日の平和日本が亡き戦友の犠牲のうえに築かれたものである
ことを想うとき、われわれはしずかにともの冥福を祈るとともにその遺勲をしのび、その
精神を次代に伝えるべき終生の義務を痛感するものである。
この写真集の編集にあたり、岩瀬、早坂両元教官および同期の有志諸兄から、貴重な資料
の提供など物心両面にわたって、絶大なご援助をいただいたことを付記しておく。

ttp://kissho2.xii.jp/20/src/2yoshi7274.zip.html
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