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■死刑反対派と賛成派の対談スレ■Part12

491 :傍聴席@名無しさんでいっぱい:2009/08/26(水) 02:37:01 ID:HqnRykgM0
>>475,>>477
>「ブッダ」本当に読んだのか?
→手塚治虫は「ブッダ」をあくまで、自身の目で捉えたブッダであって、
史実や経典に完全に忠実ではないとしています。
しかし、原始仏教(根本仏教という呼び方が相応しいと思うが)の経典を知っていれば、
どのエピソードが相関するのか容易にわかります。
私がブッダが「人間らしい」と表現したのは、他の宗教の教祖と比べてということです。
イエスは水の上を歩いたりとか、死人を蘇らせたりしています。
そして極めつけは、死んで三日後に生き返り、弟子達と会話などを交わしています。
ブッダはそういうことがないのです。マンガではフィクション(喩え噺)として、経典の書かれていることを
敷衍しているだけです。それにそれとて、釈尊がスーパーマン的力を発揮しているのではないのです。
経文に書かれている「悪魔との対話」なども、あくまで象徴的意味だと容易に想像できます。
>ルリ王子ビドーダバの釈迦族征伐を「仕方がありません」と受け入れている。
→それは史実でもあります。
正確に書けば、コーサラ国ルリ王ビドーダバが釈迦族を殲滅しようとしたとき、
王は道で坐禅をしている釈尊に出会います。
王は何故、坐禅をしているかを尋ねると、それとなく親族を憂えてのことと答えます。
それを聞いて、王は軍勢を引き返します。それが、三度続いきました。ところが、四度目はなかったのです。
もう、そのときは、釈尊は釈迦族の滅亡をどうすることもできない、とわかっておられたのではないか、と思います。
つまり、イエスが反政治というときは、「俗世間の政治権力者と戦っても、信仰を守る」という意味で、
反政治的だったのです。(無論、後世は教会自体が俗化してしまったが)
ところが、釈尊の場合は、全く政治権力者を毛嫌いしていたわけではなかったものの、
反政治というより、非政治的だったのです。
これは、非暴力主義にも通じます。
「ものごとにこだわらない」とは、「ものごとへの執着心こそ苦悩の原因」とした釈尊の
苦悩の解決法だったのです。
我々が住んでいる現在の地球文明は、ほぼ西欧キリスト教文明に席巻されているといっていいでしょう。
そこにある根底の哲学こそ、「欲望」=こだわりをよしとする考え方です。
カーク ダグラス主演「ウオルストリート」で、ダグラス演じる株の仲買人は
「Greed (欲望)is good!」という場面があります。
その裏には「他人を犠牲にしても、幸福を手に入れたい」であり、「競争こそ活力の源」とする、
ある意味、戦争論なのです。
もっとも、いい意味では、それは、クラ−ク博士の「Boys be ambitious!」にも通じます。
もしも、ブッダの教えに忠実であれば、文明は発達しなかったかもしれません。
しかし、地球生物史からすれば、人類の存在こそ災厄そのものだったかもしれません。
仏教では、「少欲知足」とも教えています。あんまり、あれもこれもと欲望を膨らませることは、
人間にとって幸福なのだろうか、という問題もあるのです。
現代文明が行き詰まりを見せている中、別のパラダイムがあってもいいのではないか、ということです。
死刑存廃問題に話を戻せば、
「死刑囚を憎み、赦せず、何としてでも正義と鉄槌を下さなけれな気が治まらない」
というのは、「こだわり」であり、その苦悩を原因は自身の心の中にこそあるということです。
もし、凶悪犯が捕まり、社会復帰の可能性がなければ、
わざわざ殺してまで、溜飲を下げる必要はないということです。


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